2011年5月9日月曜日

古希を迎えて

沖縄の習慣に従い、子供達が私の古希を家族だけで祝うことにした。生まれて初めて誕生日を祝ってもらった。くすぐったい感じがした。別に嫌な感じはしなかった。振り返って今日まで歩んだ人生の記憶に残るのを記しておきたいと思っている。
幼いころの記憶の中にウシと一緒に船の中にいたことを記憶している。母は僕を実家に残して日本に出稼ぎに行ったのです。残した僕が恋しくて叔父の翁長さんに連れて行ってもらい、その船旅の記憶でした。母と一緒に暮らしたなかに大阪のある川べりで従兄弟の安雄と遊んだ覚えが薄っすらと残っています。僕が手におえないやんちゃで沖縄の実家へ返されたのです。僕が小学一年になり栄養不足で、学校から特別に食事の時に豆腐を与えられていたことも記憶にある。担任の先生が家庭訪問の折、母が僕のことを尋ねた時、あの子の目を御覧なさい、大きく生き生きしているとの返事でした。それでも解るように痩せて目だけが大きかったようです。あだ名もメンタマと頂いていた。第二次世界大戦中は学校では訓練だけで、僕ら学生も竹やりの訓練を受けるのが日課でした。アメリカ兵が沖縄に上陸し部落民はそろって山へ避難した。馬や家畜の餌もなく、殺して食べた。母は自分の家の様子を見にと昼間に村へ降りてきた。夜、日本兵に何故村へ降りたんだと散々愚痴を言われた。
敗戦となり山から降りて来ると家には中部から逃れた避難民が住んでいた。出すわけにもいかず一緒に生活した。食料が不足し、戦果といってアメリカ兵の駐屯する西海岸にそってゴミ捨て場に捨てられたアメリカ兵の洋服や食べ物を拾いに行った。その途中、山を越えて行きますけど、4人の死んでいる人に出会った。初めて見る西海岸の部落の下で今でも記憶に残っている。
間もなく学生生活が始まった。僕は四年生に入学した。教科書もなく帳面もなく、何を勉強したのか覚えがない。見知らぬ避難民の生徒も一緒でした。僕らの担任は知名定善先生でした。記憶に残るのは話し手で、世界文学の「ラ・ミゼラブル」や「鉄仮面」などを巧みに語って聞かせたことです。すごく迫力のある物語で忘れることが出来ず覚えております。
その後学制改革があり、四年生から中学三年生に編入され勉強よりも校舎造りに駆り出され、トラックでヤンバルの東村までピアノを取りに行ったこともある。
そこを卒業し、宜野座高校に入学し何とか勉強するようになった。担任は体の大きい先生で、生徒を殴る癖があり、僕は先生が憎かった。その怒りの目でじっと見つめていたらそれに気づき、なんだ国吉の目つきは、といわれた。その頃から反逆心に燃えていた。自然と占領軍のアメリカを憎むようになっていた。政治にも関心をもつようになった。
その頃、近親呼び寄せでのブラジルへの道も開けてきた。映画で見るアメリカ西部劇がたまらなく魅力があった。平原でウシを追うのんびりとした暮らしが気に入った。
1951年11月に村人に見送られて部落を後にした。途中の海や山をまたと見ることがないと思うと涙があふれてならなかった。那覇から軍用機で羽田に着いた。あの頃はまだ講和条約が出来ておらず、アメリカの支配下にあってすべての手続きはアメリカ領事館を通じて行われた。横浜港から船でサンフランシスコまで行き、そこから飛行機でニューヨークに、そしてパン・アメリカン機でブラジルに着いたのが12月12日でした。
それ以後のことはいたるところに書き記している。
さて、僕の歩んだ人生は誠に恵まれていたと思っている。着いたところパラナ州は気候に恵まれ、土地に恵まれ、ブラジルでも作物生産の豊富なところだ。一時期、祖父母と暮らした時が人間的に苦しかったことを除けば、すべて僕たち家族を温かく迎えてくれた。
72歳の古希を迎えて僕は本当に幸せな人間だと思っている。多くの子達に恵まれ、何の不足もなく生まれ、成長し、結婚して孫たちを育てている。神様が許すならば孫達が成長し結婚して独立するのを見届けたいと思っている。出来なくとも幸せに生きたので有難いと思っている。人生あらゆることに出会いますけど、すべてが体験によって心を豊かにして、情緒豊かな人間を創りだすと信ずるのです。

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