2016年2月28日日曜日

    小説  土地

    
  戦後移住者には先祖代々続いていた働く場所を
  失い移住した家族がおる。
  日本では炭鉱が廃坑になり働く場所がなく移住
した家族。沖縄では戦後米軍用地に接収されて
働く場所がなく移住したのがおる。
  新里哲夫の家族もその一家族である。新里家は
祖父の代で働き者だったと語られている
琉球王朝時代までは土地は王家のものだった
明治になり所有権が交付された。土地が課税
の対象になる噂が出て所有権を拒む戸主も
あった、哲夫の祖父は先見を先取りして多く
の土地を所有した村一番の地主だった。
戦前は日雇い人を使って砂糖キビを栽培して
いた。戦後米軍の普天間基地に接収されて
  家族は働く場所を失った。
  経済的には借地料は土地の収入よりも多く
恵まれた生活ができた。  
戦争で家も失いアパート暮らしをしていた
 自分の家を新築したくても基地を明け渡される
のを待ってふみきれなかった。中でも心を痛
めたのが環境問題。軍用地代が生活を豊かにして
 若者達が昼から酒場に飲み放題でお金を使い
 働く意欲を失っていた。
 哲夫は長女十二歳を頭に男子二人と女子二人
 が教育時期を迎えていた。将来が思いやられた 
 新里家の親戚でブラジルの北パラナに土地を
持っていたのを幸いに手紙を書いた。
 内容は所持金も十分あり子供の将来を考えて
移住したいとの事だと説明した。
家内の栄子と子供を含めて海外移住を語り合った
 栄子は爆撃機が空を飛ぶごとに忌まわしい戦争
 当時を思いだされた。長女をおんぶして中部の
 激戦地をのがれて北部のヤンバルへの疎開だった
 当てもなく群れをなしての行進で僅かの
食糧と着替えを持って宜野座村にたどり着いた
村人は山奥に避難して村はずれに空家があった
ので、一夜を明かす事に決めた
哲夫は防衛隊に参加したけど妻の栄子の後を
追って宜野座まできていたけど米軍に拿捕された
哲夫の父は最後まで家を守る為に残った
食糧も亡くなり。これ以上逃避も不可能と悟り
何とか食べる芋をさがした、二日は何とかすごして
三日目にはアメリカ軍が宜野座まで進駐してきた
宜野座には米軍による病院が設立されて、住民の
治療に当たった。中部の激戦地から負傷した住民
が送られていた。
亦住民から看護や炊事に働く女子を募集して
食糧が与えられた。栄子が病院に働いている時に
偶然にも哲夫の母がけがをして入院していて
栄子にあう事ができた。
母ウトさんの話では夫は家で爆撃受けて死亡した
と語った
家主の老夫婦も山からおりてきた家に見知らぬ
親子が住んでいるのにびっくりした、栄子は
普天間から激戦地をのがれてこの家まで辿り
ついたことを説明した。
戦争はお互い助け合って生き延びるのだ。お互い
我慢しようと快く受け入れた。老夫婦は一歳の
晴美を孫の様に見守った。.栄子が病院の
炊事場で働く間も晴美を守ってくれた。帰りには
 アメリカから送られてきた支援物資の中から
 洋服や子供服など食べ物まで持ち帰り家主を
交えて分け合った
終戦になり普天間の近くに移り住んだ
たった四か月の逃避行がいまでも爆撃機が空を
飛んでいるのを看ると過去が現実のように
思いだすのです
平和になったのに戦争の恐ろしさが頭に
 住みついている。栄子は老後だけでも戦争を
 忘れて暮らしたいと外国移住に賛成した。
 晴美は学校の社会科で外国を知り、外国行きに
賛成した。残り三人はまだ分別がなく親に
従った。二か月すぎて叔父から返事がきた。
内容はあれだけの資本をもってくれば、叔父が
今日まで働いて得た土地が十分所有できると
あった。
叔父が引受人になり移住の手続きを始めた。
家族四人が神戸の収容所をえてパラナについた
のが九月の半ばだった。
叔父の空家に当分住むことになった、食事は
慣れるまで一緒にした、
晴美と弟は航海中も英語やポルトガル語を
勉強していてブラジル学校に入学した
幸いにも川向かいのコヒー園が売りにだされていた
叔父は条件は運が良いといわれて、哲夫は買う
ことにした
ブラジルに来て事情も分からず総て叔父にまかせた。
コヒーの収穫が終わったばかりで来年までの
管理にお金がいるけど銀行から融資も出来ると説明」
叔父は説明した。ある日晴美が学校から帰って
あのブラジルの学校は日本より遅れて四年生で
日本の掛け算を習っている、と母に語った
栄子はとにかくポルトガル語を勉強して来年は
四年の資格をとれば中学に入れると言われた
栄子は移住して子達がブラジルの大学を卒業
できることを願っていた。
哲夫も日系二世のようにブラジル人に負けない
社会人になってこそ、土地を棄ててやって来た
甲斐があると考えて居た
四か月が過ぎブラジルで初めての正月を迎えた。
街の日本人会館に日系人が集まっての祝賀式だった
持ちよりでつまみものを出して。ビールで乾杯した、
そのご各人が自分の抱負を語りあった、最後に
会長より紹介されて哲夫も新移民として
つぎのように語った。
戦争を体験して困難を乗り越えて平和のように
みえても沖縄では軍用地に接収されて土地を失い
働く場所が無く、いまでも爆撃機が空を飛んで
戦争当時とあまり変わらない。ブラジルに住んで
始めて平和を得た思いです、その上に北パラナー
は土地が良く未だに肥料を使わずに作物がとれて
なお気候もあまり沖縄と変わらない。沖縄に無い
果物が豊富にあることは住みよい場所で
永住する事に決めたと語った日系人から拍手が
わいた。
お正月の夕方叔父方に新年の挨拶に行ったら
叔父はお酒に顔をそめていた。叔父のお蔭で
お正月迎えることに感謝の気持ちをあらわした。
叔父は戦後移民は苦労すること無く、古移民と
同じ生活ができるのは古い移民のお蔭だと苦労の
話を持ち出した。開拓当時や子供に十分な教育も
与えずにやっと得た土地がお前と同じなのだ、
なんだか妬ましいような言い方だった。しかし
戦争に遭わなくて済んだだけでも良いと哲夫は
思った。移民
移民の苦労と。死におびえて生きてきた戦争と
は較べられない体験だと思った
何故か叔父の家庭は何かがくるっているようだ
一人娘は年頃になって。外人と駆け落ちして家を
でていった。
日系人社会では外人との結婚は受け入れなかった。
長男も勉強が好きでなく、農業するにも
叔父が車を買ってやって、一緒にいるけど
よく街に出かけて、仕事に精を出さずに叔父は
嘆いていた
この植民地には三十家族の日本人がおったけど
半分は子供の将来を考えてでていった。
原始林から切り開いてやっと所有できた土地
を子等の将来を考えて大都市に引っ越すのだ
俺もいずれ売り払って都市近郊に行くつもりと
話を続けた。哲夫はどこにも問題はある。
日本移民が出稼ぎの為に、移民は点々と移動して
未だに自分の子孫にうけ
継がせる家を持たないのは、子孫に故郷を持た
ないのと同じで、小さい頃に育った故郷は大人に
なってからの困難を乗り越える勇気をはぐくむ
野だと思った。うき草のような家族に思われた。
晴美と弟の哲司はバスで午前中に街の学校通った
コヒーは見事な花が咲き匂いを風にただわせた。。
近くのブラジル人を雇って収穫をおえた。
叔父さんも喜んでお前は運のある人だ
土地代の半分は取れたようだ。叔父さんはこんなに
沢山実がなったら来年は収穫は無いと言われたのを
思いだして、今まで無肥料で取れるだけ取ってきた
何時かぐっと収穫落ちるのは予想できる。
子供も中学終えたら大学に進むのを考えたら,
都市の近くに移転した方が大学に行けると考える
ようになった。栄子もさんせいした。子供をあてに
した農業は止めた方がよいといった
早速売りに出し,オリンヨスの街の近くに
養鶏場を買い求めた、ここが永住の場所だと

決心した、