2014年12月20日土曜日

定め



マリアナは大人になって母から、次のような話を

聞かされた.多分お前たちに日本人並みの生活を

させて、良い相手と結婚させるのを夢に描いていた。

然し運命と言うか、定めは乗り越える事のできない

運命だった。例えばこのビーラに店を構えても買う

人々は貧乏人で無理にお金を催促することはできなかった、

またお父さんも手助けになるような人ではなかった

それで一家は郊外のビーラで暮らすしかなかった、

いまでは定めだと思っている

なにか娘にすまない事のように話した、マリアナは

町の郊外「ヴィーラ」に生まれ育った。

町の中央までは一キロもあり、八歳の頃町の市制

七十年祭に母と一緒に学生のパーレ-ドを見て初めて

セントロを知った。

その日は各団体のバラカが設けられていて日系

婦人のバラカもあった

母はバラカに働く婦人達と親しく話していたけど

マリアナにとってはみんな知らない人ばかりでした

また多くの日系人に出会うのも初めてだった

母が女子青年だった頃は皆と付き合っていたと語って

くれた

母の若い頃は植民地に住んでいて生活も皆とも同じで

偏見はなかった。夫の靖男とは両親同士の話し合いで

見合いして結婚が決まった。

靖男はまじめで日本人の求めている手本のような

青年に思われた。日本語も立派で母の直子マリヤとは

日本語で語らい会った。目が不自由で近眼だった、

その理由は子供の頃爆竹を鳴らしたとき、

不発にも手の元で爆発して目を傷めて、

その頃は町に専門の医者もおらず、おきざりに

したのが原因だと母のマリヤは話してくれた。

そのことが結婚後の生活に不自由をきたすとは

思ってもいなかったようだ

靖男の家族は直子を嫁に迎えたことに安堵して

いることを率直に直子に話した。

結婚して靖男が生活力もなく農業には向かず

町で暮らすことになった。直子の父がヴーィラに家を

買い求めて結婚生活を始めることができた

その後マリアナが生まれたマリアナは日本語の

名前は久子とつけたけど家族だけが呼んでいた。

回りはブラジル人の友達でマリアナと呼んでいた。

母のマリヤは裁縫を身に着けていたので生活の糧は

母が工面した。暇が出ると敷地の後には空き地があり

野菜も作り、漬物も作って、食べきれないのは近所

のブラジル人にも安く売った。

それ以外にもセントロでよい模様の生地を見つけて

子供服を仕立ててヴィーラの白人家族が買い求めた

ヴィーラの母達は貧しいながらも子供も多く抱えていた

母のマリャはヴィーラでは知識があり尊敬されて

いた

近所の主婦の相談相手にもなっていた.たとえば

如何にしたら避妊することが出来るかも相談してい

たそのことは夫の靖男はカトリック信者で毎日曜

にはミッサを欠かした事がなかったので。

マリャが避妊の話をもちだすと夫の靖男は

カトリックの教えに反すると思わしくしなかった。

マリアナは小学校を卒業するとすぐ会計事務所に

働いた、

十四歳なので一人前の給料を貰う事は出来なかった

それでも母は喜んだ

年齢は満たなくも仕事は一人前以上にこなした。

雇い主のアントニオは日本人は数学がうまいと褒め

称えた。

十八歳になった時にブラジル銀行の採用試験があり

見事合格した。弟の二人も昼は民間銀行に勤め夜学で

中学を卒業した。

その後弟の二人もブラジル銀行に合格して三人兄弟姉

がブラジル銀行に働き、町の話題にもなった

その後兄弟姉三人でセントロに家を買い求めて移り

住んだ

母のマリャはやっと日本人会の婦人部に入会して人並

みになったと喜んだ。

日本人会では母の日にマリヤが貧しくとも子供を立派に

育てたことに、模範の母として表彰状を会場で

渡し会員から拍手が沸いた。

マリヤは生まれて初めて皆から認められたことに

誇りを持ち始めた。今までの苦労や子供たちの

努力もすべて神を信じて神様が与えてくれたと

夫婦は思った

夫の靖男は尚一層感謝のお祈りを捧げた

マリャは夫の無能さで誠実だけでは生活できないことを

程よく知っていた

夫は商売にも向かず。ただ靴を減らしてヴィレッテを売り

歩き、幾らかの収入を得ていた

目の不自由さにヴィーラの労働者が買い求めて

くれた

あるとき靖男は今夜羊の夢をみた。このヴィレッテ

はヴィアドだよと話しかけた。それを聞いた農夫が

全部買っていった

そのヴィレッテが当たった。自分のことのように

嬉しがった。

忘れた頃にその農夫が靖男の家に現れ貴方の勧めで

買ったのが幸いにも当選した。

その十パッセントをあげると四千クルゼイロを置い

ていった

そのとき始めてマリャは夫の靖男の正直を褒めた。

今まで人前で夫の無能さをののしっていたマリャもそのご

小言を言わなくなった。

人の前で夫をけなすマリャも内心夫の誠実を心の

糧として愛していることを知った。商人が嘘を

平気で何の良心もなく物を売りさばくのを知って

いたから、無能な夫の誠実を頼もしく思われた。

マリャは風邪を引いて寝込んでしまった病院に

入院したけど肺炎に悪化して一週間で他界して

しまった

葬式にはヴィーラのお友達が現れてマリャの死を

惜しんだ。ブラジリャに住む弟達も現れて

母の歩んだ今日までの苦労や努力を称えた

マリアナは今後父を誰が面倒見るか、どうしても

父一人では生きていけないことを知っていた

誠実な父をマリアナは尊敬していた。これも定め

られた運命なら自分が父の最期を見届けようと

決心した。

自分が三十五歳にもなり幾つかの縁談もあった

けど両親だけおいて結婚するのに踏み切れず

適齢期も過ぎてしまった

少女の頃が思い出された、家向かいのアンドレー

と友達になり一緒に学校にも行った、数学の宿題

はマリアナが教えてやった、またアンドレーの

自転車の後ろに乗り汽笛が鳴るとよく見に行った

汽車がお客を乗せて通ると手を振って見送った、

お客さんも答えて手を振った。通り過ぎるとまた

汽笛がなり帰途へついた。

駅は五百メートル位で、夜など汽車が通ると

ゴトンゴトンと家まで響きマリアナはアンドレー

と駅で手を振ったのを思い出すのだった

アンドレーの父は運搬業者でカミ二オンを家の前

に置いて、ある時はいつも野菜の空箱を持ち帰り

アンドレーは空き箱を利用して遊び道具を作るのが

上手だった

マリアナの家の裏に鶏小屋があり父と一緒に空き箱

を使って修理もしてくれた。

マリアナは手先のうまいアンドレーに父が持ちえない

男の手わざの良さを見出すのだった。

ある時は肥料の落ち毀れた車体を掃いたゴミを

マリアナの母の野菜畑に持ってきてやった。

マリアナは思いやりのあるアンドレーに初恋の感情

を抱いていた。

アンドレーの父はヴィャジの帰りには土産に黒糖

『ラパヅラ』と地酒『カシャシャ』を持ち帰り街角の

ボテコに卸していた。労働者は仕事の帰りにバールに

より珍しい酒を珍味するのが好きでいつも満員して

いた。

たまにアンドレーがバールによるとFIHLO DE―

PATRAOと呼び寄せ、お前の父の酒は飲め、

うまいぞと父を褒め称えたことなどもマリアナに

語った。

マリアナは職場の男性を見て皆、中産階級に

育っていてマリアナのような労動者の暮らす

社会は知らなかった。

男の同寮達は結婚していて、生活維持に月給を

前借していて生活疲れで輝かしい男は見当たら

なかったので。アンドレーや父のマリオのような

学力がなくても生活力のある男がたのもしく

思われた。

入社当初は張り切っていたマリアナも定年が

近づくと意欲もなくなり毎日を与えられた職を

こなすのみだった

マリアナは母の一周忌のミッサを行なうに

当たって、ブラジリヤの弟も参加した

ついでにブラジリヤに住むアンドレーの近況が

知りたかった。

マリアナがセントロに住むようになってから

アンドレー家族もブラジリヤに引っ越した。

従妹のロ-ザから建築に携わっていることを

聞いたのが三年前、今では立派な建築士なって

いるのではないかと想像するのだった

早速その話を弟に持ち出すと想像以上に成長して

いた

話によればビルデングのトイレのタイル張り

を自分で発明した道具を使うと、三倍も仕事が

はかどり四人の使用人を使ってビルデングの

トイレを請け負っていて、名の知れた請負士だと

語ってくれた。マリャは初恋の男が自分の弟の

ように嬉しかった。

マリアナが思い出すのは親子三人でオランブラの

花の博覧会に行ったのが家族の良い思いでと

なっていた。

母は珍しい見たことがない花をみて夫に語り

かけていた。

農業の部門で日本人が優れていることは認めて

いたけど、オランダ人は日本人より上だと感心した

その後母は野菜や洋裁はせず、ひまをもて

あましていたのを機会にランを集め始めた

集めたランが四十種類にもなっていた。

父はランの花をみつめて亡きマリャを思い出して

いるように思われた

マリアナが思い出すのに父が一言でも小言を

言ったことがなかった。

そのような父をマリアナは不憫でならなかった。

人間誰しも不服はあるはずだ。自分の不満も

言えずに父は耐え忍んでいたのではないかとも

思ったりもした。もしそうであったら開放された

父は安堵しているかも知れないとも思った

人間だれも心の窓をのぞくことは出来ない。

あるいは天にいるマリヤにありがとう。

幸せだったと語りかけているかも知れとも思った  おわり

       おわり



2014年11月28日金曜日

小説     養子

 卓司は叔父に育てられた。出来事は原始林を
購入して開拓当時の事だった。卓司の父母が
マラリヤにかかり、一か月に二人とも亡くなった。
その後叔父が引き取り育てられた、
卓司が八歳になった時に叔父から知らされて解った。
なにも知らずに叔父上をお父さんと呼んでいた
卓司の下に弟妹がいた、二人はいつも兄さんと呼んで
いたので従兄弟だと知ったのもその時だった。
卓司が物心ついた時に自分と弟妹があまりにも
似てない事に疑問を持ち。どうしてぼくは弟妹に
似ていないか。
母に問いかけた事がきっかけで、安田叔父は
次のように話してくれた
原始林開拓なので家はパルミツトで屋根はやしの
葉を載せて雨をしのいだバラ屋だった。其の頃は
雨が多くマラリヤが発生して四十度の熱にうなされた
先ず卓司の父が倒れて看病に母が当たり
昼夜の看病の甲斐もなく乳のみ子の卓司を
抱いて死亡した
植民地から多くの犠牲者がでた。その後は
二キロ離れたブラジル人から牛乳を分けて
もらい何とか成長して、八歳の誕生日を
迎えた時に事実を話してくれた。
卓司は自分がこれまで父母の様に甘えた
気持ちが一瞬に変わった。お母さんは
これまでの態度からして二人の妹弟と何ら
隔てなく愛してくれた。
卓司はそのご。叔父さん叔母さんと呼んだ。
叔父は今までのようでお父さんと呼んでも
良いよと言った。けど
卓司は従妹弟に父を横取りしていると
思われるかも知れないと、八歳にしては
人間の持つ感情を抱いていて、改めて叔父
さんと呼んだ。いやがうえにも感情を植え
付けてしまっていた。
従兄弟であることを説明した、下の二人には
このような感情は起こらなかった、
多分八歳が分別の年齢かも知れない。
卓司が青年になって、あの出来事を思い出す
のだった
丁度その年に、ある見知らぬ男が車で訪ねて
きた、服装からして生活にゆとりのある事が
わかった
安田叔父は始め物売りだと思っていた、
話の内容からして叔父家族を知っているようだった、
じつは卓司の亡き母の妹の夫だった。
名前は天野安雄さんでアラサーツバで
フアゼンダを持っていた
二人の娘が居て男の子が無く。卓司を養子に
引き受けたいと訪ねて来たのだった。
天野叔父は自分の娘に牧場運営はむかないので
男の子が欲しかった。
卓司にとっては天野さんも同じ叔父さんだった、
 その夜は泊まりで叔父二人が夜遅くまで
語り合った、父母を亡くしてあとは親戚との
付き合いも途絶えて
卓司の母の家族が何処へ移転したのか卓司の
叔父は知らなかった。
育ての父である叔父にとっては卓司の将来は
ファゼンデイに託した方が良いと考えた。
然し叔母は自分は三人区別なく自分の子供同様に
育てたので手放す訳にはいかないと言った
叔父は家内にお前の気持ちは解る、でも将来こんな
ちっぽげな土地を二人に分けて与えても食っていけない
ない。ずれ俺達もこの土地を売ってサンパウロ近郊に
移ろうかと思っていると話は続いた、
話は卓司の将来を考えての結論にいたった、
やっと叔母も納得した、弟妹は兄さんが出ていくのは
嫌だと言った
翌日卓司は天野叔父に引き取られてアラサツバへと
向かった
パラガスーから夕方になって。アラサツーバの
街が現れて、街の通りをぬけるとき
卓司はやっぱり大きな街に思えた尚街から
十二キロほどの所に、ファゼンダエスペランサの
入り口にたどりついた。
卓司が七歳の時。叔父と一緒にカンピ―ナスの
大都市に汽車でバウルーから旅行したことが
あった。叔父の目の手術のためだった。
その思いではいまでも思い出すと感傷に浸り。
広いブラジルを知りたい思いを抱いていた。
卓司がミーナスの獣医大学を卒業した時に
安雄叔父と叔母に感謝をこめてありがとうと言った
これも自分の父でない事へのこだわりだった、
もし自分を育てたもう一人の叔父の所にいたら今頃野菜
つくりに明け暮れていただろう。それでも赤子の時、
最も苦労して育てて、報われずに手放した叔父家族に
恩返しをせねばと思った、今の叔父家族に引き取られて
からいつもパラガスーの叔父家族が思い出されて
ならなかった、
そのごの便りではシチオは売ってイタケーラに
移ったことが手紙で知った。大学卒業の招待状も
出したけど何の返事もなかった。
多分もう他人だと思っているようにも感じられた
妹からはおめでとうと簡単な返事が来た」
大学卒業して自分を振り返って過去の事が思い出
された
ボアエスぺランサ農場は国道から牧場に入る道は
両側に大きいヤシの木が植えてあり、
三キロ位行った所に大きな邸宅が聳えていた
正門はプリマべラがはびこり真赤な花を咲かせて
いた。玄関を入って。広い応接間があり
皮でこしらえたソファがおかれていた。
壁には安雄叔父さんの両親の写真とオス牛の巨体
に優勝のリボンを掛けた写真が掛けられていた
のちにその経緯を三年後に叔父と二人で馬に
またがい、牧場を見回す時に話してくれた。
叔父は牧畜の知識が広く、卓司につぎのように
説明した、牧畜を発展させるには一に品種。
二番目が牧草だといった。
そのためにはオス牛はお金をかけても良い種牛が
必要だ。サーラに飾ってある写真はプレジデンテの
品評会で優勝したカンピオンだ
多くの預金をはたいて手にいれたと語られた。
それでも次の二世牛も高い値段で取引去れて
元は取れた、
牧畜は衛生管理が必要でお前が幸いに。獣医学を
目指したのは良かったといったのを覚えている、
幼い時に不幸にも父母を失い、叔父たちによって
自分が大学卒業までこぎつけたのは。
なぜか幼い頃の不幸が神のおぼしめしで償な
われる形になったと思うようになった。就
職するまでは牧場の管理に勤めた。
川近くの草が伸びた所にはよくハブの巣があった。
注意深く覗いてジャララカを生け捕るのも牧畜業者
の仕事で。たまに噛まれて牛が犠牲になることが
あった。捕獲するとブタンタンへ送り感謝状が
贈られて、同施設の見学案内状が
送られてきたので行くことにした。
ブタンタンの施設は大きくあらゆる毒を持った
動物がいて血清液をつくっていた
つでに。イタケーラの安田叔父の所に寄る事にした
シチオは桃の畑を進んでいくとレンガ家が現れて
家族が待っていた。案外容易く見つかった。
まず叔母が抱き着いて涙をながして立派な青年になった
と褒め称えた。弟と妹もはにかみながらもだきついた
先ず叔父さんが養子に行って良かったねといった。
でも卓司は今でも安田叔父の心が判りかねていた。
或いは三人の子の将来の面倒が思いやられて養子に
出したのではないかと疑う事があった。
それとも真実に育てた甥がわが子のよう
に可愛くて養子に出したのか疑問をいだいていた。
然し卓司はどちらでもよい、僕にとっては感謝に
絶えなかった、
何とか叔父さんに報いたいと思った。今でも自分の
父母の様に心に抱いていると言った。
叔父さんも此処に移って良かったと
言った。卓司は自分の気持ちを打ち明けた。
その日は泊まって今までの過ぎし日を話し合った
天野叔父さんの男の子が欲しかった訳を安田叔父に
語った、
ファゼンデイは同じ同僚と交際するので日本人家
との交際は少なく。二人の娘もブラジル人との友達が多
かった
婿になる男性もブラジル人を迎えるのは確実だと
叔父は言った。別に避けるわけではないけど、
多くの農場主が亡くなると遺産相続でもめて
ファゼンダを分割することがよくあった
分割を避けて卓司に経営を任せたいとの遺言状も書いて
在る事を伝えたのも安田叔父に話した
卓司は寝てからも二人の叔父が同じ移民で無資本から
出発したのに、資産に於いては各も差があるのは
なんだろうか、考えてみた
唯、卓司が思うに安田叔父は日系人の植民地にいて
日本人の環境で生活して、日本の延長の暮らしに
浸って居た
日本の新聞や雑誌を取り日本事情には詳しかった。
ブジルへの役所や手続きには事情に詳しい人に
頼まねばならなかったので進歩的同化が起こらな
かった。
天野叔父はブラジル人に同化してブラジルの新聞を
読み。社会事情にくわしかった
始めに百アルケールの牧場を借地してアメンドイン
を植えてお金が大分残った。
すぐに五十アルケールの土地を買い求めて。
大豆とアメンドインを植えた。
借地農の半分を相続人から譲り受けて。牧場にした
肥料が残って居て牧草は見事に伸びて。放牧したの
牧畜経営の始まりだった。日本人では始めてだった。
いまでも五年毎に牧畜を大豆とその後ミ‐リオ牧草と
牧畜の関連作は掟になっている。安田叔父も桃畑
に蜂蜜を飼い花粉の受精を助けて居ることを話し
合った
卓司はブラジルの牧畜は面積当たりの牛肉の
生産量はヨーッパと比較してまだ低い、条件と
してブラジルは年中牧草があり生産が上がらない
のは品種と牧草の管理にあると考えて、実行に
移したい計画を叔父さんに打ち明けた、大豆の
収穫後にミ―リヨ蒔いて
サイロに詰め込み、冬のセッカ時期に飼料と
シレージを与えて肥育期間を早めて出荷して、
一年でも早めれば五年には20パ―センとの
増収が見込まれる、その話に叔父は乗り気だった。
尚品種も短期成育を取り入れて、生産の成績を
数字で表し、新品種のオス牛の人工授精の会社を
設立するなど話した。
また新しい牧草のたねを生産して販売する会社も
設立したい旨も説明した、
叔父は乗り気で資本を援助して州の畜産部
エステ支部に働きかける事を約束した
ブラジルが世界特にアジヤと中近東でオースト
ラリヤとアルゼンチンなどに市場は奪われていて。
食い込むには肉質の向上が必要だと。以上の論文を
ポルトガル語の農業誌に乗せたその反響は大きく。
多くのファゼンデイㇿが融資を表明した。
卓司を養子に迎えるにあたって叔母の紀子は反対だ
った。腹を痛めてない子を本当に愛することが
出来るか疑問だった。娘とのいざこざが起こり、
母を恨むことになりはしないか疑問だった。
卓司を養子として迎える話を打ち明けた時に、
二人の娘は可愛そうに父母を亡くして同情して
私達は兄弟が欲しいのといった。卓司を引き取って
観て彼が人間的によくできた明るい少年である事を
頼もしく思った
卓司は自分が八歳にして受けた衝撃が人を見る目を
いやが上にも植え付けられて、子供心で甘えた気持ちは
持たなかったのが叔父達にも頼もしく思えたようだ.
はっきり言えば大人勝りにも受取れた。
二人の姉はよく自家用車で卓司を伴って街へ出かけた。
街の若者は美人の姉妹を知っていて兄弟がいる事は
知らなかったと話していた、ある青年は僕の妹を
紹介するよと言ったが
姉妹は受け付けなかった。ノエステの畜産協会の役員
に抜擢されて始めにアルゼンチンの畜産の視察に
選ばれていくことになった
ついでにオーストラリヤにも視察に行く事を計画して
資料を集めて居た。尚、両国の畜産の本も買い求めた。
協会と伯父が旅費や小遣いを工面することになっていた
突然事件が起きた、一番上の姉が隣のファゼンダの息子
と駆け落ちしてイタリヤへ旅行にいってしまった、
その大農場は父の亡き後分割していつも兄弟争いが
絶えず、裁判にまで争うので。未亡人のㇸレナは
安雄さん貴方は日本人で礼儀正しく私は信用しています、
私の夫アントニヲが苦労して築きあげた農場が
息子達の争いになって私はとても悲しい。
小農場だったら分割することなく二人とも共同で
経営したろうに悲しい、なんとか仲裁して
くれないか頼みに来たことがあった。
安藤叔父が話したのはそのことだった、卓司は姉
の美代子からもその話をきいていて、ㇸレナの孫に
あたる姉の恋人はうんざりして農場は継がずに
独立して仕事をすると言っていた。姉は彼が
云うには土地が無く,其の為に戦っているセンテラ
もあれば。折角父から受け継いだ大農場なのに
そのために兄弟が争うことは息子には絶えがたい
事だった、その男が好きになったようだ。
卓司は叔父さんにそのことを告げた。安藤叔父は
それは良い事だ財産を見て結婚するのでなければ
喜んで応援しようと語った
旅行から帰ったら結婚式を挙げようと叔父は計画
していた
何故か卓司の夢である牧草販売会社や牛の
人口受精会社もクンヤードのアントニヲと
二人で幸いに出来るかも知れないと叔父の夢は

膨らんだ。終り
マリアナは大人になって母から、次のような話を聞かされた.多分お前たちに日本人並みの生活をさせて、良い相手と結婚させるのを夢に描いていた。
然し運命と言うか、定めは乗り越える事のできない運命だった。例えばこのビーラに店を構えても買う人々は貧乏人で無理にお金を催促することはできなかった、
またお父さんも手助けになるような人ではなかった。このようで一家は郊外のビーラで暮らすしかなかった、いまでは定めだと思っている
なにか娘にすまない事のように話した、マリアナは町の郊外「ヴィーラ」に生まれ育った。町の中央までは一キロもあり、八歳の頃町の市制七十年祭に母と一緒に学生のパーレ-ドを見て初めてセントロを知った。
その日は各団体のバラカが設けられていて日系婦人のバラカもあった。母はバラカに働く婦人達と親しく話していたけどマリアナにとってはみんな知らない人ばかりでした。また多くの日系人に出会うのも初め9てだった
母が女子青年だった頃は皆と付き合っていたと語ってくれた
母の若い頃は植民地に住んでいて生活も皆とも同じで偏見はなかった。夫の靖男とは両親同士の話し合いで見合いして結婚が決まった。
靖男はまじめで日本人の求めている手本のような青年に思われた。日本語も立派で母の直子マリヤとは日本語で語らい会った。目が不自由で近眼だった、その理由は子供の頃爆竹を鳴らしたとき、不発にも手の元で爆発して目を傷めて、その頃は町に専門の医者もおらず、おきざりにしたのが原因だと母のマリヤは話してくれた。そのことが結婚後の生活に不自由をきたすとは思ってもいなかったようだ
靖男の家族は直子を嫁に迎えたことに安堵していることを直子に話した。
結婚して靖男が生活力もなく農業には向かず
町で暮らすことになった。直子の父がヴーィラに家を買い求めて結婚生活を始めることができた
その後マリアナが生まれたマリアナは日本語の名前は久子とつけたけど家族だけが呼んでいた。回りはブラジル人の友達でマリアナと呼んでいた。母のマリヤは裁縫を身に着けていたので生活の糧は母が工面した。暇が出ると敷地の後には空き地があり野菜も作り漬物も作り食べきれないのは近所のブラジル人にも安く売った。
それ以外にもセントロでよい模様の生地を見つけて子供服を仕立ててヴィーラの白人家族が買い求めた。ヴィーラの母達は貧しいながらも子供も多く抱えていた。母のマリャはヴィーラでは知識があり尊敬されていた、近所の主婦の相談相手にもなっていた.たとえば如何にしたら避妊することが出来るかも相談していた
そのことは夫の靖男はカトリック信者で毎日曜にはミッサを欠かした事がなかったので。
マリャが避妊の話をもちだすと夫の靖男はカトリックの教えに反すると思わしくしなかった。
マリアナは小学校を卒業するとすぐ会計事務所に働いた、
十四歳なので一人前の給料を貰う事は出来なかった。それでも母は喜んだ
年齢は満たなくも仕事は一人前以上にこなした。
雇い主のアントニオは日本人が数学がうまいと褒め称えた。
十八歳になった時にブラジル銀行の採用試験があり見事合格した。弟の二人も昼は民間銀行に勤め夜学で中学を卒業した。
その後弟の二人もブラジル銀行に合格して三人兄弟姉がブラジル銀行に働き、町の話題にもなった
その後兄弟姉三人でセントロに家を買い求めて移り住んだ
母のマリャはやっと日本人会の婦人部に入会して人並みになったと喜んだ。
日本人会では母の日にマリヤが貧しくとも子供を立派に育てたことに、模範の母として表彰状を会場で渡し会員から拍手が沸いた。マリヤは生まれて初めて皆から認められたことに誇りを持ち始めた。今までの苦労や子供たちの努力もすべて神を信じて神様が与えてくれたと夫婦は思った
夫の靖男は尚一層感謝のお祈りを捧げた
マリャは夫の無能さで誠実だけでは生活できないことを程よく知っていた
夫は商売にも向かず。ただ靴を減らしてヴィレッテを売り歩き幾らかの収入を得ていた。目の不自由さにヴィーラの労働者が買い求めてくれた
あるとき靖男は今夜羊の夢をみた。このヴィレッテはヴィアドだよと話しかけた。それを聞いた農夫が全部買っていった
そのヴィレッテが当たった。自分のことのように嬉しがった。忘れた頃にその農夫が靖男の家に現れ貴方の勧めで買ったのが幸いにも当選した。その十パッセントをあげると四千クルゼイロを置いていった
そのとき始めてマリャは夫の靖男の正直を褒めた。今まで人前で夫の無能さをののしっていたマリャもそのご、小言を言わなくなった。
人前で夫をけなすマリャも内心夫の誠実を心の糧として愛していることを知った。商人が嘘を平気で何の良心もなく使って物を売りさばくのを知っていたから、無能な夫の誠実を頼もしく思われた。
マリャは風邪を引いて寝込んでしまった病院に入院したけど肺炎に悪化して一週間で他界してしまった
葬式にはヴィーラのお友達が現れてマリャの死を惜しんだ。ブラジリャに住む弟達も現れて
母の歩んだ今日までの苦労や努力を称えた
マリアナは今後父を誰が面倒見るか、どうしても父一人では生きていけないことを知っていた
誠実な父をマリアナは尊敬していた。これも定められた運命なら自分が父の最期を見届けようと決心した。
自分が三十五歳にもなり幾つかの縁談もあったけど両親だけおいて結婚するのに踏み切れず適齢期も過ぎてしまった
少女の頃が思い出された、家向かいのアンドレーと友達になり一緒に学校にも行った、数学の宿題はマリアナが教えてやった、またアンドレーの自転車の後ろに乗り汽笛が鳴るとよく見に行った
汽車がお客を乗せて通ると手を振って見送った、お客さんも答えて手を振った。通り過ぎるとまた汽笛がなり帰途へついた。
駅は五百メートル位で、夜など汽車が通るとゴトンゴトンと家まで響きマリアナはアンドレーと駅で手を振ったのを思い出すのだった
アンドレーの父は運搬業者でカミ二オンを家の前に置いて、ある時はいつも野菜の空箱を持ち帰り。アンドレーは空き箱を利用して遊び道具を作るのが上手だった
またマリアナの家の裏に鶏小屋があり父と一緒に空き箱を使って修理もしてくれた。
マリアナは手先のうまいアンドレーに父が持ちえない男の手わざの良さを見出すのだった。
ある時は肥料の落ち毀れた車体を掃いたゴミをマリアナの母の野菜畑に持ってきてやった。
マリアナは思いやりのあるアンドレーに初恋の感情を抱いていた。
アンドレーの父はヴィャジの帰りには土産に黒糖『ラパヅラ』と地酒『カシャシャ』を持ち帰り街角のボテコに卸していた。労働者は仕事の帰りにバールにより珍しい酒を珍味するのが好きでいつも満員していた。
たまにアンドレーがバールによるとFIHLO DE―PATRAOと呼び寄せ、お前の父の酒は飲め、うまいぞと父を褒め称えたことなどもマリアナに語った。
マリアナは職場の男性を見て皆、中産階級に育っていてマリアナのような労動者の暮らす社会は知らなかった。
男の同寮達は結婚していて、生活維持に月給を前借していて生活疲れで輝かしい男は見当たらなかったので。アンドレーや父のマリオのような学力がなくても生活力のある男がたのもしく思われた。入社当初は張り切っていたマリアナも定年が近づくと意欲もなくなり毎日を与えられた職をこなすのみだった
マリアナは母の一周忌のミッサを行なうに当たって、ブラジリヤの弟も参加した
ついでにブラジリヤに住むアンドレーの近況が知りたかった。
マリアナがセントロに住むようになってから
アンドレー家族もブラジリヤに引っ越した。
従妹のロ-ザから建築に携わっていることを聞いたのが三年前、今では立派な建築士なっているのではないかと想像するのだった
早速その話を弟に持ち出すと想像以上に成長していた
話によればビルデングのトイレのタイル張り
を自分で発明した道具を使うと、三倍も仕事がはかどり四人の使用人を使ってビルデングのトイレを請け負っていて、名の知れた請負士だと語ってくれた。マリャは初恋の男が自分の弟のように嬉しかった。
マリアナが思い出すのは親子三人でオランブラの花の博覧会に行ったのが家族の良い思いでとなっていた。母は珍しい見たことがない花をみて夫に語りかけていた。
農業の部門で日本人が優れていることは認めていたけど、オランダ人は日本人より上だと感心した
その後母は野菜や洋裁はせず、ひまをもてあましていたのを機会にランを集め始めた
集めたランが四十種類にもなっていた。
父はランの花をみつめて亡きマリャを思い出しているように思われた
マリアナが思い出すのに父が一言でも小言を言ったことがなかった。
そのような父をマリアナは不憫でならなかった。人間誰しも不服はあるはずだ。自分の不満も言えずに父は耐え忍んでいたのではないかとも思ったりもした。もしそうであったら開放された父は安堵しているかも知れないとも思った
人間だれも心の窓をのぞくことは出来ない。
あるいは天にいるマリヤにありがとう。幸せだったと語りかけているかも知れとも思った  おわり
       おわり