2011年5月9日月曜日

ま え が き

 今年結婚五十年を迎える。子供達が祝う事を企てているようです。 私としてはもっと大切な、何時までも残るようなのはないかと思い、つい自分が書き残したのを本にすることにした。本なら自分の代々の子孫が自分の先祖はどこから来て、どんな事をして、どんな事を考えていたのだろうかと思い、そのルーツを辿るのに役立つのではないかと思っています。それには日本語を知り、日本の文化にもふれて理解できるようになる事を願っている。
 まず、私はほんとに幸せ者です。第一に自分で惚れた女性、千代と結婚できたこと、そして九人の子が身体何不足なく生まれ立派に成長したこと。ただ、六女の美幸だけが不幸にも亡くなりましたが、それ以外は良き職業人として働いていることが、父として頼もしく思い、十人の孫も年上が大学を卒業し、次々と国立大学に入学しておりますので、長生きして見守りたい。それに私達夫婦をとりまく、叔母様方や義兄弟、多くの従兄弟達と私達夫婦との人間関係は素晴らしく、みな善い人たちなのです。人間の幸せは、自分を取り巻く人間関係によって生まれるような気がするのです。
 私は日本の沖縄の北部、宜野座村、惣慶村に、家は母の実家で屋号は前漢那小で生まれた。母は次女でウシ名で、小学生の頃は優等生だったようです。 出稼ぎに大阪に行き父と知り合い、私が生まれた。私は母の実家で育ち、小学校から高校まで宜野座で暮らした。
 1951年12月の初めに呼び寄せで祖父母の住んでいるカンバラ町のチジュコ・プレット植民地に移住した。植民地に着いた頃は多くのバナナが植えてあり、みかんの木もいろいろあり、それ以外にマンゴーやアバカテ、果物の豊富なのには驚きました。豚や馬は牧場に放され、鶏は自然に放され、肥育豚は囲われてトーモロコシとカボチャで養われていた。 豚は自家用の脂や食肉に一頭もつぶされた。こんなに豊かな国に珍しさと驚きでいっぱいでした。
 2年後に祖父母の家庭と分かれて私達親子三人で生活することが出来た。貧しい家で、屋根はパルミットの上に瓦を載せ、床は土で埃がたった。3年後には祖母より500クルゼイロを借り受け、それも2年で返すことが出来た。家も板屋に改築し古い移民と似たような生活が出来た。
 その後、私に好きな人がいる事が知れて叔母を通じて結婚を申し込んだ。彼女には沢山の男性から結婚の申込みがあり、私が一番貧しかった7が、結婚しても良いとの返事をいただき、私は有頂天になった。 夜も昼も彼女のことを思った。
 1956年、クリスマスも間近に結婚式を挙げた。植民地の人々が鶏や豚などを出してお祝いが出来た。1年後には長女が生まれ、その後次々と一年越しに次女、三女、四女と生まれた。私にはこれ以上大学まで教育できかねるので、母にこれ以上子供を生まないことを言った。母は泣いて、苦労して移住したのに家の跡継ぎがないことは移住した甲斐がないと嘆いた。やむをえず又も五女が生まれ、六女、七女、そして八番目に長男が生まれた。母は大喜びで親戚を集めて祝った。そのときは遠く離れた仲田や安義、松田の家族もお祝いに集まってくれた。
 子育てと休む暇もなく仕事に追われ、千代は肺を患った。2ヶ月以上兄英秀の家で療養した。現代のペニシリンのおかげで完全に治った。その間にも隣の新垣叔父の土地を買い、続いて松さんの土地、そして真吉叔父の土地と、全部で28アルケールの土地になった。
 今思うと運が良かったといえる。それと母が子育てから畑仕事まで手助けしてくれたお蔭です。周りの人々、叔母や義兄、従兄弟達のお蔭なんです。
 結婚50年、長いようで短い歳月でした。体力はだんだん衰えますけど、頭だけはしっかりとしたいものです。
 この50年、あっという間に過ぎたようである。 ふるさとを離れてこのブラジルに移住し、この国を愛し、各国の人々の中に沖縄人であることに誇りを持ち、自分の子孫の種を蒔き、この国の土地にしっかりと根を下ろし、繁栄することを願うものである。

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