2015年10月23日金曜日

新開地

僕は一千九百五十一年にブラジルへ移住してきた
あの頃日本はアメリカの占領下にあった。
パスポートもアメリカ発行でサンパウロにたどり着いた
ㇿカバナ駅から夜行でオリンョスに向っていた。
途中で夜が明けて見渡す限り牧場が広がっているのを
見て、僕が日本で頭に描いていたアメリカの西部劇に
出てくる馬にまたがった牛追いの姿が実現できるの
かも知れないと思った。
日本ではあの頃ブラジルはあまり知られず、多分西部劇
の場面のような未開地を想像したのです。
さて。オリンヨスで降りて向かったのが新開地のパラナ
の入り口、チジュコプレト植民地だったのです、全体が
新開地で至る所に倒された木が横たわっていた。
話によれば、高台は霜の心配は少ないので。コーヒー
に適した土地で、すべて原始林でおわれていたのです
低地はパルミットが多く生えて、以外にもぺㇿーバと
セドが多くて製材所が買い上げるお金で
土地代の入金が取れたようです、
あの頃は街の住宅や商店も材木で建てられた
幹線道路は全てのㇿッテを横切って開かれた。
幹線道路の中ほどに日本学校とブラジル学校も
建てていた
農作物といえばまず始めにコーヒー植え付け
四メートル間隔に穴を掘って、種を入れる小さい
木を五本並べて蓋をして芽をだすのを待った、
その間に二列にトーモロコシを植える、蒔のは
冬が過ぎ、春の九月ごろには雨期に入り雨が
降り始める。気候も暑くなり作物の伸びも早い。
原始林に生えていた。蔦や草なども生えだして
おり、取り除くのが仕事だ
二月頃にはトーモロコシも実が半熟し美味しい
パモンヤとクラウが腹一杯食べることが出来る
以後ミリョは半分に折って、その間に
フェイジョンをまいてコーヒ―との間にマモナ
双穴植えて、フェイゾンの収穫が終わると
マモナの収穫が始まり、そのあい間にマモナの
収穫も始まる。ブラジルは年中暖かいので
農業者は年中仕事に追われているので、何処の
家でもブラジル人の労働者を雇っていた、
面積の多いのは四年契約でコーヒ―を育てる
代わりに間作作物を取得して、コーヒーを育てた
どのロッテにも小川があり、川のほとりは牧草を
植えて倒れた木を使って囲い、豚と馬が放されて
いた、馬車は大切で農作物の運搬や町への買い物に
用いていた、その点は
アメリカの西部劇そのものだった。
きつい仕事は豆叩きだ、どのロッテにも中道があり
大きい布を二つ敷いて朝早く、ミリョの上に引き
抜いた豆を載せてあるのを、担ぎ出すことが辛い
仕事だった
袋に詰めた豆を馬車にのせるのも体格のない
人にとってはきつい仕事だった。
力のない女性も出来る限り手伝った。四年もすると
コーヒーが実をつけて雑作からぬけだす
のだった。以上のような経験のある年配の
方は思いだすと身震いすると語るのです
現在。いかなる新開地でも人力で開拓する事は不可能だ
例え人力でミリョやフェジョンを栽培しても
コスト高で市場にはだせない、現在は全て機械農業で
栽培されていて低価格
いくら政府が小面積の土地を農地改革の名目で与えても
人力で栽培しては採算が取れず投げ出してしまうのです
北パラナの入り口からパラガイまで原始林
だった。百年の歳月で人力で開拓されたのです
今日では自動車がありトラクターがあり、モトセラが
ある。

若い世代では開拓物語は過去となった、

2015年10月11日日曜日

随筆  家族と夫婦

私と親子三人がブラジルに移住したのは家族として
呼び寄せられたからです
私のようなケースがブラジルに沢山いる
その理由は殆どがブラジルへ出稼ぎに来ていたのです。
出稼ぎ故に小さい子供は祖父母のもとに預けられて
いたので。殆どが長くて五年間の別れと決めていた。
特に沖縄は土地が少ないにかかわらず家族が子宝にも
恵まれていた。
習慣からも子宝は家族の繁栄とされていた
沖縄は日本と違って家族の仲間に婿いりすることは
なかった。ようするに男子系の家族だったのです
沖縄では殆どの家族が出稼ぎに言っていた。長男だけが
家を守り、二男以下は日本にも出稼ぎにいっていた、
日本で沖縄人の集まるところは大阪で、沖縄村が
出来ているほどだった、
出稼ぎに行った人は故郷に残って居る父母の事
を思って使いたいお金も使わずに、歯をくいしばって
三年間勤めて帰り父母へお金を渡していた、
父母は隣近所をあつめて息子の帰って来たことを
喜び芋の天ぷらで持てなして喜びを分かち合って
いたのです。一つの手柄だったのです
私の父は祖父母が沖縄に残した長男だったのです
父は祖母の許で育てられ。一族は男の子がいなくて
父が跡継ぎのごとく、大切に育てられたようです、
青年になった時海軍に取られて勤めている間に
大阪に寄った時に母と知り合い私が生れ
母の実家で育ったのです。
沖縄で高校途中に祖父の家族としてブラジルへ
呼び寄せられた。
題の家族とは普通両親とその子達をさすのだと
思う、家族の輪をひろげれば
祖父母がおり、または沖縄だと男子系の
孫も含まれる、女子の孫は家族の内に入らない
のです

然しブラジルですと養子や妻の父母や孫でも
家族としている。
ブラジルでは血のつながりに関係なく一緒に
育った人をふくめて家族としている
私達の様に大きくなってから家族に迎えられても
祖父母の家族として加わるのは精神的に苦労が
多すぎるのです、わたしが、見た多くの家庭でも
一緒に育たなかった家族が一家に暮らす事は
お互いに神経が疲れて、上手くいかないようで
した
まるで他人と家族のなかで暮らすようなもので
血のつながりはそれほど和の元にはならない。
戦後移住者は他国への引っ越しですから親子とも
に移住してきた
外国での移民の苦労も親子共に味わっていて、
家族の絆も一層深まっているようです、
私の場合祖父が旅費を出して呼び寄せてくれたので
有りがたく思わねばならないけど。私は家族の
中でしかも長男の子で当然だと思っていた
祖父としては戦争に遭い生き残った自分の孫を
助けたい思いで呼び寄せたのです、
一方で私は言葉の不自由から自由に出来ない
もどかしさがりあり不満であった
別れて暮らして始めて祖父の人柄や人情持ちで
沖縄の移民」たちにお金をかして独立させていた
祖父は無学ゆえに自己的に自分の土地を広げる
ことはしなかったようだ。
一方、夫婦は他人どうしの結びつきで、育った
環境も違い、家庭の風習も違う、それでも愛と
言われる潤滑油で持って、
性生活も加わりなお一層結びついている。
子供が生まれると。夫婦の家庭から子を含めて
家族を構成するのです
二人の所有物の役割を果たし子はかすがいの
言葉の様に夫婦の絆を深めるのです
子が結婚して孫が生まれて家族の輪は大きくなる
嫁の両親をもブラジルでは家族にふくまれる、
若し夫婦が離婚した場合家族の輪はどのような
変化をもたらすのか、離婚したあと一緒に
すごした過去は思い出なども、含めて消えるで
しょうか複雑な気持ちを持つでしょう、
その原因が子供にとっては不幸で不良になる
傾向もある
老人になると夫婦の輪は勿論で家族の絆も大切
で幸せの元となると思うのです。

2015年10月10日   終り