2011年5月9日月曜日

い も う と

妹ツル子は私より五つ下で、私が7歳の頃子守りをした記憶がある。母と叔母が遠い田んぼに稲刈りに出て日暮れになっても帰らず、門で泣いて待っていた記憶がある。4歳の頃関節を患いギブスを何ヶ月間もしていた。とかく体が弱く母は心配していた。私と妹は父が違うことに気づいたのは小学生の頃で、私の姓は国吉で彼女は漢那でした。そのことが不思議で物心ついた頃に父違いであることが判った。戦後、新しい戸籍を作るときに国吉にして東風平村に載せたのです。そのことについて妹は安義と結婚するまで知らなかったようです。
私は母に過去のことを聞いたことはなかった。私は苗さんより詳しい事情を聞いた。母は私が4歳のとき実家に預けて、大阪へ出稼ぎに行き、ある店の女中に雇われ、そこの主人の妻が病で倒れ看病してるときによくあることが出来て、いたたまれず母は実家へ帰りましたけど、すでに妹を身ごもっていたようです。店の主人も苗さんから聞いて驚き、手紙をよこして確認したとのことです。
母はその後世間の噂を気にして、私が終業式のときも優等賞をもらいましたけど出席せず、また運動会にも自分ひとりで弁当を食べた覚えがあります。母はきっと二人の父のない子を抱えて不安と世間に怯えていたのではないかと思われるのです。
私は私達二人の生い立ちに母をけなす気持ちはなく、却ってひとりの妹が出来たことを有難く思っているのです。ただ自分のしたこととはいえ不幸な人生だったと思われるのです。私自身の外国移住に妹を小学生学徒で連れてきたことに不憫を感ずるのです。
それでも何とか日本語を充分理解しまたポルトガル語も出来、ブラジルで妹は安義と出会い、結婚して7人の子に恵まれ、夫安義は私のよき話し相手であり、知識の豊富な人で私とはよく話が合うのです。移民のなかで彼ほど開拓の経験をした人は少なく、パラナの奥地クルゼイロ・ド・オエステからパラグアイの原始林も開き、牧場にして牛も入れて大農場を夢みてから、子供のことを考えて売り払い、サンパウロに引越し、ガソリンスタンドを三つも経営し、ミナス*にまたコーヒー園つくりを仕上げて1回収穫して売り、自分で4家族住まいのアパートを造り今日に至っているのです。年が若ければまだ何かに挑戦しえたかも知れません。このことは登山家が困難を乗り越えてトップまでたどり着き、満足に浸りまた下り始めるのに似ている。移民の中にこれほどあらゆる経験をした人は少ない。そのことが話し豊かな話題豊富の故かもしれません。彼を中心にたくさんの親族が移住しており、彼もまた新城家一族の歴史を変えたひとりなのです。❀

*編者註 ミナス:ミナス・ジェライス州。ブラジル南西部に位置する鉱物資源の豊かな州。近年セラード開発による機械化大規模農業が行われ、コーヒーの生産高では国内一。州面積は日本の約1.5倍。州都 ベロ・オリゾンテ。

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