2012年12月30日日曜日

随筆  2012年度総決算


今年も残り少なくなりました。家族が無事に過ごせた事は感謝の気持ちで一杯です
今年は夏蒔きの大豆やトーモロコシや収穫後のサトウキビ畑も雨が順調にあり、畑は青々としているのを見ると
農業者の満足感に浸っている、来年に大きな期待を抱いているのです。
来年に期待を持つ原因は今年の世界の穀物ストック量が非常に少なく、現在の穀物相場が最高値で取引されて,その余韻
が来年まで続き、多少の変化が見られても先物取引は高値を維持しております、農業者は一年で例年の二倍の収益があるとみています。
このような期待は在るものの、現実にはブラジル全体で、飼料高による養鶏業者や鶏肉関連業者が、飼料高によるコストを市場に上乗せできずに、廃業やストップ状態に混乱が続いております
また東北ブラジルでは、未曾有の干ばつに見舞われ、牧畜業者が40パーセントの餓死で無くされたのを、政府が支援活動に莫大な資金を投じている。一環としたサンフランシスコ川の運河に、大量の資金を挿入したけど途中で中断していて、効果が現れずにいたっている。 
あれだけの資金で大量の掘り抜き井戸から水が得たのではないかとも言われている。毎年干ばつは東北にあり、まして国民の税金が投入されていて一向に安定した生活が良くならない。東北は教育水準も最低で発展が遅れているのが現実です
南部地方だけならヨーロッパ並みの水準で、特にマトグロッソ州はアメリカ以上の大型機械化で、一年二回作物が取れるのは世界でも類のない地方
と言える。それに伴い畜産部門も豊富な飼料で生産されて世界の市場に提供している。
以上で見るブラジルの農業はアメリカに次ぐ食糧生産国と言える。2012年12月23日

2012年12月21日金曜日

随筆  日本の政治


国に住んでいても日本の政治が気になり、N。H.Kのニュースに注目している、またインターネットからも国民の声が伝わってくる
野田首相は議会解散した、民主党の三年半の与党に終止が打たれた、圧倒多数で獲得した政権で長年の人民党の政治に嫌気をさした
国民が変化を求めての、政権奪回でしたけどけど。日本の抱える問題を解決出来ずに経済増勢は悪化して野田首相がマニフェストを放棄して、政治奪回を計ろうとしたけど、議員の離党が続き真価を選挙で国民に問う形で解散して選挙を実施して、政権を人民党に渡したのです。第一の問題点は経済政策で
輸出が悪化して企業が輸出停滞して雇用を減らしていて、在は企業生産が東南アジヤに移転して、雇用体制が悪化していて、なお円高に悩まされていた。
それ以外に問題は東北の津波と原子汚染で家が健全であっても戻れない家族が未だに架設住宅で生活している人々が民主党政府に不満を抱いていたのが今度の
選挙で人民党に圧倒的な支持が集まったと言えそうです。国民は以前にも人民党の政策に不満を持っていたのですけど民主党よりはましだとの判断だとも思われる。
民主党は実行不可能な政策をマニフェストに掲げて、それ故に党内で意見が対立して三回首相が代わって野田首相は将来の国の財政立て直しに誠実に実行段階にありましたけど
国民の理解は得られず、初当選当時の四分の一を獲得するに留まった。勿論第三極政党が幾つも現れて民主党の議席を奪った形になった。私個人的には野田首相は誠実で
決断力のある政治家と思われたけど。しかし人民党の掲げる国債発行を増やしての景気対策ですから、一時的には景気が良くなったとしても、尚一曽国民の赤字が将来に持ち越されてヨーロッパの現在の姿にならねば良いけど。防衛面では今の自衛隊を国防軍に改め。憲法改正も行って国家を守りたいとの事ですけど。日本が軍事力を強化すれば隣国との摩擦も予想され、それ自体が中国の現在のような日本製品のボイコットになる恐れもある。ある程度のインフレを予測しての対策ですけど滑り出すと歯止めのきかないドルの流出が起こり、日本の国債債か額が増えて、輸入高が生産コストも押し上げる形にならねばとブラシル国の過去を思いやられるのです  2012年12月16日


2012年12月15日土曜日

人間の才脳


才能は遺伝すると言われている。体格などが遺伝することはメンデルの法則で皆に知れているけど。才能については確信が持てない。頭の良い人はその両親から頭の良さが受け継がれていると言われる。私の従兄弟に大学の先生がいて長年文通している。彼は村中から大学の先生が只一人なので自分は突然変異で生まれて、才能があり努力で大学の心理学の先生になったと語ったことがある。そのご、私が随筆や小説など書たのを送ったのを読んで貴方は私より才能があると言われた、其の言われはそもそも二人の母同志が姉妹で私の母は姉妹四人の内で小学生時代一番頭が良かったと彼の母が言っていたので、貴方はその遺伝を受け継いでいて、才能は僕よりもよいと褒めた手紙を受け取ったことがある。
彼自身勉強家で高校時代常に一番であったようだ。私は才能が半分であとは努力だと思っている。私が疑問に思うことは。同じ両親から生まれた兄弟で同じ環境で育っても、皆が同じ才能を持ち合わせない事が、なぜ起こるのでしょうか。また才能が遺伝的要素があるならば、才能が努力によって引き上げたら、その分をも遺伝に繋がるでしょうかと疑問に思う。
人間は進化して現在に至っていると言われる。生まれた時に才能は赤ちゃんの時から多分持ち合わせて居るだろう。その後環境から赤ちゃんは何もかも覚えるのだと思う。現代の様に発達した環境で赤ちゃんが覚える環境は素晴らしい、その才能も十分発揮できると思うので優秀な人間が育つ環境が整っているのではないかとも思う。それでも学校生徒で才能ある人が出る。亦試験に落ちこぼれもでる。以前のように漢字や計算ができなくてもパソコンや計算機がやってくれるので社会に出てもそれほど」不自由しないとも思われる、想像する才能と、記憶する才能と、工作に働く才能が在るようにも思われる。私は記憶の才能が働かず、今だにCICの番号やカルトンの記号など覚えきれない。娘は僕のCICの番号も覚える能力があるのは方法があるかも知れない
将来生まれる子供は教育熱心な母親たちによって才能豊かな子供が多く生まれるに違いない。また競争意識も高まるに違いない、落ちこぼれた人間や社会についていけない若い者がなければ住みよい社会になるでしょうけど  真一

2012年11月18日日曜日

人間の五感


人間の四感は頭の部分にありますけど動物ほど発達していないように思われる、例えば犬ですとエサを片手に握り両手差し出すと、どの手にエサがあるかかいで見分けることが出来る。人間は頭で想像して当てようとする、人間は脳の働きがあるから四感は鈍ったとも考えられる。犬は自分の死をも予測できるのか遠い所の穴のある所を選んで死を迎えるようです。
ある老人研究者の話で長生きしている人に共通しているのはよくおしゃべりする事だと言われる、お喋りは話にのり、自分なりに脳に蓄えた記憶をひきだし答える、相手もまた記憶を取り出してお喋りを続けるのだそうだ。例え数字などに正確からはずれていても老人なら許される。老人になってからの勉強は芯が疲れるし、偉くなる訳でもない。思いつめることはうっつうになりかねない。お喋りには常に笑いが伴い。別れて後もまた会いたい気持ちが沸き起こる、所が議論や口論は結論がなく後味を残して亦会うことすらためらうのです。女が三人集まればおしゃべりは続くのです、老人なら男から見ればやがましいかも知れない、それが生き生きとした老人なら結構です、とくに。良く笑う老人の女性はその亭主まで若くしてくれそうです
輪を持つ雑談で話上手はある程度の上品なジョ―クも持ち出して輪に笑いを持ち出すので、皆から好かれるのです、男ですと老人になって体は機能しなくても脳の機能は衰えず美しい女性に出会うと驚嘆するだけの脳は働くのです、女性でも老人になっても美にたいする感覚は同じく働くことでしょう。
もう一つの感は下の部分で動物ですと、子孫を残す役割だけを持っているようです。雌が発情するとオスが嗅ぎつけて場合によっては争いになり強い者だけが交尾の権利を得る。人間も原始の頃は強いものが自分の子孫を残していたようだ。
現代の社会では人間は脳が働き、男女の関係は愛で表現されていて。お互いに選ぶ権利があり、言葉や文字で自分の意思を伝えて合意のもとで結び会い、喜び会う事も性の機能になっていて。動物と違って繁殖以外に何回でも味わう事ができるのは脳の発達した故でしょう、
2012年11月17日
真一

2012年11月10日土曜日

ブラジル市長選挙

サンパウロ市の市長選挙はP、T立後者が当選した
無名で当初は与論調査では二パーセントだったのが第一回の選挙では二番に食い込み終盤戦ではルーラ大統領の応援のお蔭で勝利に導いた。その裏にはP,T党が八年の歳月の野党を味わった苦い経験があり。党としては奪回せねばならぬ戦いの意気込みがあった。
党としてはマルタ女史を再度立候補させたい意向でしたけど、ルーラは新人を選んで立候補して当選した、ルーラ自身のポプリズモが生んだ市長だと言える。
pT党のリーダーによる汚職事件の裁判で国民が党にたいする批判が厳しいのでないかとの予測もありましたけど各党が政権につけば皆やっているのだと思われてなんら反省がみられない。いずれ実刑の判決がいいわたされた段階でP.Tのリーダーたちは犯人を英雄呼ばわりされかねない。
党が最高裁への抗議のマニフェストを発表しかねない状態です
PT党やPSDB党が十八年間政権を握って来たけど何らめぼしい改革はなされず。政権に携わる役人の汚職と政党の利益のみを考えて運営されてきたことは事実でブラジル国家が良くなったのも世界情勢の経済が影響していたのです。現に世界経済が悪化した不況状態では海外からの投資も鈍く。外貨準備は減る一方で尚国内支出は増えるだけです。たとえ銀行利子を減らして消費を奨励しても国民一人当たりの借金は支払能力の限界に達して、これ以上負債を国民が抱える事は破産しかねないのです。消費にも限界があり。国内消費だけでは産業は成り立たない、思い切って税制改革を行い工業界の生産コストを減らして輸出を奨励するのが妥当でしょう。
現政府はあまり税制改革を実行していない。それは州政府との利害関係が根強く中々実行できない。
二千十四年度の大統領選挙や
州統領の選挙の下準備が行われている。私としては大三勢力の途上を願っている。PTとPSDB党の政党は汚職に明け暮れて国民から嫌われた党になっている。若い人々がインタネットを通じて立ち上がる政党を支持したい
現にブラジルはいろいろの局面で危機に直面している。ガソリンの生産とエタノールの生産が消費拡大に追い付かないので輸入に頼っている。海底の石油埋蔵量をあれ程宣伝した前大統領も面目を失ったと言える。亦電気エネルギーも東北の長いセッカで電力不足で各地で停電に陥り養鶏業者に多大の損害を与えている。政府内には三十三の各省があり。政府支持党に割り当てられて、その下の局長クラスまでが政治家任命で専門の適任者には程遠く。これが運営機能を遅らせていると専門家は指摘している。それ以外にも年末には航空業界がパニックに陥る可脳性がある。治安維持では犯罪闇組織が警官を多発的に殺害し住民を不安に落とし入れて、行政の無能さを表している。政治家や行政官はもっと襟を正して国民に答えて欲しいのです


2012年10月27日土曜日

我が人生

自分がどのような人間であるか考えてみた。他人の事は良く目に着き。徹底して分析するけど自分を分析するのは難しい
医者の診察のように体は観察できても僕の性格や心理状態を分析するのは出来そうにない。まず自分で分析して妥当な点があるようにも思われる
自分でも運の良い人間だと思っている、まず農業用地が地形良く、霜や災害にあった事がない。失敗もあったけど作物が良く取れた。
値段も割合に良い値段で売っている。また良き妻に巡り合えた事も運がよいと言えそうだ、女性から好かれることは自分なりに良い点が無ければならないと思っている。良い点とはまず知識がある事。思量深いこと。思いやりのある事など、
知識は努力して得られるので、知りたい意欲が旺盛であったと思う。常にあらゆる本を読んでいた。自分でもせっかちな性格だと思っている、早く仕事を終わらせて、また次に挑む状態が今でもある。何もせずにいる時間が勿体なく思われる。また働かずに食べる事は人に養われているとの原理
が根づいている、また食糧は自分で生産するのが当たり前だとも思っている。原始の時代には皆農作物は自分で生産した、役人が生まれて食料が商人の手をえて役人に渡り、硬貨が流通の役目を果たした。時の過ぎるのを待つのは無駄に過ごしたと思われてならない、
例えばコップを取るにも手を棚に向けると、目は早や水のある場所に向いている,字を書く時に頭に描く字が手は別の字を書き始めて気が付くことがある。次のようなエピソードが残って居る。隣の家に大きな綱を借りに行った時、帰りに野菜を頂いた。綱をおいて野菜お受け取り帰りを急いだ
途中で大事な綱を忘れた事を思い出し、野菜をコーヒ―の下において綱を持ち帰った。仕事も終えて、戴いた野菜はとっくに忘れていた。
ある時コーヒーの草取りにその野菜に出会った、多分一か月も過ぎていたようだ、忘れていた事が思い出された。穀物も先を読み売ることがあり
損することがある、いつもシカゴの穀物先取引を読んでいるけど当たる率は少ない、
妻が二世であった事も運があった事と思う、妻との会話の理解を深めるためにポルトガル語に熱中した事が。同じ移民の中でも言葉が理解できると思っている、妻との会話はすべてポルトガル語で子供の教育にも妻は役立っている、ちなみに九人の子が国立大学に入学出来た。ただし子供の日本語は不自由を感じているようだ、外国語を覚える感覚は娘にも遺伝したようで自分で勉強した英語が北米旅行に役立っている。また沖縄の言葉も覚えようと努力しているのは微笑ましい。今でも理解できないポルトガル語は辞典を開いて頭に詰め込むことがある。私のメールの友の南さんも
ポルトガル語が詳しいようですけど、やはり妻が二世の故でしょう。小さい時から何かに熱中すると本来の役目を忘れてしまう事が良くあった。
海で泳ぐのに夢中になり新しい学生服が波にさらわれたり、郵便局に使いに行って相撲に夢中になり、お金を無くしたり思い出せば幾らでもある。
それでも運よく今日まで生きてきた。人生は不思議なのです。

2012年9月29日土曜日


モラルの相違
今日行われている高等裁判、題して「メンサㇿン」についてブラジル政治家が行ってきた、汚職に釘を刺した観がある。
議会での議員の免職処分は何度か在ったけど、裁判に及んだことは無かった、今度の事件は七年前に起こって、前大統領を巻き込んだ
大がかりな資金が政府銀行から選挙運動資金に流れて宣伝会社の手をえて与党議員に渡された経緯をある議員が調査段階で告白して
国民にショックを与えた事件の裁判が行われている。三十六名の被告の裁判が二週間前から始まって。全国会議長を務めた議員を始め一人の被告「日系人」だけが無罪を受けて、残りは有罪が言い渡されている(RELATOR)簿記官BARBOSA NETOは前大統領によって任命された判事で、しかも黒人から始めての判事であり、ル‐ラ大統領は人種差別を亡くし国民平等のチャンスを与えたと自負していた。日本人のモラルでは大統領はバルボザ判事の恩人であり、決して背くことの出来ない存在なのです、しかし判事は任命された時点で国民の為、また国の為に自分の判断を行って、恩人の事など一切考量せずに判決を下した、そして前大統領が拝領を下した責任をも追及している。と簿記している。REVISOR[校正官」は全体において一致したものの各個人の判決には異なった意見もあり、二人は論戦を繰り広げている。我々日本人のモラルでは出来そうにない、国民性を見ることが出来た。特に官房長官を務めた{DIRCEU}は有罪の判決を受けており、自分が命令を下したと言えばル-ラ前大統領の名前は現れずに済んだけど、彼自身も火の粉を払うのに一生懸命で他人をカバっておれないように思われる。この裁判はP T党にとって痛手のようだ、国民の税金が選挙に流れたお金で多くの市民の健康を看ることが出来たはずだ。ブラジルは世界でも汚職の多い国と言われている

2012年9月22日土曜日

    ロスへの旅


長年計画していたロスへの旅が実現した。八日間の日程を組んでアメリカの生活を見ることが出来た
最大の目的は僕と同じ運命を辿った従兄弟の真勇の武勇伝を目で確かめたい気持ちも、働いていた。僕と真勇は似たような人生を辿っている」そもそも
母どうしは従妹で僕の母が若い頃大阪で大変お世話になっていて、戦後北米と南米に移住したのです。生活が安定してくるとお互い会いたい気持ちがわき出て
僕の母が訪問することが出来た。母の土産話でアメリカの生活を伝えてくれた。その後お二人は他界なされて時が過ぎ。二人の間に交わした手紙が四通現れた
僕は読んでみて二人が姉妹のような感じがした。その事の内容を手紙で真勇に告げた、二代目の文通が始まり、メール交換と繋がった。僕の書いた結婚五十年「
戦後移住者の半世紀」を送った後、真勇の歩んだ道がロス発行の日本語月刊誌に載っているのが送られてきた。彼が日本で中学生の時ハワイに移住して働きながら
大学をロスの航空大学を卒業して長年航空会社の整備技師に就任した、忍耐と努力により航空事故原因調査官にまで上り、米国より貢献賞状とメダルが贈られている
日系人の数少ない功労者の一人なのである。僕はかような仁徳ある人と、じかに話し合えるのを願っての旅でもあった。彼は精神的に心の奥深く日本人の良さを
持ちアメリカ人のセンスを身に着けた、国際人の観がした。旅行中も育った沖縄とアメリカの生活を比較して移住した有りがたさを語ってくれた、僕も同感を得た
ロスは雨の少ない半乾燥地帯でそれでも水は豊富にあり自動的に放水するように道路脇は整備されていて、四つ角には何処でも火災用の配管がある。
道路はアスファルトが完全に保たれていて、住宅地帯でも一周に一回は掃除車が洗ってくれる。亦ゴミも一周に一ど回収するので大きなゴミ箱が三つ置かれて分け
ているようです、道路脇の草取りも市がしているので一体どれだけの税金を払うのか知りたかった。ブラジルの高級住宅街を思わせる静かな街です
ラスーヴエガス
観光の日程はすべて真勇に任せていた。翌日はロスの市内見物と買い物で過ごした、勿論ブラジルに比べて安い品物がたくさんある。商店はみなクーラが入って
涼しい、またお客さんも混雑しておらず、職員も少ない。飲食店にはメキシコ人が多く働いている、今日は早く休んで、翌日四時にラスーヴエガに出発の予定
で早く休む。その理由は高速道路が七時頃には一杯になる,郊外からの通勤が皆自家用車なのでバスは殆ど見当たらない。道路はほとんど四車線で一線は二人乗り
に優遇で速度を速めることになっている、夜が明ける頃には郊外に出ていた、八時頃には照りつける太陽熱で空気が乾燥してクーラ―無くしては耐えられない
見渡す限り、低灌木と草で砂漠と趣が異なる。しかし草はあっても動物はみあたらない。点々として小さな家があるけど人間が住んでいるか判断しかねる、五
時間の旅で小さい街が三か所にあった位で、州境でまた休み九時ごろラズ―ヴエガスに着いた。中心部には高層ビルが立ち並び殆どがホテルのようだ。その下が
賭け事と飲み場で世界から集まった観光客で賑わっている。僕が知る街の由来は周辺に生産物があり、働く労働者で商店ができ銀行や病院が出来て街の活動が
整えて市制が生まれる。然しラズ―ヴエがどのように出来たのか調べて、日本人とアメリカ人の発想の違いを感じた、日本人は大人の娯楽にあれだけの資本を投じ
るのはまず社会が許さない。アメリカは働て楽しむ国民性が生み出した街で、東西鉄道が通過する場所で賭博で人が集まり、マフィヤで権力争いストリップ
とバ-が物騒で、ある金持ちが全部買収して以後安定して1950年ごろには世界に知れた街となって、なお繁栄をたどっている。高い建物の広場は昼でも人工的
に夜の光景を思わせ。お客は賭け事に熱中している。街の標高は620メートルで人口は百九十万人で1955年の資産価格が30億ドルとなっている。
デズネイ-ランド
この街は広く知られているマンガ家の発想で家族で楽しめる場所で、世界の観光場所となっている。一日では見ることが出来ないほどの施設がありどの場所もお客
で一杯だ。ホテルの施設もあり家族ずれであふれている。子供を夢の世界に誘い忘れぬ思い出になることでしょう。
ホリウツド
アメリカ映画産業で栄えた場所で繁華外が観光客でにぎわっている、相手のホテルやお土産店で栄えている。有名な俳優の足跡と名前が刻まれた道路をみることができる、三つの観光都市がカリホルニヤ州の財源になり、近代出はソフト産業ガ州一体に存在して莫大の利益を上げている、米国でも最も裕福な国民を代表しているのを感じた。真一

2012年8月25日土曜日

方言


何処の国にも方言は存在する。なかでも沖縄は方言が豊富な島だ。村を隔てても言葉が違う。私の住んでいた惣慶村も特殊な言葉を使っていたので県人に知れていた。沖縄の方言は元々琉球王朝時代に使われた言葉で大和言葉も取り入れているのが交流があったとしか
思われない。UNESCOにも言葉として登録されているようです。 沖縄方言にも標準語があり。沖縄芝居で語られる言葉を持って標準語として県人は認めていた。戦前学校で沖縄語を使う事は禁じられていた。老人もなんとか日本語で親子が話せるようになってきた。識者は沖縄言葉が無くなるではと心配した。戦後はテレビの普及で若い沖縄人も本土と変わらぬアクセントで日本語を使っている。沖縄言葉には日本の自然を描写した俳句や万葉集に出る言葉は見当たらない。それは当然で沖縄には四季の変化がない、山や森の木は年中青青としている。海にも変化は起こらないので自然を読む描写の方言が見当たらない。それでも人間の感情を表す。言葉はたくさんある。その云われは島が貧しくお互いに助け合って生きねば成らぬゆえでしょう。特に自己的な人は人間でないような表現の言葉が沢山ある、中でも、感情を表す言葉に体の部分を使うのを最良の表現とした。その中で日本は腹で表現した言葉.例えば。腹ぐろいや、腹が立つ。腹が収まらないなど。沖縄の言葉には肝と心一体にした言葉が多い、チムグクル(肝と心)。チムヤンジ{胸痛む}。チムビルサン{心ひろい}など数えただけでも20以上の感動詞がある。代表的な言葉がイチャリバ.チョウデ{会えば兄弟}は沖縄人を表現した最高の言葉のような感じがする。亦処によって言葉が違う、例えば北部ではカサギラス{背負わす}の意味が南部では妊娠させるという。北部の女性が商品を背負って日陰に休んでいた。あいにく南部の青年が通りかかり{エーニ―セカサギラチトラセー}南部の青年は性交渉を意味すると感じた。伝え話がある。ブラジルに移住した沖縄人は二世が誕生して使われた会話は沖縄語とポルトガル語で多くの沖縄二世が沖縄語を理解できる、。沖縄本土でなくなった沖縄語も残って居る。その例がチキジ「マッチ」の事亦布団のことを「ウ‐ド」の言葉は沖縄でとっくに消えたのが残って居た2012年八月二十五日 真一。

2012年8月12日日曜日

随筆 二つの国を考える

現在置かれている日本社会とブラジル社会を想い浮かぶままに記して置きたいので何時か参考になるかも知れないのです。日本の事は直接私の生活に関係するのではないけど、
祖国なので自分の後ろ盾として健全であってほしいと願うのです。
現在の日本は八方塞がりの観がする。70年代世界一を誇った生産力が停滞して生産コスト世界一で安くて輸出を誇った時代もあった。現在はコスト高で他国に押されている。ただ質の面だけは外国も認めている。
重要な問題も国民は意見が分かれて政治家は決断を下しかねている、原子力発電にしろ、消費税引き上げにしても意見が分かれて政治が混沌としている。過去を顧みて軍国主義が実検を握る前のように国民は民主主義が世論に押された時代があって、思想家や哲学者が議論を交わして、生命が脅かされた時代があった。現在は思想家や哲学者は見当たらない。国会議員がもっと国会で日本の進むべき道を議論いて欲しい、現在の議員は次の選挙に生き残れることだけを考えているようだ、現在日本が抱えているいろいろの問題も戦後アメリカの自由主義を主体とした生活が日本国民は啓蒙して取り入れてきた。日本人の伝統的習慣は若い者に取り入れられず、老人たちは親子とも暮らすことが出来ず、尚アメリカ式の夫婦でも愛がさめたら離婚することまで取り入れているのです。今一度日本人が受け継がれたものの考え方を取り入れたいように思われる

次はブラジル国
ブラジル国は私の住んでいる国で色々の政治が直接私の生活に結びつくので関心は高い。私の子孫の将来もあるので良い国家になって欲しいと願うのです「。勿論生活しては遥かに日本よりは良い。治安は日本のようにはいかないけど。地方に住めば別に危険に会うことはない。日本の災害に比べれば暮らし易い。ある程度の老年金を受け取る人なら健康保険に加入もできて医者や検査を受ける事が出来るから健康は安心して暮らせるのです
日本と比較して交通機関が発達しておらず,殆どが道路にたよっていて物資の運送に経費がかかるからです。1500キロの農作物を港まで運ぶのに港から日本の方が安いとのこと亦工業用の電気料金が韓国の五倍もする。港の整備も遅れてコンテナでトンあたり韓国の五倍の料金になるようです。これでは輸出するのに太刀打ちできない。自動車生産でも鉄鉱石をブラジルから輸入して造った鉄板が輸入しても国内品より安くつく状態でコスト高。インフラ設備が整わず生産者が背負うことになる、このような状態も政治家は国会で議論することなく。目の前の問題と政治家同士の駆け引きに明け暮れているのです。ブラジルも国民が議論して報道機関が関与して欲しいのです、勿論思想家や社会学者も見当たらないのは悲しい想いがするのです。
2012年8月5日  国吉真一

2012年7月22日日曜日

現代社会と国民総幸福

国民総幸福亦は.G。N.Hとも言われて国家の目標に掲げた国がNHKのドクメンタリオで紹介されたのを見て。私達の住む現代国家と比較して考えることが多かった。あまり知られていない小さい国でインドと中国との国境にあり地形が山岳地帯で80パーセントが同一民族で殆どの国民が農業で、しかも自家消費が主で消費市場も少なく国家の経費は45\セントが国連の援助により予算の55パーセントが国民の税金でまかなわれている。王国で四代目の継承で。国の面積は多分九州の大きさで議員が約20名で首相は任命のようです、ブㇿ‐グの説明で知れたような国で東北震災を見舞われてやっと知れたような国です。ただ現代社会とは100年の隔たりがあるようで電気は勿論自家用車や自転車すらないようです。それでも国民は幸福だと言われるので、その理由が食料は事足りて、健康は国が無料で、病人を診察する、また病院もただ。国民の負担は殆どない、国民の払う能力もゼロに等しいので当然です。農家の生活はアバラ屋で電気道具もなく道は歩道だけで、山岳地帯に学校があり給食もご飯と野菜だけ。生徒は各自お皿を持ってくる。それでも80パーセントの児童が学んでいる。これも国の国民の幸福を目票として教育と健康を掲げているからです。農家の父母は自分は無学でせめて子供には教育を受けさせたい願いが。国家戦略に合致していて。衛生の教育も欠かさない事も幸福に繋がっているようです。国民は昔から助け合って生活していて、格差がない。現代社会の人騙しや泥棒もなく。殺人も起こりようがなく。警察あってないようなもの裁判所もなく。弁護士もいらない国民なので生活が質素です。この国の宗教はダライラマ教と同派で統一されて学校でもお祈と瞑想の時間がある。道路は歩道で自動車の通る道は田舎にはない、山岳地帯で雨が多く干ばつの被害はないようだ。生活は簡単で服装も単一国内品で女性の化粧品もない現代社会のファションのモデルや化粧品会社も生まれない、また髪も自然のままなので、今日の社会が生み出した、いろいろの職業が生れない。若い人が農村から出ても街に働き場所がないので農村に留まるのです。この国と私達の近代社会と比較して殺人や交通事故や麻薬業者や麻薬常用者も生まれない。また餓死する人もいないのです。私達の住む社会が複雑なので、有る点では安心して住めるような社会でないことは確実です。その点幸福とも云えないようです。

2012年6月30日土曜日

随筆農業一筋に

私はブラジル移住して以来、農業一筋に生きてきた
古い移民には農業一筋で一生終えた人が殆どです、
故郷に錦を飾って帰る望みも果たせなかったのが多い、しかし戦後移住者は殆どが再渡航している。勿論私も何回もしている
錦を飾るほどではなくても、出稼ぎを兼ねての訪問も多い、自分の子孫をブラジルに根を下ろしているので
日本に永住する訳にもいかない、
また長年のブラジル滞在に日本での暮らしも
馴染めなくブラジルに永住を決めるのが多い
その様な環境で私はブラジルに誰よりも移住が適しているように思われる、先ず農業一筋に今日までやって来た
あるいは体と頭が動けるまでやるかも知れない。
まず農業始めたのは着いて一週間後から
エンシャーダを持ち始めた。出会ったのはコーヒー^
園で現在でも栽培している。色々な体験をしている
始めに出会ったのが霜で、パラナ全土に及び二年目のコーヒーが全部焼けた。その間作にトウモロコシと豆を植えて収入を得て、コーヒーを育てた二年目から初めて少しの収穫がでた。その後もパラナの新開地に
コーヒーが植え付けられて
生産過剰になった。政府が買い上げて焼いたこともあった、それでも生産過剰して政府がお金をだして引き抜いた、その後また霜が降りてパラナ全体が全滅状態になり自然と引き抜いて綿作に変わった。殆どのコーヒー農家が大豆や綿作に変わった。それでも私はコーヒーを栽培した。まず土地が標高高く少しの霜は免れていたからです。次の収穫は良い値段で取引された。
一時四人目の子が生まれた時。子供の教育を考えて。街の仕事をしようと思った事があった。丁度その頃日本ではスーパーが流行っていたけど、ブラジルの田舎街にはなかった土地を売っての転換ですから愛着で勇気がなかった。お客相手の仕事は苦手だった、競争相手のお客を取らねばならないからです、農業は隣の相手も同志と組めて発展できるのです。でも自然を相手にまた土地を相手にするのは好きだった、真剣に取リ組めば必ず収穫が得られるのです。古い伝統と新しい技術の組み合わせで市場を読んで栽培すれば必ず利益が得られるのです。機械を取り入れて、労働力を減らし有機物保存と表土流出を防いで作物が土壌から吸い上げた三要素はそれ以上に補う事に勤めれば土地は何時迄も栽培できるのです、日本の土地は何百年も作物が栽培されている、また労働法もきびしくなった
以前使用人はある程度の土地使用を与えて安く賃金を払っていた、現在は労働手帳に登録して最低賃金以上を払って運営している、街の労働者同様休暇も与えて尚失業手当のフンドも積み立てるので最低給料が倍になるのです、それでも農業は日本と比べて遣り甲斐があるのです使用人を使って利益がでるからです。1、農業は自由です、自分が主で誰も命令しない。亦、結果も責任は自分で持たねばならない時代の変化は予測できずにいる。それでも食糧不足と消費が拡大して不足がちです。自分で選んだ道ですけど農業一筋にやって良かったと思うのです.若しあの時街の仕事を選んだなら子供を大学までやれなかったでしょう。街の商売は家族の人でが必要だからです。

2012年6月24日日曜日

随筆   正直

人が社会で生活するには、正直は大切な要素で、信頼して付き合う事に必要です、それでも大人の正直と子供の正直は幾分趣が異なる。大人の純真な正直は子供っぽいとされて、あまり相手にされない。大人の正直はある程度純真を超えて誇張したり、反対に下げすますこがよくある。私達の会話の中でも言葉巧みに取り入れている。会話の中でうまく上下に取り入れて話す事は会話がうまいとされて、皆から好かれるからです、その程度は正直を超えているかも知れないけど、人間関係を潤す潤滑油の役割を果たしているとも考えられる。日本人は外国人からみて、質問に自分の本心を伝えない事がよくある。本心を伝えて自分自身が相手にどう察するか不安だからと思う。また,姑と嫁の間でもお互いに本音を言わないのが常です。それが家庭円満の要素であればその方が良いと思のです。人間のやり方に不純を感じて、時たま、自分に正直に生きたいと思う事もある、それが孤独になる事は間違いない。人間は褒められると気持ちが良い、しかしどの程度本心かも計り様がない。特に文章を書くにおいては、読む人が心よく感ずるように書いている、例え、ある程度の誇張もやむを得ない。人は衣服で着飾って、また化粧して、自分を美しく見せたいのが人情で本当の自分でないかもしれない、それでも見る相手も気持ちが浮き浮する、私達の日常生活が潤滑に活動するのだとも思うのです、人間は誰も他人が何を考えているか覗き見ることは出来ない、それもお互いに付き合う上で大事で、もし相手の中を見ることが出来たら衝突ばかりで大変な世の中になるでしょう。人間が正直に生きることは真実な人生なのです、けど社会の圧迫に耐えかねるかも知れない。日常生活は正直に近いけど人間はロマンスを好む、旅行は毎日の生活とはかけ離れて。楽しいけど長く続くと正直日常の毎日が恋しくなる。
ブラジル人社会では日本人は正直者だと認識している。多分本音もあるけど一世は言葉の不自由から正直にならざるを得なかったとも思われる。人間は正直が善で、嘘は悪とされている。場合によっては嘘をつかねならない時だってある。たとえば証人で友人を助ける場合、しかし政治家が自分の声明が嘘と発覚した場合、政治家として失閣するから発言を曖昧にするのです。
2012620

2012年6月17日日曜日

ブラジルの政治の行くへ

ブラジル国民の意識調査では国民半数以上がブラジルは良くなると答えている。確かにブラジルの国民の生活は良くなっている。国民所得も増えている。消費も拡大している、どの家にも車があり。中産階級は平均二台を所有している。どこの町でも通りは車で一杯して、駐車するのに苦心するのが現状です。それ以外にも低所得の家庭でも冷蔵庫や洗濯機が置かれている。また通信の面では各自が携帯電話を持ち歩いている.各町には何件もの電気商品店があり.バザールには既製品の服が並び好きな洋服が選べる。スパーには好きな品物がなんでもある、特に低所得の生活が向上しているのは確かです。これも最低給料が三百ドル以上にもなり、それでも失業率は九パーセントで世界でもよい方です。インフレが四.五パーセントに抑えられて銀行利子も八パーセント前後とブラジルにはなかったことです。政府はクレジットを増やして、国民住宅を建築して長期利子で売り出している。亦新車も長期で販売して、ストックを減らそうとしている、それでも景気の予想は現れていない,ある経済家は税制度を変えてコストダウンを計り外国との競争力を計るべきだと指摘する。消費者は多くの負債を抱えているのでこれ以上消費を引っ張るのは無理のようです、しかし政治の面では市長選挙が全国一斎に行われるのを前に政府があらゆる政策を打ち出して景気を盛り上げようとしている。現大統領は国民の支持は高いものの、管理政策に熱中するも側近側の政治家が恐れて政策を打ち出せず。インフラ投資が停滞している、今度の市長選挙の勝利を期待しているけど与党内の足並みは揃わないのが現状です。その前触れとしてル‐ラ前大統領は最高栽の人物と秘密会談をしたのが報道されて国民の批判を受けている、あってはならない事で、また与党連携党とも立候補者の擁立で対立が続いている、八月には三十人以上の与党政治家の高等裁判が始まり、その影響は与党にとって不利な前触れとなる、現大統領は政府のあらゆる面で引締めを行い建設業が停滞しているのです、ヨーロッパの政治。経済が後退する中で中国やアメリカも停滞して世界が金融や各国の輸出が弱まっている、ブラジルも例外でなく国民総生産が2.5パーッセントに止まっているので。大統領は不安を隠せず、国内消費を増やして、工業を支えて、失業者が増えない事を願っておるのが現状です。2012616

2012年6月9日土曜日

日本の政治の行くㇸ

日本のニユ―スは野田総理が消費税引き上げに政治生命をかけていることを報じている、野党の人民党と駆け引きしていることも報じている。人民党は長年与党として消費税を取り入れてきた。その時は野党であった、民主党も反対を称えてきた。現在でも民主党内の小沢派は反対を称えて、対立している。原因は選挙当時マニフェストに所得税引き上げしない事を盛り込んでいたので国民に約束を守らないことで反対を固執している、国民としては税金の引き上げは反対するのが普通です、理由は生活を圧迫するからで、しかし日本が世界でも消費税が低い方なのです。日本の経済状況を察する人は現状を維持することは、将来日本が破滅しかねない状態にある事も事実なのです。特に若い人々に多くの負担を負わせることになります。然し現状は若い人々は政治に無関心の様で、将来今の生活が維持出来るとは思えない。野田総理は日本がヨ‐ㇿッパの様な、八ッ法塞がりを規制しようと努めていることが伺える。日本の将来は決して明るくない。日本の輸出は減る一方で国民が老人化して若い者が減る中で労働者は外国人に頼らねばならない。老後保険の支払は増える一方で支払う労働者は減る一方なので、将来を考えると現在国民預金がある内に、財政を整えるのが国民の義務だと思われる。確かに現在は世界と比べて国民の所得に余裕があるのは、旅行者や生活程度をみても解る。然し国は多くの国債を抱えていて、利息が無利子のような状態ですけど、何時迄も続くとは限らない。現に世界金融界では、三ツ星AAAでしたけど一つ消えてAAになっている。もっと落ちるかも知れない状態です,ヨ-ㇿッパの財政悪化が日本の輸出にも影響与え。ひいては世界不況になりかねない、消費税引き上げはデフレ気味の日本では物価の引き上げを起こすかめ知れない。その反面消費が落ち込むかも知れないジレンマにあるです、日本人は元々他国人と比べて倹約者なのです、国民の預金が少しでも減る事があれば、また少しでも利子が上がれば国債発行も現在のようには行かないでしょう、ひいては円高現象も抑えることができる感がするのです、七十年代は輸出が世界のトップに出た事もあった。中国に押されて、ソフト産業は韓国にも押されて、ソニーなどは赤字に転落している、今後業界の再編成に迫られているのです、日本の電力事情でも、原子力発電も国民にショックを与えて抑制せねばならぬ現実になっている、日本の国民が生活改善していかに節電するか問われている現実です。もし仮に小エネルギ―の国家戦絡のモデル国家が出来たら新しい産業が生まれるかも知れない、いずれにしても将来の道が生まれることは確実だと思うのでけど2012年6月9

2012年6月7日木曜日

随筆    終幕

長生きすると世の中の移り変わりを体験している事になる。その事は自分の歴史でもあり、子や孫に伝えて行かねばならないと思っている、私自身も母から自分で体験しなかった、古い出来事を伝えてくれた。ある面では、本に載らない小さな出来事も知ることが出来た、現在私が綴っているのも、一つの歴史の流れである。自分の人生を演劇に捉えるならば一幕が生まれ故郷での生活です、中幕がブラジル移民して以来の出来事で、現在は終幕を演じていると考えられる。私が生れたのは、母の実家で、祖父母と二人の叔母が暮らしていた。父は五歳の時、亡くなり家は女が主だった、祖父は病気勝ちで母と姉妹が暮らしていた。私は女性の影響を受けて育ったようで、細心な感受性を受けていると思われる点がある、人間の才能は両親から授かったのでその後の環境で性格が整われると言われている。私自身故郷の幼友達や学校での友達、そして高校での友達や、先生との出会いが、私自身の性格を創りあげたでしょう。その中でも最も
の時紙に書かれた図面に東西南北が記されて番号が打たれていた。その番号通り柱を運ぶのも手伝った、古い大工さんは私に、お前は建築の素質があると言われた.そのことを母に語ると自惚れてはいけない。自惚れは自分を見失うと言われた事が膿に焼き付いている。。青年になりブラジルへ移住してからが二幕です、まず始めに驚いたのは占領下の沖縄では、白人は一等民族で日本人は敗戦と共に劣等感を抱いていた,しかしブラジルでは白人が日本人のコㇿノとして使われていた、しかも殆どが裸足で歩いていた,服もまともなのを着ていなかったのです、少しは劣等感を取り戻したのです。沖縄の家庭ではウチナーグチが使われているのも驚きでした、故郷ではすでにウチナグチは滅びかけていたのです。習慣も古い慣しが残されていた、慣れるまでは戸惑いを感じた。コㇿ二ヤの人びとから習い覚えて、何とか土地所有者にもなれた、結婚して子供が生まれ育てるのも思ったほどより容易く。大学まで全てやることができた、考えると運のある人だと言われるようになった。自分ではそれなりの努力はしていると思っているけど。
植民地の人びと、町の日本人、組合を通じての知り合い、教会を通してのブラジル人といろいろの人びととに関わってきた。勿論仕事上の付き合いと人間関係を広げてきたのです。年を重ねるにつけて仕事も縮小して、知り合いも小さくなり、家族や親せきとの交わりを大切にしておる。多くのの友達や知り合いが他界する中に自分が取り残されたようにも感ずる、けどまだやらねばならぬ仕事があるので残って居るのかも知れない。移住して六十年以上にもなりブラジルの移り変わるのを体験した、移民当時は街や植民地には自動車はごくまれで殆どが荷馬車でした、現在はどの家にも自動車がある。
飯を炊くのも薪でした、今はどの家でもガスで始めラジオが入り白黒のテレビが入り今はどの家でも カラーテレビが入っている、現在はインターネットが普及して世界どこでも即時に通話やメールで語り合えるようになった、一つの組織革命のように思われる、長生きして世の中の変りを体験した、また日系人の隆盛と衰退をも見てきた
人間の成功と衰退のなかで家族の絆を大切にしているのが輝いている様にみられる。私も終幕を演じているのですけど、舞台のフィナーレのように幕が下りても観衆の胸に心に残るような人生の終幕でありたいと願うのです。二千十二年六月五日  国吉真一

2012年5月20日日曜日

随筆 比較社会

人間は生まれた時から何事にも比較して成長したようです。四か月もすると回りの人は誰かに似ているか比較する。笑い出すと生まれた時と成長した事を比較して知らせられる。人間の周りをみてもあらゆる事が比較の対象になっているようです、人間社会が比較によって進歩しているようにもとれる。良い、悪い、高い、安い、低い、など考えただけでもたくさんある。人間の良い悪いは常識によって中立の間があって決めて
いるようです。比較するに数字が必要で各国の国民の生活も数字で先進国と後進国が解ります。数字が無かったら何事も比較できないでしょう。社会には貧乏社会と金持社会がある、むしろ貧乏人によって金持ちが成り立つとの理屈が成り立つ。社会には知識ある人とそうでない人によって構成されている。社会は知識ある人によって治められている。自由主義社会では政治は指導力のある人が政治を握る。民主国家では何をおいても自由が第一に国民平等をもって憲法が敷かれている、にもかがわらず、知恵のある人はずば抜けて金持ちになれる。社会は五本の指の様に平行には出来ていない。よい社会は金持ちから十分取り上げて貧乏人に分配する社会が理想ですけど。かならずしもそうはいかないのが社会なのかも知れない。さて数学は何時ごろで来たのでしょうか。文化の始め頃に出来たと思われる。あらゆる数学の方程式は生活の中で取り入れています。現在はいろいろの道具がありますけど。川の幅を計ったり高い木を計ったり。方程式と影で測れるのを昔の人は使っていたのです、最近私は次のようなことを考えました。水力を利用して発電します。落差の力を利用しての事ですからその発電機の電気を利用して同じ水を何パーセントもとに戻せるだろうか考えたことがあります。専門家は計れると思う。落差を利用してのエネル―ギと持ち上げるエネルギーとでどれだけの差がでるのだろうか。これも比較の対象です。私達の社会で比較がとまったら土人の社会になるでしょう。亦比較を否定したら滅びた社会を意味するかもしれません。有名な大学入学試験など一番の点数が発表されます。ただ一人が比較されて何万の受験生が無視されますしかし、無視された何万人が社会を支えるのです、このような比較される社会で数字に惑わされずに生きることが出来ないだろうか考えた事があります。それは多分精神異常を起こした病人扱いされるのでしょう。
2012年五月二十日 国吉真一。

2012年5月6日日曜日

随筆 人間と宗教

歴史上で古い昔から人間は宗教に関わたって生活している。日本ですと神は森や御嶽などに宿るとされて、宗拝の対象になっている。歴史の古いギリシャの神殿の跡を見ても人間は神を崇拝して生活してきたのです、現代でも殆どの国民が宗教の団体に属している。その反面若い者に宗教離れも起きている。またキリスト教でも新しい宗教がたけのこの様に現れて信者獲得に凌ぎを表して居るのです。特に低所得の層に信者が多いようです、では知識階級には宗教はどのように考えて居るのでしょうか、誰しも宗教について、議論するのはタブーとされている。現に知人とも語り合ったことが無いのです。人前で俺は無紳論者だと出張できない。その理由はこの人は野蛮人と受け取れないとも限らないからです、また自分の人生を確信持って無神論で生きることも出来ないのです。現に宗教によって起こっている問題をどう捉えたら良いのか迷います。回教徒の宗教の自爆テロ。自分の生命を無視する行為は考えられない。亦キリストの生存不可能な胎児を堕胎することも許さない宗教も一般の人びとには理解できない。古い政治体制が宗教に支配された国家で国民に自由がないのも悲しい。私自身ですと小さいときから沖縄の祖先崇拝が生活に取り入れて生活してきて、ブラジルでカトリックの洗礼を受けて子達と共に隣の人々とも社交的に関ってきました。色々な説教も聞きました。それでも熱心な信者にはなれないのです。説の中に病を治してくれるとか。家庭が円満でお金も授かるとか。またそれを受けるには余分なデシモを献上すべきとの話で終わるのです、
その点を考えると、低所得者や貧乏人ほど余計献金しているようです、私は無神論者でもないのです。古くは今日ほど医学や自然科学が進歩しておらず死ぬ人が多かった。神の保護を求めて宗教に縋ったのでしょう。また、迷いある時は神父や牧師の教えを乞うたのです。現在は精神心理医師の門をたたくのです。私は農業者として自然の影響を受けやすい。自分の力では出来ない天候や作物の値段の変動や使用人の健康など神様に祈る以外にはないのです。自分の都合だけで神に頼っている様にも受取れますけど、ただ深入りしないだけの事です、考えると人間は経済に恵まれ、家族に恵まれても自分の予測出来ないのが多いのです。
人間は弱い者なのですから神にすがるのだと思うのです。2012年4月

2012年4月6日金曜日

人間の欲望

人間の欲望は幼児の頃から生じる。成長を維持する為の本能で、食べ物を欲しがる、成長に応じて好きな物を感知する、触ったり、音を聞いたりして脳に知能を蓄積して能力を高めると言われている。思春期になると人間としての欲望が生じる。私の場合ですと少年の頃、自転車に乗ってみたいと思った。私の家では買う事が出来ないので隣の叔父さんの借りて練習して乗れた。達成感があった。また村の海には三キロ沖に環礁の岸があり満潮時には大きな唸り音が聞こえて、自然の威厳を見せていた.干潮時に岸が浮かんで見えた。一年に一度最も潮が引く時には母も行く事があった。僕も行って見たい欲望があったけど機会がなかった、学生時代に西部劇のシネマをみて外国で暮らしたいとの欲望があった、そしてブラジルへ移住した。移住初期に土地を持ちたいとの欲望がでた、なんとか小さい面積の土地を持つことが出来た。子供の教育などを考えて面積を増やす欲望が湧いたそれもできた。然しよく考えても欲望は必ずしも達成されるとは限らない。人間には運が伴うからです、欲望とは欲張りの様にも考えられる。然し、夢や欲望が無ければ生きる意欲もない。社会の発展を促す原動力の様にも考えられる。自己主義の欲望は社会に害を与え周囲から憎まれるだけです。年と共に欲望もあまりない。ただし金銭に恵まれれば。新しい家を建築したいとの欲望がある。自然の環境に優しく太陽光線を取り入れて熱を利用し、雨も貯蔵して家族が多いので車四台の駐車場と言った夢を持って居る夢でおわるだろう。またロスに住む従兄弟を訪ねたい欲望を持って居る、農作物収穫の後で9月ごろ予定しているけど、実現可能性十分あると思う2012年4月。

2012年3月25日日曜日

随筆ブラジルの日系社会の現在と五十年前

随筆ブラジルの日系社会の現在と五十年前
一千九百六十年代のブラジル日系社会は活発に活動していた。戦後の停滞から始動したのも戦後移住者の増加も加わっての新しい息吹を持ち込んでの体制でした、日本のシネマやのど自慢や運動会などで賑わった。植民地には各家に荷馬車があり。街への用事や買い物にも用立てた。その頃アメリカでは各家庭に自動車があるとの話を聞いていた。現実にブラジルでも荷馬車に代わって各家庭に自家用車が存在するようになった、それには五十年の歴史が必要とした。その後日系社会にも家族構成において、子弟の教育や結婚が変化が現れた、教育で大学へ入学する生徒が増えて多人種との接触も容易く多民族との結婚も増える一方で日本語教育も薄れていった、。現在では大都会でしか日本語教育は行われていない、地方都市の日本語教育を主体とした日本人会の存在にも変化を余儀なくされた、現在では会議もポルトガル語でしか会議が成らず、日本語を話す人も二、1三人で、また役員になる人も少なく万年会長が続いている。昔の植民地は住む人がおらず、ただ道だけが面影を残している状態です。日系人の家庭でも変化がおきて家族の中に多民族が加わりどこの家庭でも子や孫の雑種が起こる。将来準日本人の割合は少なく顔形だけでは日本人の子孫を見分けるのは難しくなる、その場合名前や姓に日本語姓だと祖先が日本人だと言える.このような、時代の変化に何が残るのでしょうか関心が寄せられる、日本人の食事はある程度残るでしょう。日本人会はブラジル人を交えて運営されるでしょう。日系人の殆どが街に住むようになり、出版物も限られただけになり、、コンピユタ―を通じて見ることでしょう、2012年3月23日 国吉真一

2012年3月18日日曜日

随筆     海外から見た日本

今月東北大震災から丁度一年が過ぎた。毎日の様にN N Kは震災後の人々の暮らしや、復興しつつある姿を伝えている.仮設住宅で暮らす人々の思ひも報道されている、
また、海外からの支援や応援の言葉もたくさん寄せられていて、外国人から見た日本人の評価は素晴らしい、外国人なら、家を失い、家族を失い,職もない現実に出会った時、社会は混乱
が起きるのが当然だと考えている、しかし日本人は整然と正しく、行政の命令に行動する姿に感銘を受けているのです、。勿論戦後の復興を20年で成し遂げた日本を現実に知っているからです、日本の規律正しい国民は何から培われたのでしょうか、日本精神からそれとも、行政組織なのか、宗教からの影響は少ない、国民が団結して困難をきりぬける姿は外国で暮らす同じ日本人としては感動するのです、震災の二ユースを見るたびに涙が出るのです、果たして自分があの場面に出会ったら立ち上がる気力があるのでしょうか。自分を疑うのです。、しかし人間は悲しみや苦しい境遇にもなれるものです、その反面二ユースでみた大都会での親子の餓死は外国ではありえない事です。貧しい人々の多いブラジルでは
ありえない事で、誰かが助けてくれるのです、自分も貧しくても食糧を分け与えるので餓死に陥る事はありえない。共同体は働かなくとも。餓死だけはさせないのが事実です、
宗教の影響なのか路上で暮らす人も多い、また物乞いも多い、ない者があるものに乞うのは当然のようです。その点日本人は、ねだるのは恥で最低の人間だとの、プライドがあるのでしょう。日本人は恥をかくのは死ぬほど苦しいのでしょう。いかに世界がグロバール化しても国民性は変わることはないのでしょうか。
20012年三月二十日    国吉真一                     

2012年3月11日日曜日

今年度のブラジルの政治と経済

今年度のブラジル経済は世界各国と比較しては良いものの、去年と比較しては成長率は鈍っている。原因はレアウ高と中国の輸入引き締めとヨーロッパの経済不況です、それでも農産物の輸出は順調で南米一体がセッカに見舞われて、生産減小して国際相場が上がった故です、ブラジルの経済は農産物で支えられている状態です、当国の主用産業の鉱物は世界経済不況で重要が停滞して、価格は30パーセントも下落している、現油価格が上層し消費も拡大して、ぺトㇿブラスのプレサルの埋増量だけが世界一とかけ声だけが前進し、問題の採掘は技術と資本がおぼつかなく、アルコールと輸入で乗り切っている状態だ、工業製品はコスト高で輸出品には税金の恩典を与えていますけどそれでも外国製品には押されている、何とか国内消費を増やそうと銀行利子を下げたりしていますけど、クレジットの焦げ付けも増えて銀行も資金を外国に依存していましたけど、銀行利子も安くなれば外国の資金も減るでしょう、国民が消費に走るとインフレの再発もあり、政府はジレンマに陥っているのが現状です、また、政治の面では、現大統領は国民の絶大の支持を得ており、前政権より受け継いだ大臣は汚職にあって更迭されており、前大統領の信用のあったペトロブラス総裁も更迭して、女性の総裁が就任しておる、尚現大統領は連帯政治なのでPT以外の党派からも役員を任命せざるを得ないのです、次期市長選挙に絡み大都市では各党派が勢力を伸ばそうと運動を始めておる
政治家は犯罪に巻き込まれても逮捕できない恩典があったけど無く使用と議会に提出している、最高栽判所は犯罪にかかわった国民は選挙に立コウホウできない事になっている。

2012年2月22日水曜日

随筆         人間の体

人間の体は年と共に衰えていく。体力も弱り,若い頃は60キロ担ぐのはなん
でもなかった、現在は30キロでも負担を感ずる。歩く事は出来ても走ること
はできない、尚、片足で立つことも難しくズボンをはくのに、壁に寄らねばな
らない、倒れる恐れがあるからです。娘が言うにはパパイは以前は家族の団楽
に加わったけど、今はテレビかIPADを見ていると語った.それも耳に障害
があるからなのです。、始めに現れるのが目で見えにくくなる、年馬のように
目の端に目くそが貯まる、メガネでカバ―出来るけど、それでも白内障になる
と治療して見えるのがよくなる、次に現れるのが耳が聞こえにくくなることで、
私の場合電話を左耳にあてると全然聞こえないので、初めて医者に診てもらっ
たら、脳との繋ぐ神経が機能しないことが判った、補聴器を使用するように言
われて、耳によって適した補聴器をはめたけど、面倒で使用がうるさい無駄な
雑音も大きく聞こえるので、使わずにいたっている、人間の体は自動車のよう
に部品を変える訳にいかない
今のところ、人との会話は何度か聞きなおして理解できるのです。テレビです
と音量を上げて聞き取れますけど、家族の者が隣の家に遠慮して下げるように
言われる、たとえポルトガル語でも字幕があるとつい読むことに熱中する、の
で読ものも早くなっている、多分脳に集中力が高まり理解力も早い、人々が集
まる講演や、のど自慢は雑音に取られて聞きにくいので、頭で考えて自分なり
に理解する、。読むことだけは衰えず、現在タブレットを買って毎日日本の古
い小説を読んでいる。タブレットの機能は素晴らしく、インターネットの機能
もすべて備えて電話や写真を撮るのにも使えるし、FACE BOOKには簡
単なメールや写真を載せて、知らない人ともお友達が出来るので私のような老
人には若い人との付き合いができるのです、、2012年2月19日 国吉真一

2012年2月12日日曜日

随筆   母と子

私は二人の孫を母親と一緒に育てる体験をしている。私自身は多くの子「九人」を育てたのですけど、あの頃は生活と時間に余裕がなかったのであまり思い出が残っていない、しかし孫は時間にも余裕が出来、よく成長を観察することが出来た、また。60年近くの結婚生活で夫婦二人だけの生活もした経験がない、いつも誰かが一緒にいて家族のにぎわいを味わっている。孫は二人とも男で、しかもアイの子で私の子とは顔の形も違う、私の九人の子はどこか両親に似ていて姉弟もよく似て他人から見ても私の子だと察しるようです
然し孫はどこも祖父母に似た所がない、それでも月日とともに成長する姿を観ることが出来る、始めは抱くことさえ難しく抱えた事も、少しで、だんだんと首を持つようになり、座り始めて四つん這いで歩き始める、このような人間の成長を観て、なんて人間は成長に手間が係るのだろうと思う、動物ですと生まれてすぐ歩き出すのに、でも、現在母は楽に子育てが出来る、べビー用品で総て間に合う。また予防薬も完璧で誕生日を迎えるまで病院へ行ったことが無い。亦、玩具も多彩で子供の成長「脳」を促している事でしよう。それでも人間の子育ては他の動物と比べて世話をかけて育つのだ、とくに母の愛情無くしては社会に送り出せない、私の娘も一人で子を育て大学までやり、職業人として一人前にして、母と子はまるで姉弟か恋人の様に中が良い、私の母は小学四年で働きに出た、私は高校までで社会人、私の子は大学まで、孫は大学卒業後も外国語かまたは大学院課程を勉強しているようです。現代の社会が必要なのかもしれません、社会構造が複雑で専門の知識が必要なのでしょう。その子に恋人が出来て、いずれ結婚すれば、母はわが子を離さねばならないので、海外への旅行も二人で楽しんでいる、あたかも別れを惜しんでのようだ、母はいずれ公務員も退職して一人になると侘しい思いになるだろうと察する、私夫婦も年を取り傍にいてくれればと思うけど、なんで姉妹が多いのに私だけが親の面倒を見るのかと、意見することも在ると思うので自然のなせるがままにしている。世間を診ると経済的に余裕がある家族は親子孫まで一緒の家庭はまず少ない。日本やブラジルでも農村には仕事状、親子一緒に住む家庭はあっても、都会には少ない、いくら夫婦仲が良くても二人暮らしは、話題も少なく、テレビを相手の暮らしを予想している、今日まで子や孫が多い故か毎日曜日は誰かが一緒にいるので侘しい思いをしたことが無い。いずれ覚悟はしても、年老いての一人暮らしは思っただけでも胸が痛む
2012210日 国吉真一、

2012年2月4日土曜日

小説      相続人

僕には三つの顔がある。読者は誰も一つの顔しかないのにと不思議がる事でしょう。
その訳を次のように説明います。まず僕の名前は「仲間進」です。同じ名前が知っているだけでも三人はおる。しかし同じ顔は僕一人だけです。しかも顔は父母から授かったもので、勿論才能も技能も親から頂いております。人間の才能は努力によって磨かれていくと言われている。技能も努力すれば上達するのは当然です。僕はブラジル二世でブラジルの身分証明も持っている。でも日本で育った故にブラジル人の様にぺらぺらしゃべれない。どこか一世のようなアクセントがある、よくブラジル人は僕の事を おい ジャポネ―スと呼ぶのです、これが一の僕の顔です。それでも僕が日本人としてのアイデンテテだと考えるようになった。これは僕の第二の顔です。勿論小学校から高等まで日本語で学んだ。精神的にも日本人なのだ、小学四年の時戦時中で竹槍訓練や手旗信号も覚えさせられた、軍歌も歌えさせられた。沖縄ではまだ沖縄の方言が使われていて徹底して標準語使用の為に学校で方言を使う事が禁じられていた、方言で話すと方言札の罰金を施していた。でも家庭では祖父母始め僕との会話は沖縄語でした、それが僕の大三の顔で沖縄人の顔なのです。僕が小さい時兄と二人を沖縄の祖父母の許に返された。祖父母は先祖からの習わしをよく守り、一日と十五日には仏前にお茶を供えて家族の健康と繁栄を祈るのでした。祭日にはご馳走を供えてご先祖からの安泰を願う祈り事を沖縄方言で仏様に話しかけるのです。その家督相続の為に兄と二人の沖縄帰還でした。父は戦争が激しくなると帰れなくなるかも知れないとの計いであった、父が計画どおりお金がブラジルで儲かっていないのも一つの理由でした。
僕の祖父は村一番の財産家で田畑や山を所有していた。山の麓には田んぼが広がり裕福な家庭でした。山には川があり川には珍しい石ころが沢山あった。村人は名も宝山と呼んでいた。祖父は山を掘って宝が出たら村人も裕福になると考えて、村の人を雇ってトンネルを掘る事にした。一か月経ても出てこないので技術者を雇って土壌検査をして診て始めて、山には鉱山に相当する物質がないことを知らされた。その時には銀行にも多くの負債を抱えていた、僕の父は長男故に財産を整理して外国で稼いで取り戻す計画でブラシルに移住したようだ。
兄一人は心細いので僕も一緒に祖父母のもとえ返された。兄は戦争中に学徒出陣で死亡した。祖母は後に兄の遺骨を先祖のお墓に収めえぬことを嘆いたことを僕は憶えている。祖父は何時もわしの借金故に貴方の父は命拾いしたのだ。沖縄にいたら兵隊に取られて死んでいただろうと言われた、僕は、でも兄さんは沖縄へ帰らなければ生きていたはずだと答えると。なるほどねー。戦争はもういやだ、よくも子孫は平和なブラジルへ移住してくれた。その後しばらくして亡くなられた。村人が集まり、村のリーダ^として最大の葬式が行われた。高校卒業後祖母と共にブラジルに帰って来たのだ。先祖の財産は叔父たちが守る事に祖母は決めたていた。
僕の人生が沖縄の風習に振り回されてきて青年になった。僕の頭には小さい時白人の子と遊んだ記憶がある、僕の名前がマルコスだったのも友達は呼んでいたように覚えている、
僕には弟二人と妹が生まれていた。父は三男を歯科大学へ四男を農科大学へ妹も教育大学へ勉学させていた、僕もブラジルへ残れば大学へ行けたのにと、何かも兄弟と比較した。僕が今からでもポルトガル語を勉強せねばと考えるようになった。父は日本で中学を卒教していたので子弟の教育には熱心だった。植民地の日本語教育にもリーダとして尊敬されていた。戦争中は認識派として勝ち組から命を狙われていたと後で語ってくれた。僕が家を継がねば成らぬけど、どうも父と僕は弟たちの様にしっくりいかない事か良くあった。でも母とは打ち解けて話すことが出来た、僕が祖母の許で自由に育った故か、父が厳しいのか、とにかく溝が出来た、父もその事に感じていた、弟たちは僕から難しい日本語を理解しようと話しかけて来た、また難しいポルトガル語も教えてくれて、兄弟の中はしっくりしていた。でも、僕は兄弟に対して劣等感を持つようになった。ぼくは早くポルトガル語タッチしようと辞書を頼りに週刊誌や新聞などで勉強した。あるとき組合の講習にも参加した。講習では多くの戦後移住者と友達になった。隣の植民地のある女性とも知り合いになり、お互いに好意を持つようになった。彼女も二世で日本語がよく話せた、植民地のポルトガル語の先生をしていた。名前は加藤幸子で十八歳でした。たまたま僕宛に生徒に手紙を持たせてくれた。手紙には次のように書かれていた、進さん、突然手紙を差し上げてごめんなさい。私は進むさんが当地の二世と違った知識を持っているのは多分日本で育った性でしょうね。私は日本の事がもっと知りたいですお友達になりたいからお願いします、幸子よりとあった。僕は次のように返事をだした、二世ですけどあまりポルトガル語が話せないので、貴女から教えて戴くとありがたいですと、書いて、植民地の生徒に返事を持たした。僕は日曜日に彼女の家に遊びがてら行った、幸子の兄は僕を快く迎えた。然し彼女の父は良い顔をしなかった。それでも兄が幸子も呼び出して一緒に話すことが出来た。加藤家はコーヒーを引き抜いて綿を栽培していた、幸子の下にも三人の妹がいた、兄は小学校だけでて父を助けて働いていた。僕は沖縄の習慣により先祖の跡継ぎで沖縄へ返されて沖縄で戦争に遭ったことを幸子に語った。兄は日曜も綿畑の手入れに追われていたので、それでもまた会う約束をして僕は家に帰った。家に帰ると僕が佐藤家を訪ねた事が知れて、父は激怒した。その理由を次のように話した。佐藤家は戦争中勝ち組で、わしの命を狙うとした一人ですから交際していないと言われた。でも僕は反発した。戦争が済んでもう十五年にもなり、未だに日系人同志が和解できないのは自我をはっているだけで。二世の僕たちには人間の難しさは判らない。もし僕が好きになったらそれでも反対かと尋ねた。父は日本人の娘には沖縄の習慣は理解しないでしょうから。貴方はこの家の跡継ぎだから沖縄人の娘をわしが世話してやると言った。その事で次の日曜に家族で集まって会議を開いた。兄弟と妹は僕の味方になって父を説得した。祖母も沖縄でもヤマトンチュを嫁にした家がたくさんおると、父の考えが古いよと祖母も味方になった、母はあまり口だししなかった。仕方なく父は佐藤家へ足を運んだ。でも自分の方が正しいのに自分から和議を申し入れるとはと、内心納得できなかった。いかに話を持ち出すか考え出した。その理由を戦争が起した民族同士の争いに巻き込まれた故で、戦争は終わって俺の息子も一人は無事で帰って来たので過去の事を忘れて。子らの為にお互い力を合わせましょうと説明しようと考えた、それでも息子の進が兄弟と違って祖母の許で育てられたことへの思も込められていた。佐藤家では突然の仲間善三の訪問にびっくりした。始め長男が出てきてこの前貴方の息子の進に会い、頼もしい青年だと褒めた。善三も日本語はともかくポルトガル語が不十分でと返事した、そのとき父の勇次がでて、長い間のご無沙汰を詫びた。お互いに気も晴れて今後の農業について話を交わした。夕暮れに父は帰ってきて食卓を前に僕を読んで事の成り行きを話した、君がいなかったら俺たちは死ぬまで和解することが無かっただろうと述懐した。
その後僕は良く幸子に会った、沖縄の学生時代は僕が外国二世で村の友達ともあまり仲良くなれなかった。多分アメリカは北も南も同じように考えていたのだろう。幸子は戦争の話を聞きたがった。僕は食べ物が不足して自然の草木で毒のない者は何でも食べた話をした、会う度に僕の彼女を愛する気持ちが深くなった。一緒にいる時間が早く過ぎる感じがした。父は良いことは早める方が良いと佐藤家に相談に行き婚約の日取りを決めた。来年の一月の中頃であった。僕の父は幸子の父と会って結婚の会場を植民地の会館に決めて、日本語の先生を媒酌人と決めた。母は妹が街に住んで、空いた部屋を僕ら夫婦の部屋にあてた。
結婚披露に三百人の招待客が詰めかけた。まず父はわが子が戦争で生きて帰り本日お嫁を迎えることが出来た、戦争で出来たコㇿ二ヤの傷を埋めることができた。お互いに日系発展の為に手を取り合って行きましょうと挨拶した、また日本語の先生も仲間家の繁栄に皆で乾杯と万歳を三唱した、僕は幸子を抱きしめたい気持ちで早く終わればと思っていたら、弟が街にホテルを予約してあって一周間の新婚旅行にでかけた。僕は戦後移住者としては恵まれていた。幸子は相変わらず植民地の先生に自転車で通った。午後は家族の洗濯や家のあとかたづけに日が暮れていった、母も五人のカマラーダの食事に忙しく働いて、幸子のお蔭で少しは楽になった、僕が使用人と働き、父も少しは楽になった。幸子は、つわりで吐き気をもようし母は妊娠していることを告げて。あまり無理しない様にようにさせた。それでも学校は通った。幸子は自分の給料で出産の準備ができて僕も父から小遣いを願うことなく父は僕に一斎をまかすことになった。
祖母は女のひ孫出来たのを喜ぶと、すぐに他界した。父母も孫の生まれたのを幸いに沖縄訪問を計画した、沖縄の叔父の許に父の弟の遺族金が貯金されていて、また財産の整理もするので僕は、旅費を用意する必要がなかったので助かった。長女生まれて二年になると次女が生まれた。三女の生まれるとき難産で苦しみ、それが許で三女の洋子はミルクで育て幸子の回復を期待した。その後風邪がもとで肺炎を患い三人の子を残して他界した、僕は途方にくれた。長女の博美が4か月の妹奈津子のおしめを変えたりして手伝ってくれた、父母も年が重なり。使用人を二人にしていた。隣の白人から日雇いを入れて農場を運営した。また幸子のペンソンも市役所が出してくれたので、外人の女中を雇い入れた、僕が幸子の亡きあと苦労しているのを知って。幸子の兄は妹が幸子の後を継いで先生をしたのを幸いに、手伝いを兼ねて、僕の家から通う事にしてくれた。幼な子は皆に守られて成長した。父母が母国より財産を整理して、半分は弟の名義に変えて山は軍用地として毎年借地料が入るので残し、僕の故郷訪問にと銀行に預金することにしてあった、多くの資金を手に入れて祖父の遺骨も持ち帰って来た。農業経営も楽になり、弟二人の結婚にも余分のお金を分けてやり、土地は僕の名義だけにすることにしてくれた。僕の妹も務めており。結婚した時の支度金として銀行に預けてあった。父はある点では沖縄の風俗を守り、ある点ではブラジルの習慣を取り入れて、僕の兄弟妹を同様に配了した。父は御先祖の位牌に祖母が行って、いたように一日と15日と祭日をお祈りしていた、多分祖母の様に沖縄語で話さないけど心の中で同じことをお願いしているのだと僕は察した、僕は。理解ある父を尊敬した、時が立ち。父が去り、後を追うように母も去った。僕は自分が家に取り残されたように感じられた。形見の三女奈津子は母の幸子にそっくりであった。幸子の妹の玲子は長女とよく語り会っていた。僕の長女は玲子姉さんと呼んでいた、次女だけがむっつりしてなじまない。自分の母が恋しいのだろうと僕は感じた。ある日、一人の青年が玲子に会いにきた。何分兄さんからの紹介でした。玲子は恐れながら青年に会った話によれば隣街のス―パーの息子のようでした。でも僕は動揺して脈拍が早くなっていた。僕の何処かに妻にしたい思惑があったのだろう。でも年齢からみて15歳も隔たりがあった。なお死んだ幸子にも遠慮していた、僕が再婚に踏み切れないのは。またお産で苦しんだ幸子を思うと胸がせまって踏み切れないのでした。でも玲子のはつらつとした体を看ると、男の気持ちが揺さぶるのでした。僕は勇気を持って玲子の青年に対する意見を聞いてみた。玲子は次のように話してくれた、商売人は何でも皆お金に計算して考えるようで。ここまでTAXIで来てなんぼお金を払ったとか,ス―パーでは一日にいくらの金がはいるとかで、うんざりしたと答えた。僕はお金があれば楽なのでなんでも欲しい者が買える、貧乏人よりは良いだろうと内心嬉しいながらの質問をした。玲子は兄さんのような男はめったにいないのよ、博識があるし、思いやりもあるし素敵な男性だよね。僕は思い切って僕の妻になっても良いと思うのかと聞いた、玲子は兄さんが好きですと答えた。でも僕は15歳も年上でお前よりも早く死んだら早く未亡人になるんだよと言った。でも人間の運命だれも知らない。幸子姉さんだって進さんより3つ若いけど早く亡くなったでしょう、その後は玲子の態度も攻撃的になり、お風呂上りの肌着も薄くなり健やかな体の線がみえるのでした。夜遅く堪らなく彼女の部屋のドアをひねるとあいにく鍵入っていなかった。僕の足音に気付いたのか座り僕をさそいいれた。僕も忘れかけた女との喜びが蘇り彼女の意気も荒々しくなった。翌朝は気づかれぬように自分の部屋に戻った。その後子供たちの前では兄さんとは呼ばず、貴方と呼ぶようになった、長女もうすうす感じていて、玲子から説得するように計らった。
二か月もすると玲子は妊娠していることをつげた、僕は男の子でありますように仏前に線香を立ててお祈りした。幸子が三女を妊娠した時あれ程男の子を欲しがり、命まで奪われたことを思うと切なかった。その事を玲子に話すと、彼女は姉さんが出来なかった男の子私が生んであげると、簡単に生めるように話した。早く事態を玲子の兄に報告した。兄もある程度察知はしていたようでした
僕は街に家を買い求めて玲子の仕事も街に出来るように市役所にお願いした。僕は街から農場へ通う事にした。土地も殆どがキビ畑になり、使用人は一人だけで管理した、幸子の様な難産にならぬように、お医者に診てもらったらついでに、ウ‐トラソンで性別も知らされた、男の子でした、僕は有難うと玲子を抱きしめた。街の自宅では僕の弟妹を招待して亦玲子の兄も呼んで結婚の披露をかねて夕食に招いた。僕は仲間家の跡継ぎ三世が生まれることを継げた、僕が沖縄の家督相続の習慣故に振り回された、僕の人生に若い頃は疑問に思っていた沖縄の家督相続を幸せな今日、ご先祖に見守ってくれて有難うと自然に手を合わせて拝むのでした、