2011年9月25日日曜日

回顧

私は移住して六十年になりましたけど移住始めの十年と今日の十年ははっきりと記憶にありますけど中間の四十年間は記憶が蘇らない。そのことは自分の今日までの人生も同じことがいえる。故郷の少年の頃は今でも記憶にある、最近訪問した時の村のたたずまいは憶えていないけど昔の姿はいまでも頭に焼き付いている、移住した初期の記憶は、はきりしている、それは自分や家族が将来の不安をかか得ていたからだと思う、日本では学生でしたので自分が責任を持っていなかったので、ただ学生生活を楽しく送っていたからです。移住して祖父母の家族と一緒に暮らすようになって、初めて人間の付き合いの難しさを感じたのである。

真面目に一家を持たねば心が収まらなかった。まず何故、孫の私達親子を呼び寄せる気持ちになったのだろうかと考えてみた。戦後間もなくブラジルから沖縄へ慰問品がとどいた、なんにも無い時ですから大変うれしかった。同級生からも羨ましがられた。そのことが祖父母に親近を感じたのです。
祖父母にしてみれば故郷に残した長男「私の父」が海軍でしたけど若くして死に、そして孫の私が生れていたので、一家の跡継ぎでもある孫を戦争で困っているので、助けたい気持ちもあったようです。祖父母には不運にもブラジルで二男も大都会で勉学中に死亡されて、家を継ぐ男がいなかったのも呼び寄せた原因でした、さて、一緒に生活してどうしても馴染めない、いろいろと戦後の沖縄を話しても祖父母の頭の中には故郷を後にした時の姿しか知らない。その頃のブラジルのコㇿ二アは戦前の沖縄そのままなのです。植民地には四十家族ほどの沖縄県人家族がありましたけど。殆どが小学卒ですから自分の村から出たことがなくブラジルへ移住したのです。特に祖父母は無学でしたのでなおさらです。それでも祖父母は人一倍働き自分の土地を持つことが出来た、初期移民の苦労をなされて植民地でも別人よりも多くの土地を持って居た。私達親子移住を決めるまでには、幾通も手紙のやり取りがあった。母は自分の村人と別れて外国へ40代にして決心するのは容易ではなかった。そもそもお嫁に行くような立場だったのです、でも私の将来が見えない中で祖父母に託したいので決心したのです。来て初めて嫁勤めの難しさを感じて、夜寝床で涙を流すのもしばしばあった。私は意を決して家を出ることにした。祖父は私たちに家財を分けあたえた。独立して自由にはなったけど不安もあった。私達親子はコㇿノ用の堀立て小屋に移り住んだ。先輩の移住者が歩んだ道を歩き始めたのです。私は一家の柱として隣の叔父の日雇いに何か月も働いた。。まず言葉を覚えるには同じ使用人のブラジル人の話相手になる事でした。植民地の日本人は必要な簡単な会話はできても文法に適した会話ではなかった、読み捨てのブラジル雑誌を読みいちいち単語をポ-和辞典を導いて単語を帳面に移した。植民地の年頃の青年は小学程度の知識しか無く、話相手は自分の家の使用人なので私を引き付ける人はいなかった、ただ日語学校の先生はたくさんの本を持って居たので、夜になると毎日先生の部屋へ行って本を読むのが日課でした、植民地の家長たちは日曜になると良くどこかのお産お祝いとか、または亡くなられた人の御そうこうなどに良く集まっていた、私も家長として参加することがよくあった、。
話は昔の伝え話とか、または別の植民地の話などだった。植民地には良く物売りが来た。ミシンの修理や蓄音機の修理なども行った、中には沖縄三未線なども売り。どこの家にも三未線はあった。夜になると家家から三未線の音が聞こえて故郷を偲んでいた。ブラジルでの伝え話は物売りが夜になると行き付けの家に泊まるのが習わしで、自分で得たり聞いたりの話を居候の家族に聞かせるのを楽しみのようだった。人から聞いた話でも、あたかも自分が体験したように聞かせていた、その家族はその話をまた別の集まりで聞かせるのでした。ただし正月や7月になると首都へ勉強にいった学生たちが帰ってくるのでその人たちと会話を交わすのが自分の向上心をもりあげた。移住して4年目に異変が起きた。祖父口癌にかかっていたのです.最善をつくしたけど様態は悪化して死間際に私に住んでいる土地を与えると言ったけど私は買うことにした、正当な値段で4年払いにして祖母に払った、そのことが自分に自負心を持たせた。すなわち、私も二世と違って移民の同じ道のゼロからの出発だと思った。亡きあとは祖父のことを思っていた、彼は無学にも拘らず自分の土地に日本語学校やブラジル学校を率先して造らせた。そのことは自分が学べなかったことを子孫に学問をさせたい信念があったのです。なお後輩の移民が土地を買うときには資金を調達したりした。私が移住した頃には沖縄では部落に電気もついていたのに、当植民地ではランプに頼っていた。のでまだ遅れていると直感した、しかし食事は豊かで肉類が多く食べていた。そして誰でも食事を共にすることが出来た。そのようなことは日本ではできないことでした。どこの家にも馬と車があり街への用事は馬車で達した。私の植民地はよき指導者がおって勝ち組はいなかった。そのことが家庭がブラジル化して日常会話はポルトガル語かウチナグチでした。ある日勝ち組の多い植民地へ行くと日本学校では天長節や教育勅語も朗読されて戦前の教育がなされているのには驚きました、それでも生徒の会話は日本語でした、時がたつにつれて日本の敗戦が伝わるにつれて精神の動揺を避けるためにも成長の家が普及していった。その後は二世もブラジル語の中学に通うようになり自然とプラジルへの同化が進んでいった