2011年5月8日日曜日

棉 栽 培

1970年前後、北パラナでは棉栽培が盛んでした。カンバラの町でも盛んに栽培されて多くの日系人が借地農として入り、町は活気にあふれていました。
棉は収穫に人手が要り、たくさんの労働者にお金が回ったのです。ブラジルの輸出産業であり、この国の製糸工業の原料でもあったのです。その後、アメリカの輸出保護により国内製糸工場は価格の安いアメリカ産の綿花を使用するようになり、国内産は売れなくなって、棉栽培は減少していきました。2000年頃にはパラナ州からは殆ど消えていました。その後、マット・グロッソ州*で大規模な、植付けから収穫まで一貫した機械化農業が確立され、国内用原料を賄い、なお輸出するようになった。その影響を受けてパラナでも棉栽培を始める農業者が出てきたのです。
現在は以前と違って間引きすることもなく、品種も改良されて収量も多く、機械で収穫しますので私も植えてみることにした。輪作に夏蒔きトーモロコシを植えていましたけど、 一度も利益を上げたことがなく、棉を植えることにしたのです。その前に経験のある棉栽培者の農場を訪ね、見事に満開した棉に圧倒されてしまったのです。畑一面真っ白に咲き、そして機械で収穫するのです。650アローバ
穫れるとのことでした。それが私を棉栽培に挑戦させたのです。
70歳にしての挑戦でした。他人が出来ることは自分でも出来るとの思いがあったのです。
農業技師の話をよく聞き、まず肥えた土地、平坦な地形を選び、雑草のない土地に植えることにしました。そこは冬作に小麦を蒔き、一面小麦で覆われ草ひとつ生えなかったので大丈夫と棉を植えたのです。 除草剤を撒き万全を期したのですけど、思いがけないことに除草剤の効かない草アメンドインがぎっしり生えたのです。サー大変、夜も眠れぬほど動揺しました。人手による除草ですと棉まで切ってしまう恐れがあったのです。適した除草剤を求めてオランブラ組合まで行きました。それが高価な薬剤で利益を脅かすほどに使いました。成長を止め、その間に棉が伸びて被されば伸びなくなるとの予想でした。しかし今年は雨が多く、薬剤の効果も薄れ、草はどんどん伸びて行きました。棉もよく伸び成績は良いようですけど、また初めから草取りせねばならなくなっています。雨は毎日のように降るし、天のすることはどうすることも出来ません。ブラジルの北と南とで旱魃に悩んでいることを思えば有難いこととだと自分に言い聞かせております。自分の愚かさからとはいえ、胸を締め付けるようにもがき苦しみ、これもひとつの体験だと思っております。
このような悩みは私の妻や家族は一切知らず、私も生活に困ることではないので、自分の失敗に苦笑しております。人間よく自分の成功を大げさに語る人が普通ですが、その反対に自分の失敗を笑って語り得る人は人生を堂々と乗り切ることが出来るのです。
70歳にしての棉栽培はとんだ体験で、体が耐えたから良かったけど、病気でもしていたら本当の失敗でした。❀

*編者註 マット・グロッソ州:ブラジルの東部に位置し、ボリビアと国境を接する。面積は日本の約2.4倍。州都 クヤバ。

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