2011年5月8日日曜日

ある移民の青春

私の従弟、名東は17歳のときに叔父家族と一緒に、親兄弟と別れてブラジルに移住してきた。引受人は私である。まだ学生で、どうして親兄弟と分かれて移住する気になったのか、たぶん外国に憧れて来たのではないかと考えられるのです。
自分も18歳のときブラジルに移住した。外国に憧れてのことでした。そのころ沖縄は敗戦の後で貧しかった。それでも私は家族と一緒に来たので、寂しい思いはしなかった。農業に打ち込むことができ、いつかは自分の土地を持つことを夢みていた。
しかし、名東にその夢は不可能のようでした。まず稼ぐお金で土地を買うなんて考えられない。それに名東は農業に向いていないように思われた。それでも言葉やブラジルの事情に慣れてくるまで、私の所で農業することにした。
慣れてくると、二世の友達もでき、いろいろなフェスタに行くようになった。名東は日本人では稀な美男子で、若い女性の目を引いた。私の知らない中で、私の従妹の14歳の学生と交際するようになっていた。二人の愛はある点では望郷が薄れ、楽しいはずの青春をよみがえらすのに良いと思った。しかし、もし失恋に終わったら、その痛手は大きく、日本に帰るのではないかと気が気でならなかった。
二人の愛について私は彼女の母親を訪ねて語り合いました。母親は若い二人の愛に否定をしなかった。もし失恋に終わったとしても、悲しいけれども人生を成長させ、美しい思い出となるでしょうと言われた。なるほど、私も失恋の思い出があり、読書に励み、彼女の幸せを祈るようになった経験があった。
さっそく名東を何か職業を身に付けるようにと大都会に出した。クリチーバに出て写真屋の仕事を見習った。1年くらいでサンパウロに移り、何とか自分で独立できる自信もついてきた。その間にも二人は手紙で語り合い、二人の愛は確実に実るようになっていた。私も、暇なときは本を読むように手紙で励ました。名東は学生時代には得られなかった知識を社会経験や読書によって、なんら同級生と変わらぬほどに身に付けた。
私の住む町で開業することにした。今まで働いた貯えと、ある種の写真機は日本の兄が送ってくれて、開業することができた。
彼らの結婚式には町の日系人や親戚が集まり、みんなで祝った。
このことは一人の若い移民が、独自の努力と周囲の暖かい力により幸せになった物語である。
移民には各自にさまざまな違った人生を歩いてきた歴史がある。すべてが波乱に富んでいる。美しい物語もあり、悲しい物語もある。それでも歴史は流れていくのです・・・

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