2011年5月9日月曜日

夫婦船 - みーとぶね

しき    は
世界や果てなしぬ 
ふなじたびぐくる
船路旅心
みーと    ふか
夫婦やか外や 
たよ
頼りならん
かな みーとぶね
愛し夫婦船

うとう  ふばじら
夫や 帆柱に 
とうじ  ふなぐくる
妻や 船心

いちゃる   なみかじ
如何なる波風ん 
とむ
友どやゆる
かな みーとぶね
愛し夫婦船


ふに   ふばじら
船と 帆柱や 
うきよかじ
浮世風まかし
ごくらく みなと
極楽ぬ港
ち      ま
着ちゅる間や

かな みーとぶね
愛し夫婦船

たげ    ちもあ
互いに肝合わち 
ひし みーとぶね
走り夫婦船
とち  く
時ぬ来るまでぃや 
漕がねなさみ
かな みーとぶね
愛し夫婦船


たゆ     だる
頼るなよ誰ん 
みーと
夫婦かながなとぅ
ひび   く    かた
日々ぬ暮らし方
わら  ふく
笑い福い
かな みーとぶね
愛し夫婦船


tradução para o português
(prof Maria Tomimatsu - UEL)


Navegando a Dois
O mundo é como um coração de um viajante
Navegando pelos mares sem fim.
Com quem iria contar,
Senão con seu parceiro, Nave Amada.
O marido, o mastro; a esposa, a própria nave.
Bravas ondas, violentos ventos.
Sempre unido em piores momentos, Nave Amada.
À deriva do vento deste mundo flutuante,
Fica a nave como mastro,
Até que aporte no porto do paraíso, Nave Amada.
Deslize, pois nave casal,
Afinando seus corações,
Reme, pois, até que chegue a sua hora, Nave Amada.
Viva emharmonia o seu cotidiano
Aos sorrisos, felizes,
Pois não há ninguém mais
Com quem contar, Nave Amada.


Canção originária de Okinawa, arquipélago do sul do Japão.





ま え が き

 今年結婚五十年を迎える。子供達が祝う事を企てているようです。 私としてはもっと大切な、何時までも残るようなのはないかと思い、つい自分が書き残したのを本にすることにした。本なら自分の代々の子孫が自分の先祖はどこから来て、どんな事をして、どんな事を考えていたのだろうかと思い、そのルーツを辿るのに役立つのではないかと思っています。それには日本語を知り、日本の文化にもふれて理解できるようになる事を願っている。
 まず、私はほんとに幸せ者です。第一に自分で惚れた女性、千代と結婚できたこと、そして九人の子が身体何不足なく生まれ立派に成長したこと。ただ、六女の美幸だけが不幸にも亡くなりましたが、それ以外は良き職業人として働いていることが、父として頼もしく思い、十人の孫も年上が大学を卒業し、次々と国立大学に入学しておりますので、長生きして見守りたい。それに私達夫婦をとりまく、叔母様方や義兄弟、多くの従兄弟達と私達夫婦との人間関係は素晴らしく、みな善い人たちなのです。人間の幸せは、自分を取り巻く人間関係によって生まれるような気がするのです。
 私は日本の沖縄の北部、宜野座村、惣慶村に、家は母の実家で屋号は前漢那小で生まれた。母は次女でウシ名で、小学生の頃は優等生だったようです。 出稼ぎに大阪に行き父と知り合い、私が生まれた。私は母の実家で育ち、小学校から高校まで宜野座で暮らした。
 1951年12月の初めに呼び寄せで祖父母の住んでいるカンバラ町のチジュコ・プレット植民地に移住した。植民地に着いた頃は多くのバナナが植えてあり、みかんの木もいろいろあり、それ以外にマンゴーやアバカテ、果物の豊富なのには驚きました。豚や馬は牧場に放され、鶏は自然に放され、肥育豚は囲われてトーモロコシとカボチャで養われていた。 豚は自家用の脂や食肉に一頭もつぶされた。こんなに豊かな国に珍しさと驚きでいっぱいでした。
 2年後に祖父母の家庭と分かれて私達親子三人で生活することが出来た。貧しい家で、屋根はパルミットの上に瓦を載せ、床は土で埃がたった。3年後には祖母より500クルゼイロを借り受け、それも2年で返すことが出来た。家も板屋に改築し古い移民と似たような生活が出来た。
 その後、私に好きな人がいる事が知れて叔母を通じて結婚を申し込んだ。彼女には沢山の男性から結婚の申込みがあり、私が一番貧しかった7が、結婚しても良いとの返事をいただき、私は有頂天になった。 夜も昼も彼女のことを思った。
 1956年、クリスマスも間近に結婚式を挙げた。植民地の人々が鶏や豚などを出してお祝いが出来た。1年後には長女が生まれ、その後次々と一年越しに次女、三女、四女と生まれた。私にはこれ以上大学まで教育できかねるので、母にこれ以上子供を生まないことを言った。母は泣いて、苦労して移住したのに家の跡継ぎがないことは移住した甲斐がないと嘆いた。やむをえず又も五女が生まれ、六女、七女、そして八番目に長男が生まれた。母は大喜びで親戚を集めて祝った。そのときは遠く離れた仲田や安義、松田の家族もお祝いに集まってくれた。
 子育てと休む暇もなく仕事に追われ、千代は肺を患った。2ヶ月以上兄英秀の家で療養した。現代のペニシリンのおかげで完全に治った。その間にも隣の新垣叔父の土地を買い、続いて松さんの土地、そして真吉叔父の土地と、全部で28アルケールの土地になった。
 今思うと運が良かったといえる。それと母が子育てから畑仕事まで手助けしてくれたお蔭です。周りの人々、叔母や義兄、従兄弟達のお蔭なんです。
 結婚50年、長いようで短い歳月でした。体力はだんだん衰えますけど、頭だけはしっかりとしたいものです。
 この50年、あっという間に過ぎたようである。 ふるさとを離れてこのブラジルに移住し、この国を愛し、各国の人々の中に沖縄人であることに誇りを持ち、自分の子孫の種を蒔き、この国の土地にしっかりと根を下ろし、繁栄することを願うものである。

私の生い立ち -漢那家-

 私は1951年12月10日にブラジル国へ永住して来た。それにはいろいろな事情があります。国吉家の祖父母が私の父を沖縄に残してブラジルに永住したからです。私の母と父が大阪で深い関係になり、母は私を身ごもり、私は母の実家、漢那家で生まれ育ちました。その頃は実家には叔母の苗さんと安さんがおりまして、母とそして祖母と4人の女性の影響を受けて、愛情こまやかに感受性の高い少年に育っていたようです。 
 私の生まれた漢那家はもともと母のおばあさんが與那原の船道と一家を持ち、私の祖父安貴氏を生み漢那家を名乗るようになり親子で生活し、親戚の子供も預けられて一緒に暮らしたようです。その中には伊芸のおじいさん、仲間源助さんがおります。翁長林亀さんも苗さんが子守りをして漢那家に出入りしたようで、孫の松田源助さん、妹のつるこ、仲田清次も漢那家で生まれ育っております。また苗さんの話では 漢那家に生まれ育った人は皆子宝に恵まれているとのようです。第二次大戦後も松田家、上地家の家族がお世話になりまして、それ故か、従弟同士も兄弟のような感じがするのです。
 私は漢那家の四人姉妹の若い頃を思うと4人ともきれいな娘だったような気がする。 なかでも苗さんは背も高くずば抜けて美人で、その名は金武の青年の方まで伝わり、郵便配達人など漢那ウトーに会えたことを自慢にしていたようです。そのことは昔話に母が語ってくれました。
私の祖父は沖縄が大和世になった時の初めての小学入学生で、日本語に通じた人だったので村の区長や役人を務め、計理に詳しく重要な人のようでした。また、祖母は翁長家の人で、昔王宮に勤めた家で廃藩後、村に移り住んだ侍のようで、昔の習慣に従い士族は士族と結婚したようです。母の話によると、姉のかなさんが百姓の松田冊吉さんと結ばれた時おばあさんは大変嘆き、残りの娘たちに百姓の男と結婚してはいけないと厳しく言われたようです。
 そのような訳で母が大阪に出稼ぎに行ったとき、大阪に住んでいた翁長のナベさんが国吉家の人と結婚していましたので、ナベさんの世話になっている時、たまたま国吉家の私の父が訪ねてきて母と知り合いになったようです。ナベさんの勧めで結婚を約束し私を身ごもり、母は沖縄の実家に帰り私が生まれた。父はまた別の女と仲良くなり約束は果たされなかった。
 5年の年月が過ぎ、父は軍人として勤めている時にケガをして病気になり、死も近くなった時、母は私を連れ看病に駆けつけ最期を看取ったようで、その後初めて私は当名地家の孫として認められ、国吉姓を名乗るようになったようです。

国吉 牛 家族

 私の祖父、牛氏について昔のことを記憶のまま記しておこうと書いております。
 祖父牛は沖縄の南部、東風平村字上田原で、屋号は当銘地家の地名で村でも土地の多い家でいつも雇い人を使っていたようです。それでもあの頃は生活が貧しく、次男の牛さんまで土地を与えることは難しく、外国で稼いで5年くらいで帰り土地を買うのが目的で、沖縄に長男と長女を残してブラジルに移住したのでした。まずモジアナに配耕され、2年後ジャカレジーニョに移りパラナの土を踏むことになる。4年後、自分の土地をアグア・ド・ヴィエイラに求めて地主となる。その後面積を大きくする目的でタクアラに土地を買い移る。その間にツルコ、カメコ、真寛、清子、真吉が生まれ安定した生活が出来るようになった。
 牛さんは無学でしたけど、頭がよく、考えてあらあらの計算は出来た。自分が無学ゆえか自分の土地に学校を建てることを実践した。また同県人の世話もやり、金を貸して土地を買わせた。その後タクアラはマラリヤが多いのでチジュコ・プレットに土地を買い換えた。コーヒーの景気に逢い生活はなお良くなった。
 牛さんの家族構成で来られた甥の真保さんは師範出で頭の良く切れる人でした。沖縄にいても目立つ方だったろうと思いました。ポルトガル語の良く話せる方で、ブラジル中を移り住んだ人でした。働かずにお金を儲けようと考える方でしたので家族は苦労したようです。
 もうひとり祖母の兄弟に国吉アントニオさんがおります。2人の息子ルイスとシルビオがおります。孫、三代になると多くの大学卒業生が出て、祖父の意志は立派に受け継がれていることに孫のひとりとして敬意を表します。

国吉家と独立

 私が国吉家の長男として生まれ、ブラジル国へ呼び寄せられた故に、漢那家の子孫の歴史が変わったのです。まずその後、松田家の家族、冊吉と亀、久雄、正義、藤子、勝子、義彦がブラジルへ移住し、その家族と一緒に上地家の安勝も17歳でこの国にやって来ました。その後仲田家の家族、幸太郎、安さん、昇は先に開発青年で来ていました。その妻光子さん、幸子、幸夫、清次、則夫がおります。その後幸夫は日本で勉強したく10年いて帰り、建築士の資格を取り沖縄で活躍することが出来、自分の運命と歴史を変えたひとりなのです
さて漢那家では上地苗さん家族が住み、安勇は父のもとで工業高校を卒業して、独自で警備会社を設立して、今日では沖縄でもトップに立つ会社に育て上げました。安勇さんは人々の世話もよくやり、信用を得たのが発展に繋がったのだと思います。安昭は大学卒業後、独自で博士号を取り心理学者として教育界で、沖縄でも優れた人物として知られております。このことも漢那家の歴史を変えて運命を開いたと言えるでしょう。
私は苗さんの88歳のお祝いに出席して、新しい家で戦後母が建てた家を思い出し、漢那家の四人姉妹の波乱にとんだ人生を思い浮かべ、孫達が家を出てゆき、社会で奮闘しながら自分の道を開いて行った歴史を思い、私の母の辿った歴史を想うと懐かしさ、はかなさに涙が溢れるのでした。

運 命

このように、多くの人の運命を歴史づけた母もまた自分の人生を運命づけられたひとりなのです。
母は決してブラジル行きを好んで移住したわけではありません。
私の外国行きへの憧れを満たしたい気持ちと、私の将来を父方に託したい気持ちとがあったようです。それ以外にも安さんが仲田家にお嫁に行くことになり、漢那家に苗さん家族を入れて安心させたいとの思いがあったようです。私達親子三人が国吉家に住むようになってほどほどにも気苦しい思いをするとは考えてもみなかったようです。長年自由に育った私達にとって一緒に暮らすことはお互いに不幸になるようで、2年で別れて独立して生活するようになった。2年間の生活で人間関係の難しさ、嫉妬心、見栄が人間関係をより難しくしているようで、精神的苦労や悩みが私という青年を大人にしたようです。沖縄の学生時代が懐かしく、時間があると本を読み何とか忘れることが出来た。
ついに独立して祖父の土地を耕作してコーヒーを育てる代わりにトーモロコシや小豆を作り、私たちの収入となった。少しずつお金が入りその中から前漢那小家の改築にお金を送った事もあった。日系人の中で私達が最も貧しく在りましたが、前途は明るく母が元気で豚も飼い、また野菜も作り、家の前にはコスモスの花を咲かせ、二世から見れば変わった風景のようでした。

結 婚

3年の年月が流れ、ポルトガル語も覚え、少しずつブラジルの事情も解るようになった頃にひとりの女性を愛するようになった。
まだ中学卒業まもなく、家で親の手伝いをしていた。田舎に住んでいる娘とは違って気品があった。それは学校を出たせいか、あまりおしゃべりせず、隠された宝石のようになお一層美しく見えた。私にはとても及ばない女性に見えた。たくさんの男性が結婚を申し込んだ。私も良く彼女の家に遊びに行った。彼女の気持ちも知らず叔母のカメ子さんを通じて結婚を申し込んだ。私は昼も夜も彼女のことを想った。
その頃は私も5アルケール*の土地を買い求めていた。500クルゼイロを2年で払うことが出来、私も古い移民と同様に土地を持つことが出来た。
結婚の話も始めは断られ、初めて失恋の苦い思いを感じた。心の苦しみを忘れるためになお一層本を読み、現在の悩みが人生にとって小さいことのように思われ、新移民の私にとって彼女は高嶺の花のように思われた。彼女の幸せを願うようになった。
突然結婚しても良いとの返事を持ってきた。私は有頂天になった。しかし母は、彼女の姉ふたりに子供がないことを気にしていた。せっかくブラジルまで来て子孫の絶えることは耐えがたいことだといわれたが、好きな人と結婚することが自分にとって幸せであることを母に言い聞かせた。
その後私は毎日のように彼女の家に行った。二人とも話すことは少なく、私が女性と付き合うことに慣れていない故でもあった。それでも会うことは楽しかった。
20001010日 

*編者註 アルケール:1アルケール=2.44ヘクタール

国 吉 真 次

国吉真次氏は私の妻千代の父で、沖縄の上田原村の屋号は新坂迎ミーサカン家小で四男に生まれた。彼の父は村一番の働き者で多くの土地を持っていた。彼は18歳で結婚して夫婦とも働かされた。このままでは何時になっても自分の土地を持つことが出来ないと分家することを思い、ブラジルに移住することを決めた。その頃には二人の女の子と長男が生まれていた。
女の子二人を残して1933年アリゾナ丸で3月の末にカンバラ市のタクアラ植民地内の国吉ウシさんの土地に着いた。
二ヵ年そこで働き、沖縄から持ってきたお金を合わせて6アルケールの土地を買うことが出来た。しかし土地があまりにも長いので売って、アグア・ド・ジャウーに10アルケールの土地を求めた。その後、土地が良く何でもよく出来、コーヒーも見事に実ったその土地を売り、日本人の多いチジュコに移った。
畑仕事は人を使い、長男と次男は大学へ勉強させた。農業は自分だけで結構だと彼は考えた。その間にも弟の真亀や甥の真考、真輔なども後を追ってやってきた。
戦後も多くの新移住者が彼を頼りにやって来た。新城安義やその一族新城安考氏家族、新城安吉、赤嶺家族、それに新城安誠。最後に甥の栄光さんの息子真次がひとりで移住した。その頃は沖縄も日本のバブルに沸いて景気がよかった。日本への出稼ぎが始まった頃である。
真次氏は、農業は自分だけでたくさんだと息子たち、長男の永秀は歯科を卒業しサンパウロで開業し6人の子を大学までやっている。次男の永賢も同じく歯科大学を卒業させている。親子三代まで真次氏の意志を継いだことになる。

母への想い


亡くなった母を思うと自分にとって大きな支えであったことは確かです。自分の体の一部分が削られたような思いがするのです。
母の60代までは私の仕事やあらゆることに意見を述べていた。その意見は日本で得た体験や常識に基づいたもので、ブラジルや新しい時代に沿うものではなく、よく対立していた。私と母はよく口論した。それは何事にも反発する癖で、何事にも参加し私を自由にさせなかった。
小さい時から私は叱られて育ったような気がする。
私が小学生の頃、学生服を着たまま海へ行き、服を脱いで泳いでいる間に満ち潮になり服をさらって行ってしまったので、裸で家に帰った。母は苦心して買った新しい服なので、その時はだいぶ殴られたので覚えておるのです。またある時は母から郵便局に本土への慰問品を送りに使いに行ったとき、途中で遊んでいる子供たちに加わり、お金をなくして送らずに帰った時散々に叱られた。一度は祖父の大事なものを壊し、二階にある米場所に閉じ込めようとして階段を上がる時に私が暴れたので一緒に落ちた。私が六年生の終りの頃、私とあと5人が農林高校へ受験に行き不合格して散々叱られた。でもあの時は私を勇気づけて欲しかった。
そのようによく考えてみるといつも叱られていたように思われるのです。そのことは私にとってよかったのではないかと思っている。
母は若い頃から家長として父母を助け、家計を守り、時には名護の税務署まで行き所得税の交渉をしたこともありました。ある時は沖縄が台風に見舞われ、芋の苗が枯れて中部まで行ったこともありました。また台風のときは茅葺の屋根が心配で隣の男の人に縛ってもらうこともしばしばでした。
そのようなことが家長として気苦労だったと思われるのです。終戦の頃はいち早くヤギを飼い、その頃は家畜も少なく高い値段で売れ、それで新しく瓦葺の屋根に改造することが出来た。 それには戦
争で壊された中部地方の古いかわらを集め、山から源助兄さんとふたりで材木を切り出し使われた。その頃私は15歳でした。

家長としての責任、結婚しても夫婦としての生活を送れなかった母は自分自身にいつも不満を持っていたのではないかと思われるのです。
母は小学生のころ頭もよく優等生でそれが勝ち気にして、家長の役割を演じ、安さんが家事を受け持ち、私に優しい母の思いがあるのでしょう。ブラジルに於いても母は日本の新聞を読み、政治やスポーツにも詳しく、特にフットボール(サッカー)は好きで、選手の名前を殆ど覚えておりました。ドラマは現実でないと初めから否定していました。母は孫たちの面倒もよく見て、オムツを替えたりお風呂に入れたり、下の孫が生まれると一緒に寝るのが常でした。孫の寝つきが悪いと眠れなかったと愚痴をこぼしていました。
母は私と一体になり、畑仕事や家事と忙しい毎日でした。それゆえか亡き後も孫たちは忘れることが出来ないようです。現実としてもう会えない母ですけど、思い出すたびに懐かしい。母は私達一家を引っ張った機関車だったのです。

母の日について


母の日になると娘たちや息子からひっきりなしに電話が掛かってくる。そして長い電話が続く。父の日は、ただおめでとうと挨拶だけで済んでしまう。別に嫉妬するものでもなく当然だと思っている。
妻の千代は9人の子供を生んで育てたのです。約8年間、胎児をお腹に抱えていたことになります。
娘の頃は恥かしやでしたけど、母になると女は強くなり、彼女が赤子を抱いてオッパイ丸出しで無心にお乳を与えている姿は微笑ましかった。そのことは母鳥が羽根をいっぱい広げて敵に向かい雛を守るのを見てもごく自然だと思われる。このように動物は自分たちの子孫を残してきたのです。
このように生まれるまでは母と子は一心同体で、大きくなっても常に母に甘えたがる。息子なんか大学に行っても休暇に帰ってくると母の寝床に寝転んで思いにふけっていることもあった。
もちろん私は9人の父なのです。何の不足もなく健全に生まれていることを神に感謝しています。この歳になって子育てが大変だったことが解るのです。妻は夜中でも赤子が泣くとお乳を与えたり、オシメを換えたり、寝不足を抱えての仕事でした。あの頃は田舎に住んでいて、私の土地には川がなく、深さ23メートルもある井戸から洗濯や飲み水、家畜の水を汲むのも殆ど千代の仕事でした。現代のように電気もなくガスもなく、便利な電気ナベやポットもない時代でした。それでも9人の子供を育てたのです。今でもあの頃のことを思うと身震いするそうです。
私は高校中退でブラジルへ移住した。沖縄はあの頃貧しかった。広い外国へ憧れてのことでした。学生の頃 「湯の町エレジー」 という流行歌がヒットしていた。ギターの音がたまらなく私達学生の心を揺さぶった。自分も誰かを愛したいと思ったけどそのような女性はいなかった。
ブラジルに移住して間もなく、ある結婚式に招かれたその帰りに馬車の後ろにひとりの女性が乗っていた。月の夜で月光に映し出された姿は美しかった。騎手と彼女は話しますけど私には少しも理解できなかった。その後何度か会うたびに私の心は魅せられていった。そして結婚を申し込んだ。私は新移民で苦労は見えていた。それでもよく彼女の家に遊びに行った。ある晩、彼女の家に行くと先客がいた。長浜先生というボリビア移住者で、植民地の日本語の先生をしていた。彼は三味線を弾きギターも上手に弾けた。私達ふたりは日本の歌をなんでも唄った。なかでも 「湯の町エレジー」 は素晴らしかった。彼女も台所で聴いていた。そのことがあまり言葉の通じない私に好意を持ったようでした。
そして、結婚して50年になります。娘たちや息子も結婚して離れた所に住んでいる。妻は昼間ひとりで過ごすことが多いので寂しいようです。日本人の男子はあまり妻を労わらないので愚痴をこぼすことがあります。夫婦共々労わり助け合って、老後を送りたいと思っています。

古希を迎えて

沖縄の習慣に従い、子供達が私の古希を家族だけで祝うことにした。生まれて初めて誕生日を祝ってもらった。くすぐったい感じがした。別に嫌な感じはしなかった。振り返って今日まで歩んだ人生の記憶に残るのを記しておきたいと思っている。
幼いころの記憶の中にウシと一緒に船の中にいたことを記憶している。母は僕を実家に残して日本に出稼ぎに行ったのです。残した僕が恋しくて叔父の翁長さんに連れて行ってもらい、その船旅の記憶でした。母と一緒に暮らしたなかに大阪のある川べりで従兄弟の安雄と遊んだ覚えが薄っすらと残っています。僕が手におえないやんちゃで沖縄の実家へ返されたのです。僕が小学一年になり栄養不足で、学校から特別に食事の時に豆腐を与えられていたことも記憶にある。担任の先生が家庭訪問の折、母が僕のことを尋ねた時、あの子の目を御覧なさい、大きく生き生きしているとの返事でした。それでも解るように痩せて目だけが大きかったようです。あだ名もメンタマと頂いていた。第二次世界大戦中は学校では訓練だけで、僕ら学生も竹やりの訓練を受けるのが日課でした。アメリカ兵が沖縄に上陸し部落民はそろって山へ避難した。馬や家畜の餌もなく、殺して食べた。母は自分の家の様子を見にと昼間に村へ降りてきた。夜、日本兵に何故村へ降りたんだと散々愚痴を言われた。
敗戦となり山から降りて来ると家には中部から逃れた避難民が住んでいた。出すわけにもいかず一緒に生活した。食料が不足し、戦果といってアメリカ兵の駐屯する西海岸にそってゴミ捨て場に捨てられたアメリカ兵の洋服や食べ物を拾いに行った。その途中、山を越えて行きますけど、4人の死んでいる人に出会った。初めて見る西海岸の部落の下で今でも記憶に残っている。
間もなく学生生活が始まった。僕は四年生に入学した。教科書もなく帳面もなく、何を勉強したのか覚えがない。見知らぬ避難民の生徒も一緒でした。僕らの担任は知名定善先生でした。記憶に残るのは話し手で、世界文学の「ラ・ミゼラブル」や「鉄仮面」などを巧みに語って聞かせたことです。すごく迫力のある物語で忘れることが出来ず覚えております。
その後学制改革があり、四年生から中学三年生に編入され勉強よりも校舎造りに駆り出され、トラックでヤンバルの東村までピアノを取りに行ったこともある。
そこを卒業し、宜野座高校に入学し何とか勉強するようになった。担任は体の大きい先生で、生徒を殴る癖があり、僕は先生が憎かった。その怒りの目でじっと見つめていたらそれに気づき、なんだ国吉の目つきは、といわれた。その頃から反逆心に燃えていた。自然と占領軍のアメリカを憎むようになっていた。政治にも関心をもつようになった。
その頃、近親呼び寄せでのブラジルへの道も開けてきた。映画で見るアメリカ西部劇がたまらなく魅力があった。平原でウシを追うのんびりとした暮らしが気に入った。
1951年11月に村人に見送られて部落を後にした。途中の海や山をまたと見ることがないと思うと涙があふれてならなかった。那覇から軍用機で羽田に着いた。あの頃はまだ講和条約が出来ておらず、アメリカの支配下にあってすべての手続きはアメリカ領事館を通じて行われた。横浜港から船でサンフランシスコまで行き、そこから飛行機でニューヨークに、そしてパン・アメリカン機でブラジルに着いたのが12月12日でした。
それ以後のことはいたるところに書き記している。
さて、僕の歩んだ人生は誠に恵まれていたと思っている。着いたところパラナ州は気候に恵まれ、土地に恵まれ、ブラジルでも作物生産の豊富なところだ。一時期、祖父母と暮らした時が人間的に苦しかったことを除けば、すべて僕たち家族を温かく迎えてくれた。
72歳の古希を迎えて僕は本当に幸せな人間だと思っている。多くの子達に恵まれ、何の不足もなく生まれ、成長し、結婚して孫たちを育てている。神様が許すならば孫達が成長し結婚して独立するのを見届けたいと思っている。出来なくとも幸せに生きたので有難いと思っている。人生あらゆることに出会いますけど、すべてが体験によって心を豊かにして、情緒豊かな人間を創りだすと信ずるのです。

思 い 出

私が小学四年のころ金武から伝道師が来て、キリストのお話をなされ賛美歌も教えられたのが始まりでした。戦後まもなくアメリカの兵隊さんがキリストの話をしてくれた。その後ブラジルに来て「成長の家」の本を読み、聖書について少しは解るようになった。結婚するとき殆どは教会で儀式を挙げますけど私は結婚だけのためにキリストの洗礼を受けるのは気持ちが許さなかった。宗教は尊いもので、深く内容を知る必要があった。
ある時、結婚して26年にもなっていた頃、カンバラの町にエンコントロ・クリストのモビメント*があった。その4回目に安勝と八重子に誘われて仲間に入ることになった。初めは好奇心からなかに隠されている何ものかを暴いてやる気持ちで参加した。しかし、思ったとは反対にいろいろ考えさせられることが多かった。
夫婦についてでも今までただ働き子供を育て夫婦の義務を果たしているだけのようでした。妻の気持ちやお互いに話すことも少なく、妻に対する思いやりがなかった。妻の千代は私にとってよく出来た人で、母の言うことを聞き、自分の思うような家庭を作ることは出来なかった。それでも我慢していた。母もよく子供の世話をしてくれた。そのときにこのようなモビメントは私の眼を開いてくれた。
思えばのぞみが一歳のとき、高熱を出し医者へ連れて行ったとき、私は神にすがった。どうか娘を助けてください。たとえ自分の財産がなくなってもよいからと祈った。自分ではどうすることも出来ないとき全能の神にすがるのです。本当に人間は弱いものです。

千代は沖縄人特有の性質を父母から教えられた。嫁いだらその家に従うのだと教えられた。それをよく守り家庭は平和であった。
長女がクリチーバで勉強するようになり見事国立大学へ入学することが出来た。続けて次女、三女、四女、五女と入学した。のぞみと美津江、それに操はそれぞれ良い人と結婚してその家庭に気に入られている。のぞみは夫の母の面倒も見ている。ただ七女のすみれが18歳のとき白人学生と仲良くなり健三が生まれた。一時私たち夫婦はなんともやりようのない思いで私の母の若い頃を思い出し嘆いていましたけれど、協力して育てることにし、働きながら大学を卒業することが出来た。思えば移住して9人の子供を大学にやりうるとは自分でも確信できなかった。孫たちは現在小さいときから私立の学校へ通い学んでいる。将来が頼もしく思われる。移住して子孫の繁栄こそ本来の意義があるのです。

*編者註 エンコントロ・クリストのモビメント:カトリック教義に基づく夫婦を対象とした集まり。座談会、体験発表、講演などが行われる。

二つの結婚式

今月従兄弟の娘二人の結婚式に参加した。多くの日系人の出席のもとに教会で厳かに行われた。花嫁がその父親に伴われて教会の中道に入場する。花嫁は笑顔で来客に挨拶し幸せの絶頂にいることを語っていた。瞬間、楽団による厳かな宗教音楽が流れ、まさに神様の使者が神父に下り、神のお言葉を言い伝えるような感じが致しました。神父は新郎新婦に、喜びにあるとき、悲しみにあるとき、健康なとき、それに病気のときも愛し合い別れぬことを神に誓いますかと問われ、ふたりともはいと答え、ここに夫婦であることを宣言して披露宴へと向かった。ご両家の父親のポルトガル語での挨拶があり、乾杯して招待者からの祝福を受け二家族との別れの挨拶を交わし、独立したひとつの家庭が生まれたのである。真夜中までダンスは続いた。
1950年頃は全部日本式で、媒酌人を立て長い時間の媒酌人による新郎新婦二人の紹介があり、両家の挨拶があり、植民地中の男女がバラッカ(仮設小屋)を造り、ご馳走を作り、と若い男女にとっては楽しいことだった。遠いところに住んでいる男女には知り合う交際の場でもあった。実際多くの男女が知り合って結婚した。
以上がブラジルの結婚式で時代とともに移り変わった様式である。そこには日本の歌の文句、娘がお嫁に行く日が来なけりゃいいが、のような父親の持つ感情はありえない。
昔の日本の結婚式は家と家との結婚で、お嫁に行くとの表現どおりほとんどが新郎のもとへ嫁いだのです。夫婦の幸せより一家の繁栄が最大でした。新郎の家と新婦の家では習慣や味噌や漬物など伝統的に受け継がれたものがあり、そもそも新婦は新郎の慣わしを覚えるのに大変でした。ある沖縄の地方での古いシキタリに、花嫁が自分の家の井戸水を持ってゆき新郎の井戸水を汲み上げて混ぜて飲む慣わしがあったようです。水はいかなる水にも融合し調和した味を作りだす。花嫁も水のようにあって欲しいとの願いが込められているのでしょう。日本の花嫁衣裳にも角隠しとの言葉さえある。花嫁が角を出さずに丸く収まって欲しいとの願いが込められているためでしょう。

二つの文化に抱かれて

私は文化は求めるものではなく、与えられるものだと思います。私の言いたい文化とは芸術や音楽、絵や踊りではなく、ありふれた物事の価値観や人生観を評価するときの尺度です。70歳を過ぎいずれ消えゆく自分ですが、何かを残したいと思って書いているのかもしれません。
私は日本の本を読むのは極めて少なく、唯一「のうそん」だけかもしれません。しかしポルトガル語の新聞を取り、社説や経済のことも解るようになりました。子供たちとポルトガル語で議論することも良くあります。そのとき感じるのが日本人の尺度とブラジル人の尺度です。このことは二世の間で多く読まれている臣道連盟の本についての印象も、出稼ぎに行っている二世と日本人の問題でも尺度の違いだと思われます。物事を評価する尺度はその人の育った環境にも拠ると思われる。例えば私がある人をケチだと評価します。その人からすれば自分もケチだと言われるかもしれません。
また自分の家族を紹介するとき、ブラジル人は事実以上に褒めて紹介します。しかし日本人はその反対を礼儀とします。日本人は人前に出るときあまり目立たないように心がけます。しかしブラジル人はその反対を取ります。日本人は困っているときに助けてもらった人に何時までも恩にきます。恩を忘れる者は日本人の道徳を守らぬ恥知らずとして軽視されます。ブラジルでは宗教の違いで、神が助けてくれたと考え、神がお返しするとの教えを持っています。ほとんどの一世は長男にみなで築いた資産を与え、娘は同じように働いても与えられず、世間体を重んじて収まっています。これはブラジルの尺度では考えられません。
二十一世紀はI Tの時代。グローバルの時代。世界の国々の人が国境を越えて交わる時代です。
私の娘の働いている多国籍企業は各国のエンジェニェィロを雇い、会社の製品がどこへ出しても通用するようにとの考えで造っているようです。日本の国民が日本の尺度しか持たず、グローバルの時代に適用しうるでしょうか、気がかりです。
私はブラジルに移住し、成長し古い大木となりました。なかの芯の部分は硬く日本人の黄色い部分でできています。外側は大きく柔らかくブラジル人の気質からできています。
そして若い木もたくさん生まれました。その若い木も中身は私に似て黄色い日本人の気質を持っております。


ブラジルと日本の違い

ブラジルは地球の日本の反対側にあり、時刻も昼と夜の同じ時刻にあります。しかし習慣やものの考え方が違うのです。そのことに移住した初めは戸惑いますけど、慣れますとごく自然に受け入れられるのです。例えばブラジルでは公園や通りを中年や高年の夫婦が手をつないで歩いている姿をよく見かけます。そこには長年辛苦を共にした夫婦の姿、お互いに助け合う姿が現れて美しく見られるのです。このような光景は日本ではめったに見られません。またブラジルでは再会したとき握手したり抱き合ったりします。これは親しみを表す表現で女性ですと頬を寄せて表現します。日本ですとまず深く礼をし、親しい仲にも礼儀ありと距離を置いております。日本では普通ですけど外国から見れば冷たく映るのです。ブラジルでは若い恋人同士が所かまわずキッスしている姿を見かけます。日本ではそのような光景はめったに見かけません。またブラジルではプレゼントを頂いたらその場で開いてそのプレゼントがどんなに欲しいものであったかを言葉で表し、その厚意を感謝します。しかし日本では厚意に感謝してもプレゼントを開くことは失礼だとされています。夫が出かける時よく妻にキッスして出かけます。日本で生まれた男子にはそれが出来ないのです。自分としてはしたい気持ちもありますけど照れくさいので出来ないのです。
日本には自然を表現した言葉がたくさんあります。これは日本の四季の変化が素晴らしく、日本人の感性を助長し細かく表現した言葉だといえます。俳句や短歌、万葉集などに表れております。このような言葉を訳するとき適当な言葉がポルトガル語にはありません。また日本人の会話の中で本音とたてまえのあることも外国人は知らない。そのことで外国人が日本人を理解し得ないことも事実です。外国人は「はい」と「いいえ」をはっきりと伝えます。日本人は相手の感情を害しないようにあいまいな返事をしてしまうことがよくあります。日本人は常に相手を思って会話を進め、本音とたてまえが出来たのでしょう。ですから知らない人とは旅行などで一緒になっても話したがらない。その点、外国人はすぐ友達になります。日本人の男は女にめめしくあっては男の面目がつぶれるとのイメージがあり、男は国を思い、仕事のことに夢中になり家のことは妻に任せておくべきとのイメージが作られているのです。
日本のように残業してまで会社に尽くす社員はおりません。まず自分の家庭が第一です。また定年まで職場を約束できるのもありません。日本のように親子代々続いた会社も見かけません。この国では親子夫婦が一緒に一つ家に暮らすことはめったにありません。このことが日本から移住した人々が老後の寂しい思いをしているのも事実なのです。日本人移住者は無理して子供たちを大学までやっています。そしてよい職業に就いていますけど親子共々住めないのです。日本人はブラジル人から見れば尊敬されています。それは真面目な態度、よく働く、頭がよいとの評を得ているからです。そのような評判も二世、三世になると変わりつつあります。でも日本人の遠慮がち、正直さはだいたい受け継がれているようです。

日本移民と同化

古い新聞の記事によるとブラジルの国会で日本移民の同化問題が採りあげられ、ある議員が鋭く批判した。理由は、日本移民は自分たちだけの社会を造り、日本の文化をそのまま持ち込み日本の植民地を造り上げているとのこと。日本移民廃止を議会で審議し投票に持ち込み、票は同点に分かれやむなく議長の一票で廃止を免れたという記事があります。
あの時代には植民地には日本語学校があり、そこでは日本と同じ教科書で日本語を学び、日本と同じスポーツ、剣道、柔道、野球、弁論大会と、植民地と植民地がともに競い合っていました。唯一の娯楽であり社交の場でもあったのです。日系のほとんどがブラジル人と交わることなく過ごすことが出来たのです。
あの頃は日系人の結婚も日本式に親同士の配慮により結婚を決め、よき人物を仲人に立てて縁が結ばれたようです。それでも殆どがうまく行き今日の日系人社会を造り上げてきたのです。
70歳以上の二世には精神的にも日本人で、日本語が達者で新聞や本などに日本語で素晴らしい文章を書く人が沢山おります。
あの頃はどんな小さな町でも日本人会があり皆のよりどころであり、助け合い、情報を交換する場でもあったのです。
第二次大戦とともに日系人の活動は禁じられ空白の時代になり、終戦とともに日系社会は混乱に陥った。戦後移住が再開され、日本の文化活動が復帰され同化現象は敏速に進み、どの家庭でもポルトガル語が会話の主で、どの家庭にも国際結婚者はおり、合いの児は珍しくありません。結婚は本人同士が決め、親が気に入らなくともお互い好きなら仕様がないと自分たちにはなかった恋愛を恨めしく思うのです。でもその分、離婚もずいぶん増えている。
昔盛んだった小さい町の日本人会はなくなり、もちろん剣道や柔道、野球、弁論大会も消えています。

沖縄県人の足跡

北パラナの沖縄県人の足跡はここカンバラの町から始まったようです。私には1950年以前のことは判らず、古い移住者の記憶をたどり、伝え話に語られたことによるのです。時代は流れて一世紀近くになる今日、記録に残さなければと、残り少ない人々の証言のもとに書いています。
沖縄県人コロニアは日本人の中でも特殊な存在で、県人だけでコロニアを造ったようで、その足跡がカンバラに四ヵ所にあります。一番古いのがアグア・ド・ヴィエイラで、まず学校をパルミットで建て、その後板屋に代えブラジル学校と日本語学校を兼ねていたようです。その当時の日本語の先生は沖縄出身の小波津喜寛氏で中学を出た人でした。その教え子が90歳近くにもなっております。
その次がタクアラ植民地で、沖縄県人が多く住み小波津喜寛氏や国吉牛さんがリーダーになり、日本語学校とブラジル学校を運営していたようです。その後タクアラはマラリヤ病や霜がよく降り、コーヒーには適せず、チジュコ植民地とエスペランサ植民地に分散し、チジュコ植民地に第三の日本語学校が造られ、四番目にプラチアード植民地に日本語学校が出来たのです。
このような日本語学校運営がわずか10家族から20家族の沖縄県人でなされていたのです。いかに沖縄県人が教育に力を入れていたかということが伺われます。それゆえか本土の日本人が、沖縄さんは教育熱心だと言う所以です。
それ以外にも沖縄人は特殊で、県人だけで交際しお祝い事や葬式などにも皆が集まり、沖縄の方言で語り合ったようです。家庭内でも沖縄語が使われ、二世のなかにも日本語より沖縄語を知っている人がより多くおりました。
沖縄人が集まると沖縄の伝え話や武士の話、沖縄が薩摩に占領された時代の話が語られました。語りのリーダーは国吉真保氏で、師範学校卒なので沖縄語、日本語、ポルトガル語と会話のうまい人で、
夜遅くまで語り合いました。それもふるさとを想う心の表れだった
のです。どこの家にも三味線があり、夜になると家々から三味線の音が聞こえ、ふるさとを偲んでいたのでしょう。またお祝いには村で覚えた沖縄舞踊を披露し、民謡も唄われてふるさとを偲んでいました。
第二次世界大戦の後はすべての県人が認識派となり、いち早くふるさとの食糧難を思い、食料や衣類を家族に送っています。 それ以前から県人はふるさとの家族が病気のときなどにはお金を借りてでも送っていたのでした。これも沖縄の貧しさを身にしみて知っているからです。また植民地内では戸主が病気で豆などが草に覆われているときは皆が出て、草取りなど手伝っていました。
戦後まもなく、カンバラの町には近親呼び寄せで5人が、その後開発青年隊として7人が移住し、日本政府による移住が再開されると15家族の県人がカンバラの町に移民の第一歩の足跡を残したのです。 多くの戦前の沖縄移民が貧しい沖縄から出稼ぎに来て、儲けて
資料 1

帰るつもりで一生懸命働き、この国に馴染み、子孫の教育に力をいれ、その二世、三世が高等の教育を受けてこの国に活躍していることは沖縄県人の足跡に、いくつもの学校を造り上げた賜物だと思われるのです。
日本人のブラジル移住   1907年、皇国移住会社とサンパウロ州農務長官との間に農業労働者を移住させる契約が成立し、翌1908年6月18日、日本人781人(うち沖縄人324名)を乗せた笠戸丸がサントス港に着いた。その後、移民会社の手によって農業労働者が続々と送り込まれた。
第二次世界大戦によりブラジルは日本との国交を断絶し、枢軸国の移住者に対してサントス海岸地帯からの強制立ち退きを命じるなど、日本人移住者に大きな不安を与えた。移住者の一部は日本の勝利を信じて国粋的な組織をつくり、終戦後、日本の敗北を肯定する人々を襲うにいたった。いわゆる「勝組」事件で、ブラジル政府は関係者を国外に追放することにより、この運動を終息させた。
1947年の新憲法制定に際し、日本人移民禁止条項の挿入をめぐって議会は賛否同数に分かれ、議長決裁をもって挿入案は否決された。
1951年にブラジル政府は近親呼び寄せという形で日本人の移住を許可し、翌52年から一般の移住が再開され、60年には日伯移住協定が調印された。

戦後移住者の植民地

悲惨な第二次世界大戦を生き残り、戦後の貧しい生活に苦しんだ沖縄の人々が、ブラジルの大地に夢を抱いて60年代にパラナ州のカンバラ市に旧移住者を頼って移住してきた。初めは旧移住者の歩合作として働き、植民地は二世や若い一世移住者で、日本とブラジルの文化の交流が行われ、日本語の先生も戦後移住者で子供たちにとってもよい機会でした。失われた戦争時代の空白が蘇ってきた。
戦後移住者にも自分の土地を持ちたいとの機運が高まり、400キロ離れた奥地クルゼイロ・ド・オエステの手前に約300アルケールの原始林を購入し、戦後移住者が15家族、旧移住者8家族で植民地を造り上げた。
第一に入植したのが新城安義家族と仲田昇家族で、先発隊として6人の男子だけで汽車に乗り、食料と伐採道具と衣類を持って終着駅のマリンガ市で降り、トラックの荷物の上に載せてもらい夕方現地にたどり着いた。まず仮小屋で一夜を明かし翌日から境界線に沿って道を開けることから始めた。
人類未踏の原始林、太古に眠る森を開くことに、開拓の斧を入れることになぜかしら自分も旧移民同様な経験を味わうことに意義を見出した。1キロくらいの所で谷に出会い、橋を架けて上の方に家を建てることにして材木が運ばれ、二家族の住める家を建てた。一応準備が出来たので2人を残して残りは帰ってきた。2人はその後も山切り人を使って土地の半分を開拓して家族を呼び寄せた。
3年後には殆どが移住してきた。山焼き跡にタピオカやサツマイモ、トーモロコシを植え家畜を養う準備をし、陸米も蒔き食糧の準備を整えた。地形の低い方に綿を植え、上の方にコーヒーを植えて3年後の収穫を夢みていた。幸いにも5キロ離れた所に古い移民が見事なコーヒーを栽培しており、教えてもらうことが多かった。
移住者の中から初めて犠牲者が出た。切り倒した木の下敷きになり死亡したのです。一家の働き手の主人を失い家族は途方にくれた。それでも皆に励まされ、15歳を頭に開拓に挑んだ。
初めてのコーヒー収穫に大きな望みを託したときに霜が降りて絶望し、植民地から出てゆく家族も出始めた。とかく沖縄県人は歳も若くよく働いて古い移民の評判になった。家族総出で古い移住者のコーヒーを収穫して、ブラジル人に負けない働き方をした。
6、7年後にはブラジル銀行から融資を受けることも知り、トラックなども持つようになっていた。
子供も生まれ植民地に多くの二世が誕生した。日本で小学生だった子供は5キロ離れた小学校に入学した。中学生だった子は開拓に参加した。それでも家庭では文芸春秋や中央公論、現代などをとり、中学生だった子供も大人向きの本を読み知識欲を満たしていった。
生活が楽になると、子供の教育のことも考えて母と子供が町で暮らすようになった。
植民地を出て行った家族の土地を買い、それでも止らずパラグアイにも4家族で土地を買い牧畜を始めていた頃に、子供の結婚相手が少ないことに気づき、売り払ってサンパウロへ移転し、植民地で生まれた子達に勉学の機会を与えた。ある二世は弁護士に、ある二世は医者に、商業にとあらゆる分野で活躍することが出来た。なかにはミナス州に渡り大コーヒー園を経営するのもおり、変わっているのは21歳で日本に帰り、勉強しなおし、昼は働き、夜学で工業高校を卒業して設計事務所を開き活躍してるのもおります。
植民地開拓は努力心、人間の大切なことを教えたようです。

日本人の気質

70歳以上の二世や、幼い頃家族と一緒に移民で来られた方々のなかに、驚嘆するほど日本人の気質を持った人に出会うのである。
ブラジル国であらゆる民族と生活していても、日本人の気質が受け継がれているから、その元は何から来るのか。何か親の持ち合わせた気質、大和魂みたいなのが小さいときから親と一緒の生活のなかで受け継がれているように思われるのです。
経済の面のようなグローバルの世の中で、日本のように親子何代も続いている店や職人がおり、反面、スーパーのようにでっかいのが出来たり潰れたり、めまぐるしく変わる経済界に100年以上続いた貿易商でも赤字になると伝統を守りきれず、変化なくして存在なしと社長の命令で動き出す世の中で日本人の気質が受け継がれているのです。その気質は日本人だけでなく、ドイツ人やオランダ人なども同じでしょう。
先日、カンバラ市の日本人会役員、私も含めて3人が当市にお住まいの高橋庄一さんから来てくれとの招待を受けて訪ねることにした。庄一さんは父順一郎さんと一緒に北海道から移住してきた。カンバラに15アルケールの原始林を購入し、仮小屋を建てて開拓を始めた。6歳の庄一さんも小さいときから親の手伝いをした。日本語学校にも行かせてもらった。多くの準二世のようにその後は独自の勉強により、ポルトガル語以上に日本語を理解することが出来た。庄一さんが青年の頃には日本人としては大きな資産家になっていた。土地以外にもピンガ*工場を持ち手広く販売し、それ以外にも南米銀行の特大株主でもあった。80歳のとき日系の慈善団体に多くの寄付をなされ、その後も何かの記念に同様な団体に寄付をなされておるのです。
もともと高橋家は順一郎さんの父の代に北海道に渡り、味噌醤油の販売店を経営していましたけど、仕事は順調ですけど現金はなく、閉社してブラジルに渡り、戦後敗戦の日本に帰国して、負債を利子をつけて返し村人の話題になったようです。
さて、父順一郎さんはきめ細かく台帳に記録し、自分の子孫の戒めの言葉を残しておるのです。その内容は日本の諺にあるのと似たことを書いてあります。たとえば、決して思惑に走ってはいけない、大きな仕事を始めるときは3年は試験的にやること、決して争ってはいけない、すべて妥協を求めよ、毎日毎日貯蓄して仕事を始めよ、決して他人の保証人になるな、助けたければ現金を与えよ、近道をするな危険に遭うとより遠くなる。以上のことが書き残されてあり、最後に遺書の件にはいり、父は生存のときから日系慈善団体に寄付しており、亡き後も贅沢に走らず、お世話になった慈善団体や日系団体に寄付をするようにと書き残しておるから、本日お招きしたのもカンバラ日本人会、婦人会、カラオケ会と総計一万七千レアルを寄付したいからと早速小切手を渡してくれた。その前にも、援護協会にも多大の寄付をなされているようです。
私はその人柄に圧倒され、涙が出るほどでした。質素に暮らし、ひとつの信念に生きて親から続いた日本人の気質を思い知らされたのです。
この記事は新聞に送ろうかと思ったけど、庄一さんは大々的に報道されるのが嫌いで、「のうそん」なら庄一さんもとっているので許してもらえるのではないかと思っております。

*編者註      ピンガ:砂糖キビから造る火酒。カシャッサの名で、各国に輸出されている。

大 事

「大事小事」、この言葉は中学の教科書にあった言葉で、学生の頃は言葉の大切さはあまり知らなかった。仕事の上でもまた人間関係の上でも大切であることがわかってきた。仕事の上では小さいことに拘り、大きなことを見失ってしまうことがよくあります。例えば小さい魚で大きな魚を釣ることも意味は同じ大事だと思われる。
今日の農業経営はお金をかけてやる仕事です。リスクも伴います。尚大事、小事を見極める判断が必要です。仕事の上で発展している人は失敗もあったと思われます。小事を捨てて大事を生かすゆえだと思われる。
今年作物は順調によく伸び、稀に見る豊作が予想されていたのに実を作り始める頃に一変して雨が40日も降らない。南部一帯は大不作となり50パーセントの減収が見込まれている。その影響は農村ばかりではなく町全体に影響を及ぼす大事なことです。しかし農業者は何度も経験しており、日本の地震や大雪、東南アジアの津波に比べれば比較にならぬほど小さいことで、時が来れば忘れ去れる。自然の災いは私たちの力でどうすることも出来ず、忘れた頃にやってくるのです。
人々の争いに於いても、あまり小事に拘り大事を見捨てることがよくあります。例えば、親子関係の争いでもお互いに意地を張っていることがよくあります。まず自分が正しいんだとその根拠を並べ立てます。それはまるで弁護士が争いに勝つ為に法律的に正しい根拠を主張するのに似ている。そのことは客観的に見ればよく解ります。争うお互いには気が付かず、自分の正当を押し付けようとすることも小事を捨てて大事を生かすことを知らない故だと思われます。特に親子関係ですとお互いに愛しながらも歩み寄れず、意地を張っていることがよくあります。争うことは不調に終わった場合は何時までもわだかまりが残り、不快な思いで過ごすのです。そのことに気づき、自分から進んで歩み寄ることの出来る人は、大事小事を理解できる人なのです。その後の心の晴れ晴れさを味わえる人なのです。そこには人格があり、博愛があり、キリストの愛があります。人間を幸せにする条件でもあります。

帰 化 人

私は1970年代にブラジルの法律により外国人は土地を所有することが出来ず、帰化し、ブラジル人になっている。一生ブラジルで骨を埋める覚悟は出来ていてもためらいました。自分の戸籍が日本で消されるからです。つまり帰化人は二つの国籍を持つことは許されません。二世ですと父母が日本に国籍があれば二世でも出来たのです。ある意味でブラジルの国を愛し、国民も愛しているのです。何故なら私達外国人を尊敬し、平等に扱って貰えてそして大らかで明るい。日本のように上下の差別がない。そして気候もよい。暮らしやすい。以上のことが挙げられます。
ブラジルに移住し50年以上この国に住んでいても一日でもふるさとを忘れたことはなく、昔の村のたたずまいが頭に焼き付いているのです。ふるさとの三味線の音を聞くたびに胸にこみ上げてくるのは外国に住む人は皆同様のようで、特にふるさとの言葉は懐かしく、いつか私と安義と成幸の三人でサンパウロとサントスの中間にある古い町を訪ねたときに、レストランで食事中、沖縄の言葉で語り合っていましたら、奥の方で食事を取っていた夫婦が「ワンニンウチナーエイビンドー」(沖縄人)と名乗り、しばらく語り合い、名残惜しんで別れました。村人会でもお互い長い間のご無沙汰、健康を喜び合い、村の言葉で語り合いました。自分でもブラジル人と付き合いながらも完全にブラジル人になれないもどかしさを感じるのです。

過去を顧みて

私が移住したいと思ったのは、アメリカ西部劇映画に出てくる雄大な大陸に憧れてのことでした。
サンパウロに着き、汽車に乗ってソロカバナを10時間も旅を続けた。殆どが牧場地帯で、その時は自分の夢がかなえられると思った。着いたところはパラナ州カンバラの沖縄県人の多いチジュコ・プレットでした。コーヒーは木がまだ小さく、新開地で木の根が畑のなかに転がっていました。その頃はコーヒーの値段がよく、また土地もよく世界でも類のない肥沃な土地とされていた。ミカンがたわわになり、マンゴーなど土地にこぼれるほどになり、土壌に捨てられていた。どの家でも木で囲われた牧場があり、豚や馬、牛が放牧されていた。豚などある大きさになると囲いに入れてトーモロコシやタピオカで肥育していた。鶏は放し飼いで自然に増え、卵などは食べきれないほどでした。食生活は日本より恵まれていた。
まず言葉を覚えることに一生懸命で、英語に似た言葉がたくさんあった。戦後移住者は朝の6時から午後の6時まで日曜もなく働いた。早く自分の土地を持ちたいとの願いと、古い移民と同様になりたいとの思いがあった。
戦後移住者の中には、新城安義、国吉真考、真勇、上地安勝、屋宜宣徳家族、新城安考、新城安吉家族などが同じ植民地で移民のひと時を過ごしている。
コーヒーの間にトーモロコシと豆を植えるけれど、大部分が国内消費で、生産過剰になると値段は落ちて大したお金にはならなかった。コーヒーだけは輸出しますので値段がよく、20年位は無肥料で生産できた。土地さえあればコーヒーを植え、北パラナは見渡す限りコーヒーで埋まっていた。それも70年代には大豆やサトウキビに代わり、機械化して肥料と農薬をだいぶ使い、生産物全て外国向けになっています。
2003年1月21日

50年後のふるさと

ふるさとは何時になっても懐かしい。ふるさとの友達や自然を思い浮かべない日はない。まるで私の生きる原動力でもある。今日まで海外で自分の生活を支え子供の将来を思い、出来るだけ節約して高等な学校へやるために働き続けたエネルギーは、すべてふるさとから持ってきたものである。それも50年も燃え続け、残り少なくなっているのです。
ブラジルは世界各国の人々が住んでおり、イタリアやポルトガル、スペイン、ドイツ、オランダ、ロシア、アフリカと自分の国の文化を守りながら次の世代へと受け継がれ、仲良く暮らしております。ブラジル独自の文化は見当たらず、沖縄のチャンプルのように混ざり合っております。殆どのウチナー人は独自の文化、祖先崇拝、つまり亡くなられた移民の人々の仏壇があり、正月や七月には親族が集まってきます。それゆえか団結や親しみがもてます。
50年後にふるさとを訪問し、近代化した村ですけど人々は素朴で優しく、長年の海外での生活の疲れを癒してくれました。
村に住んでいる人にとっては自然に受け取れることでも私には不思議になることがあります。沖縄が近代化し日本と変わらぬ言葉や生活を営んでいますけど、古い習慣のユタが存在し、あらゆる行事が行われ、若い人が髪を染めモードの先端を走っているように思われますけど、反面古いしきたりが残されている。村の行事である敬老会でもブラジルの敬老会は違い、家族全員が参加して行われ、赤子から学生、青年達も集まり、日ごろの苦労をねぎらう意味において行われます。日本は土壌の断層のように年齢ごとに分かれて行事が行われ、社会の構造の不安を感じさせます。昔の村の社会、祖父母、父母、子がひとつの家に生活して食事をとりながら、貧しいながらにもしっかりと家族を守ってきた社会が私の頭の中に焼きついております。
ブラジルでもトーカチ88歳を行います。親戚が殆ど集まり従兄弟やその子供達も集まり、お互いに血の繋がりを深めるように思われます。このことが大和人 沖縄人は団結があると言われる由縁かもしれません。
ふるさとも10年後には変わった姿を見せることと思われ、また訪ねたい気持ちでいっぱいです。
2002年11月23日

い も う と

妹ツル子は私より五つ下で、私が7歳の頃子守りをした記憶がある。母と叔母が遠い田んぼに稲刈りに出て日暮れになっても帰らず、門で泣いて待っていた記憶がある。4歳の頃関節を患いギブスを何ヶ月間もしていた。とかく体が弱く母は心配していた。私と妹は父が違うことに気づいたのは小学生の頃で、私の姓は国吉で彼女は漢那でした。そのことが不思議で物心ついた頃に父違いであることが判った。戦後、新しい戸籍を作るときに国吉にして東風平村に載せたのです。そのことについて妹は安義と結婚するまで知らなかったようです。
私は母に過去のことを聞いたことはなかった。私は苗さんより詳しい事情を聞いた。母は私が4歳のとき実家に預けて、大阪へ出稼ぎに行き、ある店の女中に雇われ、そこの主人の妻が病で倒れ看病してるときによくあることが出来て、いたたまれず母は実家へ帰りましたけど、すでに妹を身ごもっていたようです。店の主人も苗さんから聞いて驚き、手紙をよこして確認したとのことです。
母はその後世間の噂を気にして、私が終業式のときも優等賞をもらいましたけど出席せず、また運動会にも自分ひとりで弁当を食べた覚えがあります。母はきっと二人の父のない子を抱えて不安と世間に怯えていたのではないかと思われるのです。
私は私達二人の生い立ちに母をけなす気持ちはなく、却ってひとりの妹が出来たことを有難く思っているのです。ただ自分のしたこととはいえ不幸な人生だったと思われるのです。私自身の外国移住に妹を小学生学徒で連れてきたことに不憫を感ずるのです。
それでも何とか日本語を充分理解しまたポルトガル語も出来、ブラジルで妹は安義と出会い、結婚して7人の子に恵まれ、夫安義は私のよき話し相手であり、知識の豊富な人で私とはよく話が合うのです。移民のなかで彼ほど開拓の経験をした人は少なく、パラナの奥地クルゼイロ・ド・オエステからパラグアイの原始林も開き、牧場にして牛も入れて大農場を夢みてから、子供のことを考えて売り払い、サンパウロに引越し、ガソリンスタンドを三つも経営し、ミナス*にまたコーヒー園つくりを仕上げて1回収穫して売り、自分で4家族住まいのアパートを造り今日に至っているのです。年が若ければまだ何かに挑戦しえたかも知れません。このことは登山家が困難を乗り越えてトップまでたどり着き、満足に浸りまた下り始めるのに似ている。移民の中にこれほどあらゆる経験をした人は少ない。そのことが話し豊かな話題豊富の故かもしれません。彼を中心にたくさんの親族が移住しており、彼もまた新城家一族の歴史を変えたひとりなのです。❀

*編者註 ミナス:ミナス・ジェライス州。ブラジル南西部に位置する鉱物資源の豊かな州。近年セラード開発による機械化大規模農業が行われ、コーヒーの生産高では国内一。州面積は日本の約1.5倍。州都 ベロ・オリゾンテ。

命(いのち)

初めがあると終りがあり、生あるものにも終りがある。生物にはすべて死があります。そのことを生命ともいい、人間ですと人生といわれています。生命の起源を辿ると暖かい海からタンパク質の単一細胞から生まれたと学者は書いております。もともと中性生物で高度の進化を遂げて植物と動物に進化し、中でも人間は優れた進化を遂げて、今日の人間が地球に万物の長として存在しています。この地球の生物の生存競争の中で人間はあらゆる生物と共存し、自分の家族が絶えないよう先祖から引き継がれ、また子孫を残してゆく役割を果たしていると思われます。私達の存在は地球の中で、また歴史の中で微々たるものでしかないのです。すべての人が人生とはなんぞや、どう生きていくべきかを考えました。誰も正しく返答を得た人はなく、むなしさのあまり滝から落ちて命を絶った人もおります。路上で寝て物乞いして暮らす人もおれば、何の不自由もなく裕福な家に生まれても命を絶つ人もいます。
現代の社会は複雑化し、殺人や窃盗がはびこり、あらゆる部門で機械化が進み、失業者は多くなり社会不安を募らせている状態です。将来に希望が持てず麻薬や酒におぼれ、エイズのような病気まで現れ、このような不安に子供をつくらない夫婦までおり、多くの若夫婦が子供をつくらなくなると人間の生存を脅かすことにもなりかねないのです。
人間は昔から考える生物で、何千年も昔にエジプトのピラミッドを数学的に計算して造り上げ、ピタゴラスの定理や物理の原理を生み出し、現代の人はそれを利用して今日の科学の発展を成し遂げ、便利な社会を造り上げたのです。
発展には取り残された社会があり、そのことが人間社会を脅かすことにもなったのだと思われます。自分だけ満足しても取り残された人のこともみんなで考える社会であって欲しいのです。
2003年9月28日 ❀

自尊心と謙虚

自尊心をポルトガル語でorgulhoso 謙虚をhumildade と言っている。この言葉は正反対ですけど私達にとってなくてはならないことのようです。自分が仕事や物事に対して判断する上に大切だと思われるのです。傲慢にならずに自分を見つめて人にあたること。また反対に自分が失敗したときは自尊心を持って前向きに生きることだと思うのです。書くことはたやすいけど本当に自分がその立場になったとき実行できるか、そのことを肝に銘じて毎日毎日を大切にせねばならないようです。
私は今日までブラジル人を使っていますけど、彼らから学ぶことがたくさんあります。彼らに比べると自分は恵まれた人間です。かれらは世界を知らず、政治や経済の仕組みも知らないけど、素朴で自分の暮らしに不満もなく、人をだますこともない。ただ主人に従うだけで、神に感謝して過ごしているのです。テレビで観たニュースだけが彼らの知識なのです。外国からきた私達に尊敬と親しみを持ってくれます。
このことを考えると、知識人は偽善者で見栄を張り、常に自分を意識してよく見せようとします。日本人の私達とは文化は違いますけど死ねば皆同じで、考えさせることがたくさんあります。❀

人との出会い

生まれたときから今日までたくさんの人と出会っている。そのすべてが私の人間性に影響を与えている。
母や祖父母、叔父、従兄弟と書くときりがない。それでも学生時代は先生、友達が自分の人間性に影響を与えているのです。時には励まされ、時には口論となり、時には感動して自分を造り上げたと思われるのです。
人と人とのふれあい、人に学びあるいは落胆し、あるいは元気付けられて今日まで生きてきたのだと思います。若い頃は希望に燃え、年とともに自分が見えてきて、宇宙の中では自分自身が微々たる存在で、歴史にも残らない。如何にもがいても、金持ちも貧乏人も自然の原理では土から生まれ土へ帰る自然の歴史の一こまのような気がするのです。
しからば、毎日毎日が大切で人間的に人とのふれあいによって私達の情は造られ、何事の経験も私達の持つ感情はパンの菌のように膨らみ、豊かな人間性を造り上げ、動物と違った創造と理性豊かな人間性を持つと思うのです。❀

2011年5月8日日曜日

遺伝子変換について

作物の遺伝子変換があらゆる作物にその影響が現れております。そのことは私達の知識では理解できず、たぶん遺伝子の中にあるタンパク質を入れ替えて、種子を変化したもののようです。例えば大豆ですとある特殊の除草剤が大豆を枯らすことなく別の草を枯らすのでコストを安く抑えることが出来る。しかしその反面、種は特殊なので高くつき、ある企業だけが独占してしまうおそれがあります。しかし科学の進歩はすばらしいもので、このことを医学にも取り入れて悪い遺伝子を持った人を救うことが出来るかもしれません。例えば糖尿病や癌などです。現在、化学はバイオテクノロジーが注目を浴び、判らなかった部分が発見されつつあります。
日本では二人の科学者がノーベル賞をもらい、日本中を沸かせております。若い人々が熱心に研究に取り組んでいる姿は微笑ましい限りです。❀

大統領選挙

今年は大統領選挙です。素晴らしい候補者はおりません。与党よりJosé Serra が立候補していますけどあまり国民の支持は得ていないようです。人物としては立派な人ですけど現政府がブラジルの政治情勢、経済、失業、犯罪とたくさんの問題を抱えて、国民の不満があるからです。インフレを止めるために国民の賃金が安く、約60ドルで購買力がなく、その反面税金が高く、金利も高いので競争力もなく、輸出も思うように行かず、破産する会社が増えているのです。しかし、農業は発展していて、アメリカの農産物生産が10%下回り世界市場を引き上げておりブラジルの農業者を潤しております。私は、現大統領が農業者の負債を25年にわたる年月に延ばし、金利も安くしてくれ、8年間誰も止めることの出来なかったインフレを7%に抑えることが出来たのは政治家としてよいと思われるのです。
国はPIBの56%の国内負債を抱え、多くの国家企業を民営化していますけど、70年代の政治家の浪費のツケが現在回ってきたようで、民営化で得た資金が消えてなくなったように考えられるのです。国債に高い利子をつけて現状をしのいでいますので金利が安くなるはずはないと思われる。Lulaは4度目の立候補で、国民の37%の支持を得ていますけど、学識のある人ではなく、政治家よりも労働者のリーダーで、貧しい人々を救うと意気込んでいるけど、政治の世界はそう簡単にはいかない。けれども政治家の汚職を切り取ることが出来ればよいと思われる。ブラジルは教育と、富める者と貧しい者との差を縮めることこそ政治家のなすことだと思われるのです。
もう一人の候補者Ciro Gomesは女優の名前を借り、応援を頼み、経済学者でよく喋り、学識もありますけど北ブラジルの古い政治家と結びついて、ハッタリの議論をもちだして識者から嫌われているようです。このような問題を舵とるよい政治家が出て欲しいのです。
私は貧しい人のことを思うとLulaに入れますけど国の安定を考えるとSerra。❀

違 和 感

古い移民と戦後移住者の間にはひとつの違和感があった。年齢の違いと過去の歴史、古い移民には開拓の苦労を身にしみて感じ、また戦後移住者には第二次大戦の苦しみや悲しみを身をもって知っているから違和感が生じていた。それ以外にも古い移民には昔の日本の教育やものの考え方が残っていて、新しい移住者にはアメリカの民主主義の洗礼を受けて新しいものの考え方を持っていて、それが違和感を生じていたのです。
新聞などにも戦後移住者のことがよく載り、殆どが批判的でした。古い移民にしてみれば苦労もせずに、彼らが築いた土台に乗りあがって大きい顔をしているとのことでした。
移住した日本人とブラジル生まれの二世との間にも違和感はあった。日本人は古い教育の大和魂と日本のしきたりを重んじ、言葉も分からず移住し、開拓に励み、やっと築いた信用と経済的ゆとりを二世の人々も知って欲しかった。
今日ブラジルはあらゆる分野で改革を求められている。その中にあって日本人二世は戸惑いを感ずるでしょう。改革について行けない者も出てくるでしょう。しかし、古い移民の苦労に比べればなんでもないことです。いかなる困難にあっても努力を怠らず、社会的に認められる社会人になって欲しいのです。
50年も前は日本人と外国人の結婚は許しがたいものでした。今日ではどの家庭でも混血児は話題にもならず、自然に受け入れられているのです。日本語も家庭で話すことが少なくなり、消えるのではないかと心配の声も出ております。とにかく歴史は変わりつつあります。50年前、日本人の成り上がり一代で築いた大地主がだいぶおりましたが、今日では二世の時代になり殆どが消えて、名前が残っていません。❀

グローバル時代

現在よくグロバリザソンの言葉が使われています。
まず社会そのものが速いスピードで変化しているのです。 特に経済の変化はすばやく、たくさんの資金が世界を駆け回っています。生産に向ける何十倍もの資金が夜昼と動いていると言われています。現にブラジルでも2001年は、銀行が産業界よりもよい利益を上げていることを新聞は伝えています。これは生産する側にとってよいことではありません。生産は工業でも農業でも尊い汗を流して生産するものです。銀行は資本を利益のために会社に売ったり買ったりして、そこに働く人々の生活のことは考慮せず、多くの人々が職を失い、資本のある国は益々栄え、後進国は発展できずにあるのです。大きい会社は益々大きくなり市場を独占して小さい会社の入る余地を阻めてしまいます。これがグロバリザソン反対運動の原因だと考えてよいのではないでしょうか。
私達の地方信用銀行CREDIMILは地域の産業や農業に投資しているので地方の人々は大切に育てて欲しいものです。このように地方銀行は地域の産業を興し、商業を潤し、人々に職を与えてまたお金は銀行に戻ってくるのだと考えてもよいでしょう。
私は今までビッグバンクと地方銀行とを競争の面だけで捕らえていました。しかしグロバリザソンの世の中では、人々の繋がりと社会が破壊されつつあるのを思うとき、地方にある組織を大切に育てたいと思うのです。
2002年8月23日 ❀