2011年5月9日月曜日

母の日について


母の日になると娘たちや息子からひっきりなしに電話が掛かってくる。そして長い電話が続く。父の日は、ただおめでとうと挨拶だけで済んでしまう。別に嫉妬するものでもなく当然だと思っている。
妻の千代は9人の子供を生んで育てたのです。約8年間、胎児をお腹に抱えていたことになります。
娘の頃は恥かしやでしたけど、母になると女は強くなり、彼女が赤子を抱いてオッパイ丸出しで無心にお乳を与えている姿は微笑ましかった。そのことは母鳥が羽根をいっぱい広げて敵に向かい雛を守るのを見てもごく自然だと思われる。このように動物は自分たちの子孫を残してきたのです。
このように生まれるまでは母と子は一心同体で、大きくなっても常に母に甘えたがる。息子なんか大学に行っても休暇に帰ってくると母の寝床に寝転んで思いにふけっていることもあった。
もちろん私は9人の父なのです。何の不足もなく健全に生まれていることを神に感謝しています。この歳になって子育てが大変だったことが解るのです。妻は夜中でも赤子が泣くとお乳を与えたり、オシメを換えたり、寝不足を抱えての仕事でした。あの頃は田舎に住んでいて、私の土地には川がなく、深さ23メートルもある井戸から洗濯や飲み水、家畜の水を汲むのも殆ど千代の仕事でした。現代のように電気もなくガスもなく、便利な電気ナベやポットもない時代でした。それでも9人の子供を育てたのです。今でもあの頃のことを思うと身震いするそうです。
私は高校中退でブラジルへ移住した。沖縄はあの頃貧しかった。広い外国へ憧れてのことでした。学生の頃 「湯の町エレジー」 という流行歌がヒットしていた。ギターの音がたまらなく私達学生の心を揺さぶった。自分も誰かを愛したいと思ったけどそのような女性はいなかった。
ブラジルに移住して間もなく、ある結婚式に招かれたその帰りに馬車の後ろにひとりの女性が乗っていた。月の夜で月光に映し出された姿は美しかった。騎手と彼女は話しますけど私には少しも理解できなかった。その後何度か会うたびに私の心は魅せられていった。そして結婚を申し込んだ。私は新移民で苦労は見えていた。それでもよく彼女の家に遊びに行った。ある晩、彼女の家に行くと先客がいた。長浜先生というボリビア移住者で、植民地の日本語の先生をしていた。彼は三味線を弾きギターも上手に弾けた。私達ふたりは日本の歌をなんでも唄った。なかでも 「湯の町エレジー」 は素晴らしかった。彼女も台所で聴いていた。そのことがあまり言葉の通じない私に好意を持ったようでした。
そして、結婚して50年になります。娘たちや息子も結婚して離れた所に住んでいる。妻は昼間ひとりで過ごすことが多いので寂しいようです。日本人の男子はあまり妻を労わらないので愚痴をこぼすことがあります。夫婦共々労わり助け合って、老後を送りたいと思っています。

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