2011年5月9日月曜日

沖縄県人の足跡

北パラナの沖縄県人の足跡はここカンバラの町から始まったようです。私には1950年以前のことは判らず、古い移住者の記憶をたどり、伝え話に語られたことによるのです。時代は流れて一世紀近くになる今日、記録に残さなければと、残り少ない人々の証言のもとに書いています。
沖縄県人コロニアは日本人の中でも特殊な存在で、県人だけでコロニアを造ったようで、その足跡がカンバラに四ヵ所にあります。一番古いのがアグア・ド・ヴィエイラで、まず学校をパルミットで建て、その後板屋に代えブラジル学校と日本語学校を兼ねていたようです。その当時の日本語の先生は沖縄出身の小波津喜寛氏で中学を出た人でした。その教え子が90歳近くにもなっております。
その次がタクアラ植民地で、沖縄県人が多く住み小波津喜寛氏や国吉牛さんがリーダーになり、日本語学校とブラジル学校を運営していたようです。その後タクアラはマラリヤ病や霜がよく降り、コーヒーには適せず、チジュコ植民地とエスペランサ植民地に分散し、チジュコ植民地に第三の日本語学校が造られ、四番目にプラチアード植民地に日本語学校が出来たのです。
このような日本語学校運営がわずか10家族から20家族の沖縄県人でなされていたのです。いかに沖縄県人が教育に力を入れていたかということが伺われます。それゆえか本土の日本人が、沖縄さんは教育熱心だと言う所以です。
それ以外にも沖縄人は特殊で、県人だけで交際しお祝い事や葬式などにも皆が集まり、沖縄の方言で語り合ったようです。家庭内でも沖縄語が使われ、二世のなかにも日本語より沖縄語を知っている人がより多くおりました。
沖縄人が集まると沖縄の伝え話や武士の話、沖縄が薩摩に占領された時代の話が語られました。語りのリーダーは国吉真保氏で、師範学校卒なので沖縄語、日本語、ポルトガル語と会話のうまい人で、
夜遅くまで語り合いました。それもふるさとを想う心の表れだった
のです。どこの家にも三味線があり、夜になると家々から三味線の音が聞こえ、ふるさとを偲んでいたのでしょう。またお祝いには村で覚えた沖縄舞踊を披露し、民謡も唄われてふるさとを偲んでいました。
第二次世界大戦の後はすべての県人が認識派となり、いち早くふるさとの食糧難を思い、食料や衣類を家族に送っています。 それ以前から県人はふるさとの家族が病気のときなどにはお金を借りてでも送っていたのでした。これも沖縄の貧しさを身にしみて知っているからです。また植民地内では戸主が病気で豆などが草に覆われているときは皆が出て、草取りなど手伝っていました。
戦後まもなく、カンバラの町には近親呼び寄せで5人が、その後開発青年隊として7人が移住し、日本政府による移住が再開されると15家族の県人がカンバラの町に移民の第一歩の足跡を残したのです。 多くの戦前の沖縄移民が貧しい沖縄から出稼ぎに来て、儲けて
資料 1

帰るつもりで一生懸命働き、この国に馴染み、子孫の教育に力をいれ、その二世、三世が高等の教育を受けてこの国に活躍していることは沖縄県人の足跡に、いくつもの学校を造り上げた賜物だと思われるのです。
日本人のブラジル移住   1907年、皇国移住会社とサンパウロ州農務長官との間に農業労働者を移住させる契約が成立し、翌1908年6月18日、日本人781人(うち沖縄人324名)を乗せた笠戸丸がサントス港に着いた。その後、移民会社の手によって農業労働者が続々と送り込まれた。
第二次世界大戦によりブラジルは日本との国交を断絶し、枢軸国の移住者に対してサントス海岸地帯からの強制立ち退きを命じるなど、日本人移住者に大きな不安を与えた。移住者の一部は日本の勝利を信じて国粋的な組織をつくり、終戦後、日本の敗北を肯定する人々を襲うにいたった。いわゆる「勝組」事件で、ブラジル政府は関係者を国外に追放することにより、この運動を終息させた。
1947年の新憲法制定に際し、日本人移民禁止条項の挿入をめぐって議会は賛否同数に分かれ、議長決裁をもって挿入案は否決された。
1951年にブラジル政府は近親呼び寄せという形で日本人の移住を許可し、翌52年から一般の移住が再開され、60年には日伯移住協定が調印された。

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