2011年5月8日日曜日

昭和の曲集

私の家には「昭和の曲集」がある。休んでいるときよくそのCDを聴くことがある。そのたびに思い出すのが亡くなった娘、美幸のことです。この歌集は娘の形見として残っているからです。
8人の娘はみんな何不足なく生まれ、神に感謝しておりました。すべてが大学を終えて、美幸だけが日本へ出稼ぎに行き、2年間小諸の町におりまして、日本人の男性と知り合い、結婚して埼玉県の柳瀬川駅の近くに住んでいたのです。仕事はその近くの弁当屋に二人とも働いていました。夫の名前は菊地竜太で、彼は高校を中退していた。彼の父は私と同年で、戦後の混乱期に学校を卒業して実社会で働き、定年していました。竜太は二人の姉の下の一人息子で、甘やかして育てられ、親と仲が合わず家を出て生活していました。彼はだいぶ放浪な生活をしてたようです。それで日本人の仲間に入れず、出稼ぎのブラジル人のグループに入り、ポルトガル語もだいぶ覚えていました。日本の型にはまった社会には付いて行けなかったようです。日本の菊地家に戸籍もいれ、二人でブラジルに里帰りもし、日本で稼いで資本を作りブラジルで仕事をしたいとの考えでした。私はただ二人の幸せを願うだけでした。
時がたち、いつも二人のことを気にかけていましたけど、ある日突然、美幸が病気とのことを電話で知らせてきました。私と家内は日本に飛びました。
会った時はもはや意識はなく、ただ人工呼吸で生命を保っているだけでした。病名は原病で、普通ですと顔に出たりする軽い病気ですけど、美幸の場合は脳の中に出来、脳神経を塞いでいるとのことでした。
その時は沖縄から安勇や加代子、安昭も見舞いに来てくれました。そのついでに竜太は埼玉県の春日部にある彼の父晴男さんの家まで連れて行ってくれました。そのとき晴男さんと遅くまで話すことが出来、戦後を乗り越えた同年代であることを知り、思い出にとこの昭和の曲集をプレゼントしてくれたのです。
一時期のご縁で知り合った菊地家ですけど、いつも思い出し、竜太はその後どうしているのかいつも気にかけております。竜太が家庭を持ち、良き社会人となることを願っています。

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