2013年4月2日火曜日

私小説 追憶


二月の雨が雨期に入り毎日朝から雨が降り、あちこちで雨の被害が報じられている
何もする事が無く、あるけど気が向かないので、愛子は写真帳をめくっていた。定年になり。仕事に熱中したことから解放されて.あれ程望んでいた仕事からの解放も一旦解放されると毎日の暮らしに張り合いがないのが解った
、望んでいた読みたい本へも気が向かないでいる。母の事を思った、結婚して六年目に夫を失い、一人手で四人の子を育て、しかも九十近くまで、何一つ病気したことが無かった。突然二日入院して亡くなった、あれ程に子や孫に尽くして自分の役目は終わったとの様に去った。何か恩返しの看病もいらないと去ったので、その思いはなおさらだ、愛子は長女なる故に知ることが出来た過去の思い出が目がしらに浮かび上がるのである。
朝暗い時に起きて豚にミ―リヨを与え掘り起こしたマンジョカを豚に投げ込み裁縫の仕事にかかるのです。コーヒーを沸かすのも時間を惜しんで愛子が七つの時からの仕事だった、
今では既製品が豊富にあり適した寸法が幾らでも店におかれている、愛子が幼い頃は殆ど生地だけが店にあった。洋服を仕立てるのに裁縫士が必要だった。愛子は母がどのように洋裁を覚えたのか未だわからないでいる、多分独身時代から主婦の友を取って居たと語っていた、それも日本語の先生が彼女の父に進めたようだ。彼女の父母は無学だった。せめて自分の子には勉強させたい思いがあったのだろう。父母は明治のころ沖縄が薩摩の統治下になった時
小学校に入るにはカンプ「髪結」を断髪せねばならなかった、日本政府に抗議の意味で学校行かなかったようである。愛子の母は頭が良く憶えが早いので日本語の先生が雑誌を取るように進めたようだ、後日母は愛子にこの本のお蔭で、人並に世の中が解るようになったと言った事がある、また世界文学集のロマンスも読んでいて。ああ無情とか日本語で読んでいた。そのロマンスのあらすじを聞かせた。愛子が学校に通うようになると小学舘の二年生と四年をとって与えていた、愛子もポルトガル語で書かれた。ミゼラヴェスを読んで母と同様の感動を覚えたことがあった、母自身も主婦の友はその後も欠かしたことが無かった。愛子は植民地の中で自分の家族だけが日本語の本を買っていたことに母は大変だったのではないかと思ったことがあった。だって別の家庭は両親が揃っていても取らなかったから尚更不思議に感じた。母がお金に困った様子は感じなかった。母自身も小さい畑にミリヨとへイジョンを作っていて売るのもあった。コーヒー園はブラジル人に歩合でさせていた。買い物は祖父が街に出る時に買ってくれた。ただ衣類だけは一緒についていき自分で選んで買ってきた.本に載っている日本のはやりを知っていて、子供たちにもセンスの良い服を着せていたので愛子は友達から羨ましがられていた、小学校は植民地のブラジル学校へ通った。お友達は沖縄の言葉は判るけど日本語で会話は出来なかった、日本語学校にも午後はいくけど日本語を話せるのは愛子姉弟だけでした。先生はボリビヤ移民でブラジルに渡った方で愛子の家にもよく来た、多分一人だけの食事を作るのが面倒で共にすることが良くあった。先生は妻子を日本に残しての移住でしたので、あるは異性として感じたのでないかと愛子は思う事がある。植民地の家庭ある男性も洋服仕立てに持ってくることがあった。寸法を取る為に母は男の肩幅や腰回りや、腰下足までの長さを計る為に、男に触れる事があった。愛子は母がどんな気持ちだったろうかと思った、夫婦生活のあと六年過ぎて、後家で過ごした母でも交際上、良くお祝いや葬式に出席した。母は父と母の役目を果たしたと思われる、母は姉妹の中で父母が最も信頼していたようだ。父母の隣に一緒に原始林を購入して伐採から山焼きまで一緒だった。一キロ離れた所にも隣同士で土地を購入してトーラの下敷きの事故が起きて父は帰らぬ人となった。
独身時代から使用人への計算や豚を売る場合の計算は母がしたようで、よく祖父の家に出かけて愛子もついて行った、ご飯はよく一緒に食べていた。クリスマスになると本にある通り子供の寝台に靴下をぶら下げて中になにかプレゼントが入っていた。愛子も子供の頃はサンタクロースが実在すと思って、眠さをこらえて目を閉じて待っていたけどこらえ切れず眠ったことが何回もあった。その事を語ると、母は起きている間はやってこないと本気で話していた、父なくともお友達と比較して決して貧しい想いはしなかった
それも多分、別の土地は祖父の計らいで母の妹が結婚して家を二分して住むようになった。妹夫婦に土地を譲った代金が母に渡ったのではないかと察した。そのご従兄弟もいつも一緒に学校へ行くようになった。従兄弟は男の遊びを知っていて、よく大きい蜂が穴を掘り、隠れているのを糸先に円くメリケン粉を練り玉にして穴にいれると蜂は抱きついてくるけどさされるとひどく痛いことが解った,蜂は蜘蛛や虫など刺して穴の中へ運んでいた。また川には穴の所にミミズをエサに釣り糸を下ろすとドジョウが釣れた、このように幼年時代を過ごした、思春期になり父と母はどうして結婚したのだろうか聞いたことがある。母は笑いながら愛子も年頃になったねと返事した。結婚写真はあるけど花嫁衣裳ではない。でも父は兄さん家族と構成で移住して学校も小学校しか出ていなかった。あの頃の移民は男が多く、しかも独身が多いので、日本から呼び寄せるか、二世と結婚するかで。女性が不足していた。でも、主婦の友にあるロマンスも好きで、いつも自分の前に素晴らしい男性か現れることを夢に描いた事もあったけどこのような田舎と、本のロマンスとは現実から離れていると感じたと、話したことがあった。入金さえあれば土地が買えた、後は伐採の資金と住む家を建てるお金が必要だった。亦大きいペㇿ―バーは製材所が良い値段で買ってくれた。多分婚約が調うと祖父が立て替えたと母は語った。それで余計なお金は使わず、家庭用品を整えた、独身移民の結婚は皆同じだったとも言われた、ただ母の姉は自分が先頭にカマラダと一緒に働いて祖父を助けたのと。また、土地所有者と結婚していて、しかも二世でブラジル事情に詳しいので信頼されていて祖父母が花嫁衣裳を整えたと聞かされた。父が兄家族と暮らしているころは愛情が乏しく、生まれた娘に愛子と名つけたとも話してくれた。父の独身時代は独身移民が多く連れ立って良く街の遊郭にも遊びにいったようだとも、夫婦の会話の中で知るようになったと語った、愛子から見ても母は決して美人ではないけど、他の叔母さん方に比べて品があり。亦他人の噂に惑わされる女性ではなかった。自分の信念を持っていたようだ、このような教養も皆雑誌が教えたのだと思った。亦姉婿と一緒に遠いサントスまで親戚の結婚式に旅行した事があって、姉の嫉妬を受ける事もあったけど母は賤しいことは無いと平然としていた
母と祖父の間に意見の違いができた。実は母の父母は長男を日本に置いて移民していた。その兄は海軍で、ある女性との間に子供が出来た.事故で死亡した時には六歳の長男がいた。お兄さんの葬式にその長男も一緒に取った写真が送られていた、戦後文通が始まり、長男あてに慰問品を送った事もあった、その文通は母が書いたようだ。長男は高校に通っているとの手紙だった。祖父母は男の子に運が無かった。兄さんのほか母の下に弟がいて、サンパウロで中学を勉教中柔道稽古で体を痛めて肺炎で死亡したのです、なお一層日本の孫を思う気持ちがあったようだ。愛子の母は父母の気持ちを知って。ブラジル呼び寄せの手紙を書いた・
然し長男の母は今更長男でも遠いブラジルには行きたくないと返事が来た。母の父は自分の孫で国吉家に戸籍も入っているのにと怒った
母は移民の苦労は皆知っているはずで幾ら戦争から生き残っても移民して苦労するのは誰でもいやでしょうと父を慰めた、いきさつを愛子に話したことがあった、その後父の計らいで百万坪「十五アルケール」の土地があり孫にも分けてやることを手紙で知らせた、またブラジルへ来なければ戸籍も除籍するとも書いた。返事は高校中退でブラジルへ行くことになったと知らせた。十二月にコンゴ二ヤの空港に母も迎えについて行った。孫の名は真一で国吉家の真が入っていた、学生なのでまだ何もかも知りたい気持ちが一杯で二世と違った感がしたと帰ってから話していたのを子供ながら愛子は憶えている。問題は学生なので祖父は男」は皆学校にやり命を奪われたので孫は農業を継がせることにしていた。当然新移民からブラジルの国に慣れる事だと言い聞かせた。その点は孫も承知した、戦争に比べればなんでもたやすいことだと言った。真一兄さんには妹がいた愛子より五つ年上で兄さんと一緒に畑仕事にでた、その事が愛子の母は悲しく思った、日本では同級生はまだ学生だった。愛子の母はたとえ国吉家の血をひいてなくとも。孫同様に扱うべきと思っていたから、なおさら十五歳で畑仕事はさせたくなかった、考えると自分もしてきたのではあるけどとも思った、しかし時代は良くなり古い移民の苦労はあまり語らなくなっていた。孫真一親子は二年辛抱して分家することになった。別れて暮らせば愛情もわくかも知らないと、愛子の母は父母に話した。孫の真一を実孫として疑問視する事だけはやめてくださいと父母にお願いしたとも愛子に話した、実孫でなかったら兄の葬式に一緒に写真とるわけがないと愛子の母は思ったから、ただ孫の真一はあまり出来過ぎた男で国吉家よりも母の方に似ていたのだ。愛子は大人の世間話も母からいつも聞いていたので人間の難しさを知っていた、愛子が大人になってから真一兄さんから次のように話してくれた。祖父は孫の私が国吉家を盛り上げて欲しいと想っていたようだ,真吉叔父が人並の頭がないので孫で土地を運営してほしかったのだと思っていた、期待したのとは反対に深い溝ができた、家族は小さい時から一緒に育たないと、小さい事でも気にしてしまう、祖父は学校出ていないので世の中の情報が欲しかった。僕に新聞も取ってくれたけど僕は読むだけで祖父は巻煙草を削りながらも僕が内容を一度も話したことがなかった。それは二つの家族が一緒になっただけで深い絆は出来ていなかったのだ.あなたのお母さんとは何でも話すことが出来たのにと祖父が癌で亡くなってから気が付いた。祖父は良い人だった。僕は感謝していると語ったことがあった。愛子は何でも知っている真一兄さんに愛情を感じていた。然し肉親であることは承知していた、
その後真一兄さんのもとに一人の男性がやって来た。名前は安雄で真一兄さんの従兄弟に当たり彼も学校中退で十七歳でした
多分、真一兄さんの結婚写真、花嫁姿が日本に送られていた。写真だけ見ると大変豊かな生活の国の感じがする、だれの結婚写真でも華やかさが出てその中にある普段の生活の苦労は浮かばないのが人間である、どのような写真でも思い出は懐かしく特に新移民生活の苦労は感じないのが常であった
其の安雄も多分ブラジルで学校も出してくれるだろうと思っていたようだ、僕も思っていたからです、世間知らずだったのです、安雄はどこか真一兄さんに似たように知性に富んで、唄も上手でいつも三橋道也の歌を歌って遠くまで聞こえた。
多分故郷を思って歌っていたのでしょう、
その様なハンサムな男子が植民地に出現し
た。フェスターソンジョンがバルボ―ザ耕地で行われることになった、愛子もあの男性が、あるいは来ているかも知れないと思って行って見た。やはり来ていた真一兄さんが紹介した。二人はその後もずーと話し続けていた、
愛子ははじめて会った安雄さんのことが頭に焼き付いて離れなかった、愛子は自分の気持ちを母に打ち明けた。母は次のように話した。母の時代は二世の学校出たのがいなかった。今は二世も学校出たのがたくさんおるので何も好んで新移民と結婚しなくともよい。新移民は苦労するだけで生活の基盤がないと言われた。然し愛子は好きになることは将来の結婚を前提として居なくとも起こりうることだと思った、その後も交際は続けていた。真一兄さんは二人の愛を信じて、田舎に留まっては将来性がないと街で職業を身に着けるように安雄に意見した
早速クリチーバに写真業の見習いとして働くことになった。離れていても愛子は文通を続けて二人の愛は実りつつあった、愛子は次のように手紙を書いた。貴方がクリチーバにいってからはなお一層愛する気持は募るばかりで、貴方の事が頭から離れないのです。愛する事は胸を締め付ける思いがするけど、毎日はりあいがある貴方を思って苦しいけど幸せです、夜は貴方の写真にキッスして。貴方の夢を見たいです。   愛する人へ愛子より
また安雄からの手紙
日本の母から帰ってくるようにとの手紙が来た。然し僕は愛を信じて写真業独立する計画を進めているので帰るわけにはいかない。亦真一兄さんからも勇気づける手紙を受け取った。手紙には暇な時は文教に寄るって本を読みなさい、同級生は高校卒業しているのに負けずに知識を身につけなさいとのお言葉でしたの行くことにしている、愛する愛子へ
愛子はノルマール卒業ご先生の職についた。弟が大学に入学したので愛子は月給から母を助けた。
二世の男性も愛子を求めて良く遊びに来るのを母は心よく迎えた。それも母の家庭に父がいない故に遊びに来やすい点もあったのだろうと愛子は思った事がある、真一兄さんからみて愛子は知能がすぐれて理性に培われた女性で日本人の持つ知性とブラジル女性の率直さを持ち合わせていて家庭の主婦に最良で母に似ていると語ったことがある。安雄は彼女の性質が気に入ったの
である。愛子も安雄を思う気持ちに変わりはなかった。
休みになると安雄も休暇を取って愛子とデートを重ねていた。良くシネマに行った、安雄は学校の先生が真一兄さんは沖縄におれば良い先生になれたのに、外国にいったのは村としても惜しいと話していた事を安雄に語ったと愛子に話した。愛子は安雄さんは。どんなでしたか、安雄は君も真一の所に行くのかと聞いて、彼なら安心して良い、と先生が語ったと話した。
沖縄人二世は日系人の中に溶け込んでいるけど、なぜか二世も沖縄人二世と結婚しているのが殆どだった。別に差別する訳でもないけど。亦、親同士の交際が取り持つ縁談なのかとも受け取れた。現在は殆どが恋愛結婚なので交際の範囲は広い、それでも県人二世の縁組の方が多いようだ、それも三世の世代はブラシル人との混血も多くなっている、愛子が新移民と交際するのはまれだった。真一兄さんも二世と結婚してよい家庭を築いているので自分も出来ると愛子は信じた。翌年に愛子の街で写真屋を開業して生活の基礎が出来て、翌年には結婚した。住み慣れた街を離れる事を決断してそれも母が弟と一緒にクリチーバの都市移ったので母の老後を見守る意味で移る事にした。都会で開業して住家も購入して安定した生活ができた、日本にも留学して安雄も一緒に一年日本で生活したことがあった。定年後自宅で日本語(クモン)を開いていたけど足の不自由を最期に、閉じた。母も一緒に旅行もするつもりが母は突然去った。真一兄さん夫婦と私夫婦四人でアルゼンチンやロスなどにも旅行して老年を楽しんでいる

    おわり