2011年5月9日月曜日

過去を顧みて

私が移住したいと思ったのは、アメリカ西部劇映画に出てくる雄大な大陸に憧れてのことでした。
サンパウロに着き、汽車に乗ってソロカバナを10時間も旅を続けた。殆どが牧場地帯で、その時は自分の夢がかなえられると思った。着いたところはパラナ州カンバラの沖縄県人の多いチジュコ・プレットでした。コーヒーは木がまだ小さく、新開地で木の根が畑のなかに転がっていました。その頃はコーヒーの値段がよく、また土地もよく世界でも類のない肥沃な土地とされていた。ミカンがたわわになり、マンゴーなど土地にこぼれるほどになり、土壌に捨てられていた。どの家でも木で囲われた牧場があり、豚や馬、牛が放牧されていた。豚などある大きさになると囲いに入れてトーモロコシやタピオカで肥育していた。鶏は放し飼いで自然に増え、卵などは食べきれないほどでした。食生活は日本より恵まれていた。
まず言葉を覚えることに一生懸命で、英語に似た言葉がたくさんあった。戦後移住者は朝の6時から午後の6時まで日曜もなく働いた。早く自分の土地を持ちたいとの願いと、古い移民と同様になりたいとの思いがあった。
戦後移住者の中には、新城安義、国吉真考、真勇、上地安勝、屋宜宣徳家族、新城安考、新城安吉家族などが同じ植民地で移民のひと時を過ごしている。
コーヒーの間にトーモロコシと豆を植えるけれど、大部分が国内消費で、生産過剰になると値段は落ちて大したお金にはならなかった。コーヒーだけは輸出しますので値段がよく、20年位は無肥料で生産できた。土地さえあればコーヒーを植え、北パラナは見渡す限りコーヒーで埋まっていた。それも70年代には大豆やサトウキビに代わり、機械化して肥料と農薬をだいぶ使い、生産物全て外国向けになっています。
2003年1月21日

0 件のコメント:

コメントを投稿