2011年12月31日土曜日

沖縄の家督相続

沖縄の家督相続は古くから伝わる習わしで民法により男女同権を定めているけど、未だに男子が継ぐのが掟で、その根拠は、掟を外れた場合にはその子孫の繁栄はともかく、不幸が重なると言われているので守るようである。相続にも序列があり、長男が家と屋号をつぐことになる.もし長男に男子がいない場合、もしくは14歳になり死亡した場合でも二男の二男が継ぐ習しに定められている。選ぶ訳にもいかない定めなのです。沖縄の風習がどうしてなのか考えてみた事がある。ある程度自然の法則によっているようにも思われる。私はㇿ-タリクラブで模範農業者として褒賞されたことがあった、その時貴方の年齢で農業に邁進する原動力は何かと問われた。私は次のように答えたのです。農業は土地に携わる仕事で。土地には人間に判らない事が沢山あるのです。たとえば同じ土地にピメンタを植えると辛い物が出来るし、またべテラバを蒔くとあまいものができる。同じ土地なのに種によって各も違ったのができるのです、小さい種のなかに各も違った遺伝子が組み込まれているのに不思議を感ずるのです、それだけではありません、ROBERTORODRIGUES前農務大臣の話によればサトウキビの原祖は竹から.進化したと言われる、種の進化について、牛で説明すると、ブラジルの牛畜産には二種類あって一つは肉牛で二番が乳牛です。肉牛は短期間で肥育し体重が重いように改良されてきた。選り抜いて最高の品種の精子を求めてきたその値段は何百万レアルもするので精子の値段も驚くほど高い。亦乳牛は雌が主体で改良されてきて、良い品種は多くの子牛を生むために受胎すると別牛のお腹で育てている。今少し自然の動物の世界で子孫繁栄を維持するために、ライオンは力の強いオスだけが種付けするようです。このように子孫の繁栄は男つまりオスにかぎる自然の掟です。日本の皇室も男子相続で一時男子の孫が生れず、女性も継承できる法律の学者を招いて検討した、話によれば畑は女で、男の遺伝子が血統を継ぐと考えたのです、幸いに男子の孫が生まれので議論は消えたのです。しかし沖縄で一族の相続で色々の問題が起きているようです
20111230日国吉真一.

2011年12月10日土曜日

2011年度を顧みて

今年も終年に近付いている、振り返って思う事を書いている、まず経済的には最高の年と言える。気候に恵まれて総ての作物が豊作であった事、そして値段も良かった事が農業者を潤したのです、次は家族全員が健康に一年を過ごし年末を迎えた事、私自身は年を重ねるごとに悟りへて幸せに思うのです、まず自分自身が幸せであれば自然と微笑み、顔に笑顔が現れ、また、モチヴアションも湧く,自信も生まれる、その事自体が会う人々にも良い印象を与えて幸せを与えるのだと思うのです、、今日までの歩んだ人生を演劇で表すならば、第一幕が自分の生まれた故郷の友達や村人達との交わりが、自分の性格に影響を与えたのだと思うのです。大二幕がブラジルに移住して得たお友達。主に戦後移住者の仲間、日本人会を通じての二世達、そしてブラジル人、主に農業者やカトリック宗教関係の友達や、組合関係の人々ですが、仕事が年と共に縮小するので人間関係も遠のき、家族の絆の大切さを感ずるのです。特に今年は身近な叔父や叔母を亡くして、また妻の兄と妹の夫も亡くしたのです。自分が取り残されたような感じがするけど、また神様はこの世に私を必要としていると残って居るとおもうのです。でも自分では終盤の幕を演じていると思われる。お友達が去る中で若い世代との繋がりがインターネットのFACEBOOKを通じてお友達になりメールを通じて多くの誕生祝いの言葉を頂いて幸せを感じております。
やる気を起こさせるのです、今後の目標は誰にも任せることが出来るようにコーヒー園を縮小して大豆かサトウキビに変更することで経営簡素化を計る計画です。

2011年11月26日土曜日

ブラジルの農業機械化

ブラジルの農業の機械化は大豆や綿、トウモロコシの栽培が機械化されてからだと思われる、それまでは労働者と馬が使われていた。ので、大面積になると。歩合作で経営されていた。70年以後はシチアンテでも小型のトラクターを所有するようになり、農業の機械化は進んだように見えた。殆どが農業融資を受けての購入ですから、農業者は殆どが銀行に借金ができた。天候不順で不作にでもなれば
借金は払えず翌年に持ち越された、また機械化により表土の流失も激しく、有機質の消耗も重なり、大豆や綿の種も購入し、肥料も施しての栽培ですから経費は50パーセント以上にもなった、機械化するようになって利益は減る一方で借金は膨らみ、土地を手放す農業者が出始めた。また余裕のある人は土地を広げて大型の機械化が進んできた。その時以後は不起耕栽培が導入されてからは表土流出や、種の出芽もよくなり,気候による損出はほとんどなくなった、近年には農作物の世界の世界市場が倍以上にもなり一層の大型機械化の道を歩んでいるといえる。特に広い面積のあるマットグロッソやバイヤでは土地が平坦なうえに農作物に気候が適して一年に二期作物を栽培して。機械もなお一層の大型化している、植え付けも5倍以上の面積をトラクターつで引っ張ってコンピウターで操縦しているようです。サトウキビ栽培も機械化が進み80人以上の労働者の仕事が機械一人で収穫し、しかも夜も休みなく働きますから工場もフルに運転している、運搬業もトラック一台で3台の車体を運び経費を節約している、また綿栽培に於いては多くの労働者を必要とでしたが、現在は植え付けから収穫まで皆機械化されている、コーヒ―栽培も平坦な土地では機械化が行われている。それでもまだ人での収穫が多いので労働賃金が上がれば機械化せねば生き残れないでしょう、」それ以外にも農業分野で目立つのは品種改良で、収穫が20パーセントも多くなっている、また除草剤の大量使用も大量生産に役立っている。現在のブラジルの農業はアメリカの農業生産に近づきつつあり、生産可能な土地はまだいくらでもあります

2011年11月13日日曜日

ブラジルの政治

ブラジル政治家の汚職への抗議マニフェストが各首都で行われた、現政府の大臣5人も汚職事件で辞職するか、免職に追いやられた。全てが報道人によって表面に現れたのです、その現実がほとんど前大統領ル-ラの政権時代に起こった事件で、現政権に発覚したと言える。なおも労働大臣もONG慈善団体との汚職が取り上げられている。その事を考えた場合に、至るところで政治家は党とグルで国民の税金を巻き上げているようです。少なく見積もっても800億レア-ルは国庫から出ていると、報道されているのです。ブラジルは世界でも税金の高い国で、その反面国の経費は膨らみ国債で補っているのです国民の生活が良くなったとの評価ですけど高所得と低所得の差は変わらず、低所得の教育も上がっていません。国民生活水準も世界の中で70番以下で、隣国のチリやアルゼンチンよりも低いのでも解る。農業や工業の民間企業は素晴らしく発達して労働者雇用も世界ではよい方でそれが消費に回りややインフレ気味の状態です。低所得者への援助も毎年上層しておるけど上と下の所得格差は広がるばかりです、いかに国民への税金が高いと言っても政治家や高所得者は税金を隠すか、他国に預金して税金をのがれているのです、政治家そのものが同様ですから取り締まれないようです中産階級はそれでも生活は楽ですから国の治安や教育や公通や医療機関が良くなれば素晴らしい国と思われる。

2011年11月5日土曜日

書く事の楽しさ

書くことの楽しさを覚えたのは「のうそん」の随筆を読んでからのことで、自分の考えていることや、思いついたこと、を文にして残したら、何時までも残るのではないかと思いついてからである。始めは自筆で書いていたけど、まず漢字が思い出せず。ひらがなで書き、事典を引っ張って漢字を入れての面倒でした、それでも自分で書いた随筆が「のうそん」に載ると嬉しかった、書くとなると、多くの文章や書物や新聞などを読んで、自分なりの意見を持たなくては書くヒントが浮かばない、また旅行や人との会話も大切のようです。今まで良い印象に残るのは。FOLHA DE SAO pAULOのコルナでANTONIO MORAESの記事はブラジル国民に勇気を農業者に与える記事が多かった、なお「JOSE BIONDO」のコルーナも良かった、あいにく日本新聞は読んでいませんので投稿者が多いけど、ただ宮村秀光氏の随筆は胸を打たれる文章でした。なお文芸春秋の著者の中では、山本七平の日本人離れのした感があった。書く事は頭に浮かぶとついすらすらと出てくる、やっと一つ、の作品が出来上がるとほっとする。自分でも満足感に浸ることが出来るのです。特にパソコンによっての、文章書きは訂正したり、また中に文を入れたりが簡単でなお容易い、文章は読む人に面白さや感銘を与えるのでなければ、読者を引き付けないと思うのです.例えば旅の文でも報告書のようでは読者を引き付けない。
旅の風景や印象をあたかも読者の頭に現場が浮かぶようになると最高だと思うのです。私は自分の書いた文章をポルトガル語に訳してみて娘に読んでみてもらったら。意味は分かるけど文法になっていないようで止めました
永田さんから小説を書くようにと原稿用紙を送ってくれたことがありました。つい誘われて書いてみましたけど当選しませんでした、当選作品を読んで感じたことは私の作品はストーリであって文学作品ではないことを感じたのでそ、随筆家は小説家にはなれないことをつくづく感じました。それでもインターネットのBROGには掲載してみんなに読んでもらっております。20111016

2011年11月2日水曜日

日本の政治の現実

私は外国に住んでいて現在の日本の政治が気になる、日本は豊かになった故にその付けが回ってきたかんじがする、今日まで国は多くの負債を抱えて豊かになった感じがするのです。直面している現在の問題、国家負債もその一つです。なお東北復興の問題。T PPの問題。普天間基地移転の問題。以上の問題は政府がねじり国会のなかで思うようには国会通過しないのです。まず野党の人民党は出来たら政権を奪回しようと待ち望んでいるので早めに国会を解散に追い込もうとしているし、国の復興を妨げると国民から嫌われるので協力せざるをえない。まず来年度の補正予算を通過させねばならない。
日米自由貿易の問題も工業生産者は賛成デ農業者と漁業と医療関係者は反対と、国民を対立させる立場に至っているようです、最も農業者は国民の食糧問題、現在30パーセントが地方の高齢者によって生産されているので、自由化すると農村に住む人がいなくなる恐れもある、将来人口が大都市に集中することは確実ですけど、速度が速まると思われる。もし世界の中東や日本近海で戦争にでもなれば日本が食料を輸入できなくなり、国内に大量の食糧を備蓄して世界市場の影響を受けない施設が必要です、それは石油も同様だと思う、また普天間基地の問題も日本国家を考えた時,中国やロシヤが日本近海を脅かしている現状では空軍の軍備を供えねばならない、国民が自分の国は自分で守るとの覚悟があれば憲法を変えても、また安保条約を放棄してでも、今からでもやるべきだと思うのです。日本には戦闘機など造る技術は十分あり、いや戦闘機は造らなくてもまた航空産業によって雇用も生まれるでしょう、また輸出の出来るでしょう、しかしアジヤ諸国との摩擦も生じるでしょう、いろいろ問題を考えた時に安保条約を維持して近隣諸国との友好関係を保った方が日本の得策のような気がするのです、日本はあまりにも進み過ぎた感があり、外貨を減らしても70年代に後戻りしてゆっくりと復興すべきとおもうのです、

日本の政治の現実

私は外国に住んでいて現在の日本の政治が気になる、日本は豊かになった故にその付けが回ってきたかんじがする、今日まで国は多くの負債を抱えて豊かになった感じがするのです。直面している現在の問題、国家負債もその一つです。なお東北復興の問題。T PPの問題。普天間基地移転の問題。以上の問題は政府がねじり国会のなかで思うようには国会通過しないのです。まず野党の人民党は出来たら政権を奪回しようと待ち望んでいるので早めに国会を解散に追い込もうとしているし、国の復興を妨げると国民から嫌われるので協力せざるをえない。まず来年度の補正予算を通過させねばならない。
日米自由貿易の問題も工業生産者は賛成デ農業者と漁業と医療関係者は反対と、国民を対立させる立場に至っているようです、最も農業者は国民の食糧問題、現在30パーセントが地方の高齢者によって生産されているので、自由化すると農村に住む人がいなくなる恐れもある、将来人口が大都市に集中することは確実ですけど、速度が速まると思われる。もし世界の中東や日本近海で戦争にでもなれば日本が食料を輸入できなくなり、国内に大量の食糧を備蓄して世界市場の影響を受けない施設が必要です、それは石油も同様だと思う、また普天間基地の問題も日本国家を考えた時,中国やロシヤが日本近海を脅かしている現状では空軍の軍備を供えねばならない、国民が自分の国は自分で守るとの覚悟があれば憲法を変えても、また安保条約を放棄してでも、今からでもやるべきだと思うのです。日本には戦闘機など造る技術は十分あり、いや戦闘機は造らなくてもまた航空産業によって雇用も生まれるでしょう、また輸出の出来るでしょう、しかしアジヤ諸国との摩擦も生じるでしょう、いろいろ問題を考えた時に安保条約を維持して近隣諸国との友好関係を保った方が日本の得策のような気がするのです、日本はあまりにも進み過ぎた感があり、外貨を減らしても70年代に後戻りしてゆっくりと復興すべきとおもうのです、

2011年10月15日土曜日

世界経済の現状

ヨーロッパの経済状況悪化に加えてアメリカの不況と日本の東北大震災の影響で輸出が伸び悩み日本の円高による輸出の伸び悩みで先進国が不況に陥り、そのしわ寄せが後進国にも押し寄せている。世界で最も経済成長の激しかた中国でさえ、輸出が鈍っているので世界全体に影響を与えているようです。ブラジルも影響を受けて、農産物は軒並み値段が下がりかけているようです、10月から始まる今年の植え付けにも影響を及ぼしているようです、ヨーロッパでは。銀行がギリシャの国際を買い込み国が破産寸前にあり、ヨーロッパ連合で資金調達を行うので、銀行に余裕がなく株式市場は停滞して、農産物先物取引に回す余裕がないので先物取引は停滞しているようです。その影響がブラジル農産物の低下に現れています。それでも世界の食糧事情はストックが少なく、消費は拡大しているので、特に中国は人口が多く、国民の所得も輸出によって倍上して食糧の消費も拡大していて、アメリカや、ブラジルから買い付けて賄っているので,以前の値段まで下がる事はないようです。アメリカの今年度の穀物生産量は去年よりも少ない予想ですので、世界の経済が安定化すれば亦持ちなおると、事情に詳しい専門家は発言しているのです。農産物の市場は世界の経済にもより、また気候にも左右されていて。尚コストの面では石油価格も影響するので、予想が当たる率は60対40と思っています

2011年10月2日日曜日

年を重ねて思うこと

外国に移り住んで六十年にもなり、若い頃に抱いた夢もなくなり、毎日元気で暮らしている事に、神に感謝している
回りの知人も殆ど他界して、次は僕の番かもしれないと思うこともある、過去を振り返ると日系社会の変化を感じる。
名の知れた日系人のファゼンデイㇿも姿をけして、若い二世には名前さえ思いだせないようだ。移民の初期にコㇿ二ヤの中で自分だけが土地がなく、あれ程にも欲しかった土地が。意味を持たない、其のことは生存した証にはなるけどいずれ自分の亡きあと人手に渡る運命にある。それでも農業をやる以上土地が資本であり、自分の可能性をふるう場でもある、生まれた故郷に比べて、土地は豊富にあり大きい面積を持ちたいとの野心も若い頃にはあった、子供の教育を第一に考えたら野心は自然と消えて行った。多くの仲間たちが街の仕事に変える中、自分だけが取り残されたようにも感じる。ただ農業に熱中すれば、ボケるのも遅く、現代から取り残されずにいることはできる。戦後移民の仲間達は殆どが職場から離れている、しかし良く観察すると現代から取り残された感がある、まずポルトガル語が読めない。また現代の必要なコンピウターも扱えない、其のことはまさに次の世代の子弟との繋がりが無いのは悲しい、この事は次の世代に資産を残す事よりも大切のような気もするメールを通じて語り合うのも楽しい、最近のうそん誌の投稿者、マトグㇿソ州とメールの通信が出来た、なぜか私同様に妻は二世で、しかも遠いマトグㇿソに移住したのに関心があり、近日に会う約束が出来て楽しみにしている、年をとると足の運びもにぶくなる、頭は過去の記憶を思い出すのに熱中する、未来が見えないのは当然で今日元気でいることに感謝するのみである。最近はタブレットも購入して明治時代の有名な作家の著書を読んで時間を過ごしている

2011年9月25日日曜日

回顧

私は移住して六十年になりましたけど移住始めの十年と今日の十年ははっきりと記憶にありますけど中間の四十年間は記憶が蘇らない。そのことは自分の今日までの人生も同じことがいえる。故郷の少年の頃は今でも記憶にある、最近訪問した時の村のたたずまいは憶えていないけど昔の姿はいまでも頭に焼き付いている、移住した初期の記憶は、はきりしている、それは自分や家族が将来の不安をかか得ていたからだと思う、日本では学生でしたので自分が責任を持っていなかったので、ただ学生生活を楽しく送っていたからです。移住して祖父母の家族と一緒に暮らすようになって、初めて人間の付き合いの難しさを感じたのである。

真面目に一家を持たねば心が収まらなかった。まず何故、孫の私達親子を呼び寄せる気持ちになったのだろうかと考えてみた。戦後間もなくブラジルから沖縄へ慰問品がとどいた、なんにも無い時ですから大変うれしかった。同級生からも羨ましがられた。そのことが祖父母に親近を感じたのです。
祖父母にしてみれば故郷に残した長男「私の父」が海軍でしたけど若くして死に、そして孫の私が生れていたので、一家の跡継ぎでもある孫を戦争で困っているので、助けたい気持ちもあったようです。祖父母には不運にもブラジルで二男も大都会で勉学中に死亡されて、家を継ぐ男がいなかったのも呼び寄せた原因でした、さて、一緒に生活してどうしても馴染めない、いろいろと戦後の沖縄を話しても祖父母の頭の中には故郷を後にした時の姿しか知らない。その頃のブラジルのコㇿ二アは戦前の沖縄そのままなのです。植民地には四十家族ほどの沖縄県人家族がありましたけど。殆どが小学卒ですから自分の村から出たことがなくブラジルへ移住したのです。特に祖父母は無学でしたのでなおさらです。それでも祖父母は人一倍働き自分の土地を持つことが出来た、初期移民の苦労をなされて植民地でも別人よりも多くの土地を持って居た。私達親子移住を決めるまでには、幾通も手紙のやり取りがあった。母は自分の村人と別れて外国へ40代にして決心するのは容易ではなかった。そもそもお嫁に行くような立場だったのです、でも私の将来が見えない中で祖父母に託したいので決心したのです。来て初めて嫁勤めの難しさを感じて、夜寝床で涙を流すのもしばしばあった。私は意を決して家を出ることにした。祖父は私たちに家財を分けあたえた。独立して自由にはなったけど不安もあった。私達親子はコㇿノ用の堀立て小屋に移り住んだ。先輩の移住者が歩んだ道を歩き始めたのです。私は一家の柱として隣の叔父の日雇いに何か月も働いた。。まず言葉を覚えるには同じ使用人のブラジル人の話相手になる事でした。植民地の日本人は必要な簡単な会話はできても文法に適した会話ではなかった、読み捨てのブラジル雑誌を読みいちいち単語をポ-和辞典を導いて単語を帳面に移した。植民地の年頃の青年は小学程度の知識しか無く、話相手は自分の家の使用人なので私を引き付ける人はいなかった、ただ日語学校の先生はたくさんの本を持って居たので、夜になると毎日先生の部屋へ行って本を読むのが日課でした、植民地の家長たちは日曜になると良くどこかのお産お祝いとか、または亡くなられた人の御そうこうなどに良く集まっていた、私も家長として参加することがよくあった、。
話は昔の伝え話とか、または別の植民地の話などだった。植民地には良く物売りが来た。ミシンの修理や蓄音機の修理なども行った、中には沖縄三未線なども売り。どこの家にも三未線はあった。夜になると家家から三未線の音が聞こえて故郷を偲んでいた。ブラジルでの伝え話は物売りが夜になると行き付けの家に泊まるのが習わしで、自分で得たり聞いたりの話を居候の家族に聞かせるのを楽しみのようだった。人から聞いた話でも、あたかも自分が体験したように聞かせていた、その家族はその話をまた別の集まりで聞かせるのでした。ただし正月や7月になると首都へ勉強にいった学生たちが帰ってくるのでその人たちと会話を交わすのが自分の向上心をもりあげた。移住して4年目に異変が起きた。祖父口癌にかかっていたのです.最善をつくしたけど様態は悪化して死間際に私に住んでいる土地を与えると言ったけど私は買うことにした、正当な値段で4年払いにして祖母に払った、そのことが自分に自負心を持たせた。すなわち、私も二世と違って移民の同じ道のゼロからの出発だと思った。亡きあとは祖父のことを思っていた、彼は無学にも拘らず自分の土地に日本語学校やブラジル学校を率先して造らせた。そのことは自分が学べなかったことを子孫に学問をさせたい信念があったのです。なお後輩の移民が土地を買うときには資金を調達したりした。私が移住した頃には沖縄では部落に電気もついていたのに、当植民地ではランプに頼っていた。のでまだ遅れていると直感した、しかし食事は豊かで肉類が多く食べていた。そして誰でも食事を共にすることが出来た。そのようなことは日本ではできないことでした。どこの家にも馬と車があり街への用事は馬車で達した。私の植民地はよき指導者がおって勝ち組はいなかった。そのことが家庭がブラジル化して日常会話はポルトガル語かウチナグチでした。ある日勝ち組の多い植民地へ行くと日本学校では天長節や教育勅語も朗読されて戦前の教育がなされているのには驚きました、それでも生徒の会話は日本語でした、時がたつにつれて日本の敗戦が伝わるにつれて精神の動揺を避けるためにも成長の家が普及していった。その後は二世もブラジル語の中学に通うようになり自然とプラジルへの同化が進んでいった

2011年8月13日土曜日


頑張れ
東北大震災以後目につく言葉が、「がんばれです」この言葉はスポーツの応援などにも
良く使われていますけど。東北大震災の沿岸のガレキの埋もれた市街地を見て思い出すのが。戦後の焼け跡を体験した人々には慣れていますので.頑張れ。の言葉も受け取れる気がしますけど、若い主婦や40代の戸主にとっては明日の見えない現実 に家もなく、仕事もなく、子供の健康に不安を感じている人々に、いくら「がんばれ」と叫んでも聞き入れそうにない感じがするのです.丁度車のバッテリが消耗してきれた時にいくら下に流してもエンジンはかからないけど、ちょっと別のバッテリで補給するとエンジンがかかりバッテリに充電できるように、ドン底にある人にとって、同僚や支援団体が少しでも後押しをするのが動き
出すきっかけになるのではないかと思うのです。戦後を体験した人は職にも不自由して全ての人が同じですから、まず自分と家族を守る以外は余裕がなかった、現在はまだ余裕のある人がたくさんおる。二本の国は何時もどこかで災害が起こってきた。.それでも立ち上がってきた、日本国民は実に「頑張る」国民なのです、8月13日

2011年8月7日日曜日

判らない事Ⅱ

老人は若い者に比べていろいろな事を経験している。そのことが脳の中に記憶されている。ですからその記憶をとりだして、色々の出来事に応用されて失敗を少なくしていると思う。何時かの報道にタクシ‐のお客さんは老人の運転手を好むと言われたのも事故が少なく安心できると語る。若い人に言わせると運動神経が鈍くなり、すばやい判断ができかねるという。それでも老人になるまでにはいろいろな小さい事故に相遇している、その経験が記憶にあり注意して運転しているのだと思う。私もまだ運転していますけど、運転すると特に街角では左や右を見て走るのでとても神経を使う。それ自体が頭の脳に刺激になるのでないかと思うけど判らない。脳の中には過去の経験が詰め込まれている。たまに記憶を思い起こしていますけど、長年思いだす事も無ければ忘れてしまうのだと思うけど判らない。老人は多くの経験を生かして色々な発想が生まれるのではと思うけど。そうでもないらしい。何事にも尊重して踏み切れない。その点若い者はたとえ失敗しても起き上がるだけの体力と想像力を持っているから実行するから新しいものが生まれる。
若い人は脳の中にまだ余裕があり、あらゆる事を想像できるのではないかと思う。世界の発明や発見は殆んど40代から50代の人に多いのも脳の中に余裕があるからではないでしょうか。老人は自分の持っている経験を元にして、物事を判断したり、物事の見方をする。若い人は老人と違った環境で育ち老人と変わった物の見方をするので。なるほどその様な見方もあったのかと驚く事がよくある。そして反省することがある。そのような事は親と子の間にもあり。一世と二世の間にもあると思う。亦老人も若いころ進歩に満ちた、アイデアを持っていたのである、私は父を持った経験がないので息子ができた時は西洋人のように、親子で釣りをしたり、バスケットボールして友達のようにありたいと思った、でも仕事に追われて実行した事なく過ぎた、今思うと頭の中に父は父らしく威厳が無ければならないと、日本人的な考えが潜んでいたのかもしれない、息子が結婚して子供ができると良く子育ての手伝いをするので親に似ない子だと妻は褒める、あるいは自分の意思が通じたのではと思うけど判らない。ある時。友達ど日本の学校生徒が理科数学を嫌う傾向がるといわれ。その反対にインドの学校では物凄く数学を取り入れて掛け算や割り算を暗算で教えているので、将来日本の科学の進歩がインドに負けるのではないかと私は意見した。あまりにも遊び道具が多すぎて一日中夢中になる子達を見ると、果たして勉強する時間があるのかと思っていたからである。すると友達は、遊びの中から色々な発想が生まれて、その発想が亦別の発想を生み出すのだと語られたほんとうだろうか判らない。かならづしも学校優秀なる人が良い発想や良いアイデアが生まれるとは限らない。いくら考えても判らないことは沢山ある。読者も判らない事を随筆に書いてください。お待ちしています真一。20011年7月20日晴天にてshinichi kuniyoshiblogspot comにて

2011年7月22日金曜日

解らないこと

解らないこと
細かい微生物や何億光年の距離にある惑星の実態が解りつつあるな中で、私には判らない事がたくさんある。
子供を生んだ事のある母は産む時の痛さを、何にも比べる事が出来ないと母親は言われる。男である私にはどれほどの痛さなのか体験する事は出来ない。ただ想像するだけなのです。併し人間の体は自分を守る反応があって、たとえば電気のショっクなど受けたら、とても電線に触れる勇気がない。これは時分を守るための自然だと思う。このようにあれほど痛いのであれば母親は二度と子供を生まなくなると思われれる。それでも次々と子供をうむのが常である。それとも人間は自分の子孫を残そうとする本能が、生む時の痛さを忘れさせる力があるのかも知れなと考える。子供を生み育てる喜びは女性のもって生まれた本能だと思っている、併し私の甥に子供を生まないことを条件に結婚したのがおる。身体に何の不足もなく、しかも大学卒なので経済的にも余裕のある人なので自分の子孫を残す本能が女性にあると思うけど私には判らない、ただ子は夫婦のかすがいとの言葉のように、愛情だけで年をとったときの不安がないのか私には判らない。また独身女性は子供を育てるわづらわしさに結婚しないと語る。子供を育てる喜びは本能だと思うのですけど,判らない。動物の世界では強いオスが一族の子孫を残すために多くのメスに子供を生ませ強い子孫を残そうとする、人間でもアラブには男は四人妻を持つことができると言われる。現代社会でも、お金のある人や、有名人などが妻以外の別に子供をつくり話題になるけど子孫を残そうとの本能が働いているのか判らない。また原始時代に近いようにも取れる。現代社会は力で支配するのではなく、頭で支配する社会です。人間の才能は子供にも継がれる、良い才能を持った親の子もよい才能をもって生まれると言われる、また人間はさるから進化したとも言われる。いまでも人間は進化しているのでしょうか判らない。
昔と比べてあまり体を使わなくなったとしたら退化しているのでしょうか判らない。現代人は昔と比べて男の精子の受精能力が劣っていると言われている。、頭を使う人ほど劣ると言われる、現に下層労働者に子供が多く、知識層に子供は少ない。生物の世界では生命の短いのはより多くの子孫を作り、自分の子孫を維持する本質がある。その反面改良された果物や花などは種が少ない。人は努力して才能を磨いたとすれば、進化によってその子孫にも良い才能は受け継がれるのかも判らない。私たちは自分の子には、苦労はさせたくないと自分は苦労して大学まで学ばせ、現に子達は苦労せずに済んでいる。しかし苦労は人を磨くと聖人は語る。確かに自分も磨かれているように受け取れる。はたしてそれが良かったのか判らない。
聖書の教えに左の頬をうたれば右の頬おも与えよとある。人間は自動的に自分の身を守る本能がある。争わない意味はわかるけど実際に自分が打たれた時に別の頬をも与える事は出来ないと思う、まず本能が働くと思うけど判らない。もう一つ貧しい物は幸いなりとある。誰とてもよい生活がしたいと願い。努力するのだと思う。それゆえに社会は発展して現代社会が出来たと考ええられる。土人は良い生活がしたいと思わないでしょう、実に失う物もない、お金もいらない.貧しい者は幸いなりに近いように受け取れるけど。判らない。人種差別は法律で禁じられている。人間のもつ好き嫌いは内面の問題であって差別ではないと思うけど、もともと脳の中には白は明るく、黒は暗いイメージが焼きついてるのかもしれないと考えるのですそのことが人種差別になったのではないかと考えるけどわからない。。私の住んでいる通りはバス停留所に近いので良く物乞いが現れるので、与えた方が良いのか迷うこっとが多い、まずかれらの語るのがほんとか嘘か判断に迷う。与えたら何時までも自立できないのではと思うけど判らない。人は自分から好んで生まれたわけではない、生まれた時から生きようとお乳を要求して育つ。大人になってなぜ生きているの考えて見るけど判らない。ある人は生きて社会の移り変わりを見たいという。老人になり半身不随で、家族世話で生きている人を見ると、自分は世話にならずに死ねたら、家族はほんとに良い人だったと思うかも知れないと考えますけど、自分がその身になったら生きたいと思うのではないか判らない。まだまだわからないことがたくさんあるけどこの辺で   国吉真一

2011年7月16日土曜日

ブラジル人気質

ゼイチンヨ‐ブラジレイㇿとの言葉がある、この事はブラジル人気質ともとれる言葉です。ブラジルは気候のせいか国民がのんびりとしている。祭日が木曜にでもなると日曜日まで4日
間わ公職は休みとなる、それ以外にもやたらに休みが多い。書類の手続きでも一遍で済んだためしがない。遠いところでは一度で用事を果たすことがない、お客さんを二度も足をはこんでも平気でいる。当然だと思っているようです。南米は殆ど同じの様で。そもそもラテン系の国民性でしょう。日本の電車が時刻通り運行するのに、さすがに日本人は約束を守る国民だと褒めるのです。ジャポネスーガランチ-ド「確実」の意、移住して時期は日本人の気質に合わないので嫌気がするのですが。なれると気にならなくなる。多分自分もその雰囲気に慣れた故でしょう、私は日本人の品格の本を読んで日本人であることに。感銘してその本を紹介した。そして随筆にもかいた。しかし
現在世界経済不況の中で日本が一番打撃を受けているような感じがする、敗戦からの日本の復興は日本の終身雇用体制が発展の基礎になっていたようだ。其の後グロバール化してアメリカ式の能力主義をとりいれて、世界に生産工場を造り製品を売り込んだ。
アメリカ様式を奨励した経済家や経営者が政府の役所に勤めて奨励した。、現在の不況に立ち向かい海外での設備投資が利益を損なうまでになっているのです、現在までの利益だけを求めるやり方が、社会に及ぼす影響を考え始めた。会社の利益よりも雇用が大切だと反省しているようで、この様にいかなる説も時代の変化によって考えが変わるのです。私の持っていた
日本人の気質がブラジルには馴染めない気がするようになった。世界20カ国の首脳会談がロンドンで行なわれた際に、日本が世界で第二番の経済国であるにも関わらず.日本の首相があまりパっとしないけど。ブラジルのル‐ラ前大統領は意気アイアイで対等に話し合っているのです。そのことが日本人の気質は日本人だけの者の様な気がするのです。。世界七か国が財政赤字に悩む中.財政てきに中国やインドやブラジルが国際的信用度が高くランクされている現状です

2011年7月10日日曜日

二千十一年ブラジル事情

ブラジルの経済状態は世界でも良い方にランクされている。特に農業方面では農作物の世界市場が去年の倍にも近い値段を維持しているしコヒーも四百レアウ位している、それ以外にもサトウの生産や牛肉や鶏肉や豚肉が盛んに輸出されて外貨を稼いでいる大豆は勿論の事、それ以外にも果物ではミカン汁やマンゴやメロンやブドウなどが、来た半球の季節はずれに生産されてヨ‐ㇿッパやアメリカの市場に出ている。今年はラニンヨの影響で気候不順で不作の場所も有るかも知れないと予測している。その反面工業製品は鉄鋼品は中国製品に押されている。もちろんドル安の影響も大きい、ドル安は当分続きそうである。その理由はブラジルはまだインフレがあり銀行利子を高くしてインフレ-を抑えよとの政策が投資を招きドルが市場に溢れているのが原因で、もう一つはドルそのものがアメリカの国家の赤字埋めによ必要以上に発行されて上院議員は発行上限を定めているそれでも、市場に流れて、価値が下がっているのも要因だ、ブラジルは女性の新大統領が誕生して国家予算が赤字の上に大きなプロジェトが計画され。2014年のコッパャ2016年のオリンッピクのインフラ設備や競技場や空港の設備やホテルや交通の整備に莫大の投資が予定されている。勿論外国のお金を予定しているので景気は続くけど国のバランスは予測できないのが事実です。政府はルーラの跡を継ぎ最多数の党派で与党は成り立っていて議会を通過するには莫大の資金が議員に流れて。汚職は甚だしい、これも前大統領の遺産なのです、
今年に誕生した女性大統領も二人の大臣が汚職問題で失格しているのが現状です。ブラジルの税金は世界でも最も高く州ごとにも消費税が異なり平均して36パーセントにもなるようで、工業製品が輸出面で競争できない状態です。企業家は外国と競争できない理由に税制改革を提案して前大統領時代から改革案を議会にだしますけど。州との折り合いがつかず現在にいたっておりま

2011年7月9日土曜日

私と 農業組合

1970年代までは各町に、穀物仲買人が二三箇所あり農家に前貸ししたり、穀物を値段のよくなるのを待って預けたりしていた。
勿論資金が少なくなると払う能力がなく、泣き寝入りすることもよくあった。その不満から立ち上がったのが農業協同組合である、
あの頃は日本人の農業者が大部おり、その子弟の教育にも4Hクラブや農村振興会などが指導にあたっていた、パラナ州は大豆と小麦栽培で日進月歩で機械化が進み、また、小麦は政府の買い付けで組合を通じて支払われたので、他の町からも別の組合も進出して倉庫や販売所を設立して,穀物獲得競争に入った、丁度その頃、私も役員に選ばれた、もともと組合理事が組合の理念を外れて商業に走っている感じがしてならなかった、あの頃はインフレーが激しく、インスーモはどんどん上がり一方で銀行から融資を受けてストックしても利益がでた。肥料などはストックすると固まり機械で植える際にいちいち砕いて機械に入れた、人手が増える一方でうまく分配されなかった、ある総会で不自由なポルトガル語で組合の理念について,こう語った、組合は組合員の為の組合であって、組合の為の組合員ではない、組合の利益だけを求める為に古い肥料を売りつけるのは理念に反するといったら、組合員からの拍手が湧いて、次の選挙に役員に選ばれた
北パラナにはいくつもの組合が誕生した、農業に関係のない仕事で例えばスーパーやガソリンスタンド経営や運送業など一般実業家の仕事も経営して、組合員から集めた資金が別の方面に使われていった、経営が複雑になり従業員が増える一方で労働法の争いなどでも弁護士など、余計な費用が嵩んだ。その反面穀物を倉庫に下ろす仕事は自動化されずに多くの労働者を必要とした、そのようにコストが嵩み民間企業よりも利益が少なく競争できなくなった、そのような時にパラナ連合組合が中心に経費や不純物のデスコントを統一しようと試みた。私は会合で次のように発言した、、組合同士の競争はむしろ組合員にとっては良い事だ、組合の競争相手は組合ではなく、自由業者だ、組合は利益を上げるのでなく、経費を少なくして、利潤を上げるのが建前だと言った、亦一つの街に二三の組合が生存競争するのは経費の面で無駄がでるので総合する方が良いとのべた。理由として民間企業が生き残る為に結合など行なっているし、金融界の大物オラヴォ、セツバル氏は生き残る為にには必要とあらば一週間で金融業界を再編成できると語った、組合は1970年代にパウリネリ氏が組合法を創り挙げて以来今日まで何にも変わっていない、リダー達は自分の縄はりを守ろうとしているように受けとれる。ブラシルが世界優秀な農産物生産国ならば、輸出を取り扱うムルチ‐ナシヨナルのような巨大組織を組合が所有して欲しいと願うのです。其の後も貯蓄組合を設立し、私も参加して地方を訪問して、会合を開き、その必要性を説いた。まず昔のコロノの時代を思い出し、あの頃は食糧買出しに一ヶ月に一度、町へ買い出しに出た。ある家族は食糧が不足すると隣の家から借りて生活した、その連帯意識が田舎にあったのだ、貯蓄組合は其れと同じだと説いた。、お金の余っている人は組合に預けて、必要な人は借りてその橋渡しを組合が責任を持って、銀行と同じ仕組みであり。勿論穀物のように倉庫も要らず、雨の日も休みの日も利潤はあるのです、お金ですから理事の信用と責任感は大切ですと語った、このように組合関係に携わり、今日にいたっている,考えると私自身も多くの事を学んだ気がする、あらゆる方面での知人が出来た、農業営農にも支出と収入や会社のバランスも診る事が出来たのは大きな体験だと思っている、組合が組合員の穀物を抵当に低利子融資をうけて、資金を利用し抵当物件を売っても返さず資金利用する事も度々あった、融資を受けたお金が再融資を受ける際に私夫婦の保証のサインがいまだに残っており、私の加入の地方組合も、其の後北パラナで唯一の日系組合と結合して継続している、
そして何とか危機を乗り越えて、農業者の支えになっているので幸いだと思っている。2011年7 月10日  国吉真一

2011年7月7日木曜日

日本の2011年度7

日本は去年以来民主党政権が誕生して国民から多くの期待がよせられていたけど、経済や政治はなにも変わらずに新年を迎えましたけど、党内での対立に振り回されて、第二次内閣を発足して危機を乗り越えようとしているのです、マニフェストにかかげた公約もある程度変更して、財政赤字や年金制度の赤字や保険のあり方を変へなければ、財政赤字は膨らむばかりです、世界でも最も高齢者が多く尚出産率が最も低くて若い生代の負担が増え続けるのです
今年見舞われた東北大震災により第二次世界大戦の日本の破壊の次にやって来た災難です、地震と津波そして原子力発電所の破壊と
ラジアチブの住民の健康に与える影響で避難生活を余儀なくされた人々が一万人も超す、死亡した人々も一万人以上で尚行方不明者も5000人を超える人々が災害に見舞われているようです。
被災地となった東北の市の残骸をみると市民が住み家を失い家族を失い、そして仕事も失って途方にくれている姿をテレビで見て胸が締め付けられる思いがするのです。それでも住民はお互い励まし合って、頑張る姿はたのもしいのです。私は終戦の沖縄を思い出します。アメリカ軍人が焼野原の街で10歳の少年が靴磨きをしていたので軍人はお金とお菓子を与えたら少年はポケットにしまいこみ食べようともしませんでした。その軍人は少年になぜ食べないのかと尋ねたら、家には妹がひもじい思いをして待っていると答えたので、軍人は日本の国はきっと早く立ち直ると思ったとのことがエピソードとして伝えられている、外国人からも日本人は規律をまもり協力を惜しまない国民なので早く復興すると語っております

砂糖キビ栽培

2011年は世界でも注目を集めているのがブラジルの農業です。穀物の相場が世界市場で上層してブラジルの外貨準備高が高く。国際的にも金融的に信用されるまでになった。その反面にアメリカや日本やヨーロッパが軒並み不振に陥っている。その中でも中国は世界でも日本を抜いて第二位の国民総生産国となり、世界の穀物を買い付けたのが原因です。ブラジルは東北に生産地を拡大してアマゾンの森林を切り開いて農業用地に変わろうとしているのです。政府は世界の温暖化を防ぐためにも開発を食い止めようとしているのです。農業生産の中でも目立ったのがアルコール生産です。ガソリンの高値に誘導されて,砂糖キビ栽培が増えている。わずらわしい労働者もさけてパラナ州でも機械化が進み、土地所有者も楽になったのも原因ですパラナには、何度か作物のブームに沸いている、まず、原始林を開いた時にはコヒーのブームにのり開拓された、その後世界生産過剰のもとで価格が下落し大霜がもとで、綿の栽培に変わった、これも下落により、大豆栽培ガ始まった、そして現在ブームに乗っているのが砂糖キビ栽培でそれには土地と気候が適していて、国際情勢がアルコールを求めているからです。
去年四月に植えた砂糖キビを今年七月に収穫した、結果は上場でした、アルヶ‐ル「2,42へクタール」当たり350トンの収穫で値段は約トン当たり16ドルです、工場渡しで費用は半分はかかり、距離は24キロに工場があり、遠くなると、純利益が少ない、幸いに私の土地の周辺には三つの砂糖工場があり、その点助かっている、去年植えた砂糖キビ畑は初めての栽培なので平均寄り、50パーセント余計収穫があった、砂糖値「ブリッツ」により値段はブリッのよいほどアジオがつく、全部で4500トンがとれた、二年目は分決するので雨さえ充分あれば5000トンの収穫が予想されている。以前は大地主しか砂糖栽培は出来なかった、理由は大型トラクターや運搬車やホ‐クが必要だった、現在は企業化されて請け負う会社ができて、少農家でも栽培を可能にした、
ブラジル国内で生産されている自家用車の80パーセントが現在アルコールを燃料とする車になっている。
ブラジルが世界一アルコール生産国になるまでには長い屈折があった、政府と企業が一体となって進めた結果、国内の車のエネルギー消費を賄えるまでになった、また世界の石油価格も上昇し、エネルギーを石油だけに頼る訳には行かなくなった。今アメリカではアルコール生産をトーモロコシから生産しており、家畜の飼料にまわすはずのと‐もろこしが上昇して世界の肉類も当然上がる結果になりつつあります、その点ブラジルのアルコール生産は面積当たり、とーもろこしよりも1.5倍のアルコールを生産するこが出来ます、ちなみに砂糖キビはトン当たりのアルコール生産は、約90リットルといわれている、値段はリットル当たり
約60セントで環境にも良く、日本からも取引があり、住友産業が資本を投資して、将来のエネルギ‐を確保しようとているようです

2011年7月2日土曜日

 投稿者

隣町に住む知人は、娘を通じ知人にんりました、彼、から二ヵ年分のサンパウロ新聞の投稿欄をまとめて、届けてくれた。土曜、日曜を利用して読んで見た、、日系コロニャにまだ多くの日本語の投稿者がおられるのに驚いた。つい日本語で文章を書く人って、どんな人物だろうかと考えてみた、Sさんは10歳の時家族とブラジルへ移民したらしい。家族と共に借地農で転々とサンパウロ州を渡り移転したようだ。青年になるまでコロニや集団地で生活したようで。あの頃の日本語教育が代用教員であるにも拘らず、難しい漢字で現代は使わない言葉で文章を書くからめずづらしい。投稿欄を読んで殆んどが戦前の教育を受けた人々のような趣がするのです。彼氏の場合ヴィドロサリャを経営して定年を迎えたようです、町で仕事をした人なのでポルトガル語も充分理解できると思ったけど、そうではないらしい、町に日本人はわずかでブラジル人との交流もあるかと思うけど、そうでもないらしい。毎日を読書や日本語新聞など読むのに費やしているようです。このように日系人の中にアポゼンタ-ドで日本の書物を読む人口がブラジル人に比較して大部多いと思う、一体投稿者は何で文章を書いて発表するのか考えてみた。
私の場合、時間に余裕が出来た事、この世界から消える日が近つきつつある事、生きた証しを残したい事、意見を交わしあう相手が欲しい事、投書すると読んだ知人から声を掛けられ励ましてくれる、貴方は物の見方がおもしろい、などと意見が返ってくるから尚書きたくなる、これは丁度役者が舞台で喝采を浴びるとなお演技に精だすのに似ている、自分で書いたのが採用されて新聞や書物に載るとやっぱり嬉しい、俳句や詩などの投稿者もみな同じ気持ちだと思う。書くことはボケないので良いことが上げられます。随筆を書くときはまづ題を頭に浮かべる、その動機やいきさつを書き、終わりの締めくくりを考えておいて、中身は題について頭に浮かんだ事を書き、パソコンですとあとで亦思いついたことを書き入れる事が出来るから、ある程度の文章が出来上がるのです、長年文芸春秋を読んでいましたけど始に読むのは随筆でした。まづ文が短い、ありふれた問題が書かれていて何かのヒントを与えてくれる。つい作者の名前も覚えてしまう、などで今でも多くの人々に読まれている。新聞などに載る投書は地方の出来事や自分の周囲に起こった出来事を知らせてくれる。その人のもつ知性を知る事ができる。同感できたら見識なくとも友のような感がする、などがある。日本生まれですと例えポルトガル語が理解出来たとしても、何かのブラジル人の会合でも残って余談のわに馴染まないのですぐ帰る、日本人の会合ですと時間のたつのも忘れてしまう程意気投合するのです。殆んどが若いころ植民地で過しているので話題が通じるのでしょう、
移民の中には元教員や役場員や事務員の経験のある方もおりますけど、このブラジル社会では通用しないから自分で仕事を始めるか、人に使われるかであったと思うのです、それでも何とか子供を大学までやり、よい職業につかせていて、、日本では役所や書類づくりや、なんでも自分で出来たけど,当ブラジルでは息子に頼らねばならず悲哀を感ずるでしょう、ブラジル人の中で会話がはずんでも自分の意見は言えない、息子や娘が集まりブラジルの社会問題をポルトガル語で議論しますけど、日本生まれの親は理解出来ても意見を言いたくても適当なポルトガル語で話せないから黙ってしまうのです、このような時代の断層が移民のなかで起こっているのです、日系人の多い集団地では老人会やゲートボールや仏教会などがあり土曜、日曜は過せるでしょう、それでも老人の悲哀を感じてはいけません、移民当時の言葉も判らずお金もなく、働く事によって子供を育て、大学まで行かせた自分の力を振り返って、例え息子や娘が偉くなってもその父母が偉いのです、心を狭く持つ事ではありません、現代が職業難でも、移民に比べれば子達は容易なことです、楽な仕事で良い収入を得たいからなかなか仕事が見つからない事だけです。、

2011年6月26日日曜日

しあわせ

老人の枠にはいり、自分の幸せについて考えてみた。自分自身の満足度が幸せにつながるのではないかと思う。毎日毎日が平和で、特別の悩みがなければ幸せを感じなくても、幸せのうちだとおもう。先ず家庭が円満で自分の現在おかれている事に満足しているかも要因だと思われる。自分を取り巻く人間関係とか、自然環境も幸せの要因だとおもう。いくら自分の家庭だけ円満でも親戚関係がよくなかったり、隣近所とうまくいかなかったり、亦自然環境が住みにくい所だと幸せとはいえない、満足度にも差があり余に貧しくとも、反対に余に金持ちでもなく、極平均的な生活を維持できるるのが生活の満足と言えそうっです。農業には色々のタイプの人がいて、過去の移民の中にも始は自分自身がエンシャーダを引いてやったのが殆んどでした、そのご仕事が大きくなるにつれて使用人と一緒に働くようになり、後には使用人まかせで経営するまでになったのが殆んどです。移民には学問のある人は自ら農業に携わるのは殆んどなかった。自ら労働者と共に働くのは限られていた。俺は経営者なのだとの自負があったのでしょう、。そのなかで私は自ら鍬を取り経営者としての自覚を持ちたいと実行してきた。他人に言わせるとこんな安い賃金で労働者が雇えるのに自分で汗を流す必要もないではないかと言う。農業経営者でも正等な賃金を払って経営できるのが経営者だと思っている:
体の為にも運動のつもりで鍬を取りますけど長時間体力が持たないのが現実です。農業者は社会の進歩の速さに取り残され易いですけど、いろいろの話しを聞いたり。新聞を読んだり、本を読んだりして遅れないようにしてるのです。自然の中での農業は考える時間がたくさんある。つい幸せについても考えてしまう。私達の持っている感は人により大きな差があるようで、例えばきれいな花を見て胸の躍るような人は好きな人に見せてあげたいとか、俳句を作ることも考えるでしょう、化学的に見れば花は蜂をひきつけ、花粉を媒介させて自分の種を結ばせて生存を保つと考えるでしょう。あらゆる物ことに関心をもち、感動したり。悩んだり、驚嘆したりして
。私たちは生きている事に幸せを感ずるのです。若い頃は、ただ子育てと高等学校までやるのに一生懸命で、幸せについて考えたことがなかった。子育ても終えて生活にゆとりが出来て、やっと幸せを考えるようになった。世界の誰もが幸せになりたいと思っている。幸せな人は困っている人や病気で苦しんでいる人をみると何とかしてやりたと思う。それは人情で自分の心が痛むのでほんとうとの幸せでは
ないと思われるからです。併しこのような人々に比べて自分がなんと恵まれているかを知り、神に感謝の念にわくのです。夫婦や親子関係にも何らかの小さい争いや、反対意見があるのは当然で、ないとしたらむしろ刺激や反省もなく、喜怒哀楽もないでしょう。私、夫婦は一世とニ世で妻への労わりがないので不満もあるようですけど。もう年のせいでもあるのでいまさら変わる事がないと諦めており不満を通り越しているのです。『子の世話し、夫ツマ』も世話して、満足げ}若い頃は夢があり、実現できるようがんばった、年と共に夢はなくなった、毎日毎日が平和で健康に恵まれたらこんな有りがたいことはないと思っている、寒い日や疲れたときにお風呂に入り体をほぐすと何処かの温泉にでもいるような感じがして、エネル-ギを消費して、もったいないけど幸せを感じるのです。先日娘とバイャまで4日の旅行をした、サルバドルの果てしない海辺を歩き気の遠くなるような海原を眺めると、経済や政治の腐敗の現実を忘れてしまう。水中メガネをかけて岩の小魚を追うと小さい頃の古里の海を思い出して幸せを感ずる、誰かの言葉に、生まれたるは死ぬまで生きる事なりと書いてあった、当たり前で生きる事の難しさを語っている、、会うは別れの始まりだともといった、たしかにその気がする、毎日毎日が別れに近ずいるのです、その毎日を大切に生きたいとねがうのです、

2011年6月25日土曜日

三つの顔

世界中で一つしかない顔が三つの顔とは何のことだろうと不理解に思われるでしょう。けど読んでいただくと理解できると思います。顔は頭の一部で頭には自分の生まれた時から今日までの体験や経験が記憶されていてコンピウターのような役割をしています。亦顔には名前があり同じ名前が何人もおります。けれど顔は世界でも同じのはおりません頭には。才能と技能がありこれは親から受け継がれて。才能は環境や経験や努力によってより磨かれていくのです。性格も親から引き継がれて環境により正確が創られていく。親と子はよく似たところがある、現在の私の顔はブラジル人の証明書を持ち、選挙権と軍人免除証明書も選挙権もあります。そしてカトリックの洗礼も受けて、結婚式も教会で挙げているのでカトリックの講習にも参加してブラジル人から信者として認められています。それ以外にブラジルの新聞も読み農業関係の組合の役員やシンジケートの役員もしているのでブラジル人から、ある程度尊敬されていると信じています、。けどブラジル人は私を日本人と呼んでいるのです。私自身も心の中にブラジル人になりきれないもどかしさを持って居るのです。次は大二の顔で日本人です。小学校にに行った時から、日本語を学び日本人としての教育を受けてきました日本の選手が世界で競争するときは日本人選手を応援します、日本の国が大震災に見舞われた時には心から悲しみ、日本人はみんな協力するからすぐに復興するのだと信じています、ブラジル人からも日本人は努力と協力があるので早く立ち上がれると語ると、日本人としても嬉しいのです、。テレビなどで見る日本の街が整った町並みをみると日本人として頼もしい。日本の自然の美しさや言葉のきメ細かい表現にも日本人の心情かうかがわれる、そして私は日本人としての戸籍を持って居たのです、しかし。ブラジルで土地購入の際に一時外国人が取得できない時期がありまして日本人の国籍を耗出してブラジル人になったのです、いまでも日本語の文章はすぐに理解できポルトガル語は日本語に訳して理解するのです、それほど日本語は身にしみているのです。つぎの顔はウチナ人で証明書もなく言語はあるけど文字が鳴く日本語にくっつておりますけど。年と共に最も心に残るのがウチナ-人の顔です。生まれた時から祖父母や叔母と一緒にウチナグチで会話していたので最も身近に感じていた家には祖先を祭る仏壇があり、一日と十五日にはお茶を供えて家族の健康を願うのでした。年と共に沖縄の祖先崇拝が経典もなく別の宗教と比べて偶像信仰のようにも思われましたが、良く考えると日本の神社も祖先が祭られて多くの国民が祈願するのです。自分の現存するのも元は祖先があるからで、自分の才能や技能も祖先から受け継いだもので、しからば祖先に現在の幸せを感謝して子孫を見守ってほしいと願うのも良いことだと思うのです、祖先を通して親戚が広い大陸で絆を持ち合わせて繁栄を願うのもよいことだと思うのですこの沖縄独特の言葉もブラジルで古い二世まではうけつがれていますけど,消えるかも知れません、ウチナグチは人の感情を表現した言葉がたくさんあります、またブラジルのように心と心臓もごっちゃでチムクククルと区別がなく、人の情を大切にしているように思われる、なかでもチムを使った感動詞は20ほどある。なおウチナーグチは少数民族の言葉としてUNESCOにも登録されているようですのでブラジルのウチナ民族の次の世代までも残したいですね.

2011年6月24日金曜日

移民二話 あの人に会いたい

僕が移住した1951年頃はカンバラの街には沖縄県人の四,五十代の戸主が30名ほど住んでいて活気にあふれていた。今は総べてあ
の世の人となった。その内の国吉真次は亦会いたい人なのです。真次は屋号『坂迎』サカンヶー坂を前にして家が建ってい
たのも,その屋号の言われである。彼はその家の四男として生まれた。父が働き者で一代で村一番の地主となった。朝早くから夜の暗くなるまで働くので村の評判にもなった、しかもあの頃は那覇の町とは4キロしか離れていて、若い男は那覇の遊郭に遊びに行くのが男としてのたしなみであった。遊郭はチ-ジと読ばれ薩摩に戦領されて後も尚繁盛して、1500人程の遊女を抱えていたと言われていた、薩摩のひどい税金の取立でと家族が病にでもなったら、女子を8歳の頃から貧しい農家は遊郭に売りに出したと伝えられていた。、遊郭には母親代わりの女子の世話をするアンマー主がおって、みっちり芸を仕込んだようだ。遊郭は日本から来る官史を接待いたり、商売の駆け引きなど、お祝の披露なども行なわれた。それに チ-ジに約十数家所のアンマーが軒を連ねて10人以上の遊女を抱えていた,ひいきのお客さんが東南アジャなどから持ち帰ってきた珍しい食べ物や、日本のお客さんなどの」漬け物などが常に用意されていて、お客さんの酒のつまみに出されたようで、那覇から村に帰った男たちは、村にない珍しい食べ物のある事を語り合うので男達の遊び心を沸きたてるのでした。夜にもなると遊郭を挟んだ通りは三味線の音と沖縄独特の唄が聞え、ある家からは遊女の笑い声が聞えて男を誘惑するのでした。貧しい沖縄の人々にとって男の羨望の場所だったようだ。。真次の父はそのような場所にも出入りせず、黙々と貯蓄して村一番にのし上がったようだ。子供のしつけは厳しく特に金銭面は正しく、人の恩は忘れてはならないと言われていた。真次が18歳にもなると隣村の親戚の娘マツ子さんを嫁に迎えた。そんな訳で遊郭での遊びも経験がなくて結婚した。。多分父が厳しいので一人前になっても小遣いをやらなかった。その代わり夫婦は朝早くおきて薩摩芋を掘り起こし、よい薩摩芋をせり分けて那覇に売りに持っていき、稼いだお金の20%はマツさんに渡すのでした。長女と次女が生まれても自分で自由に出来る金は渡されづ、子育てに不自由を感じたらしい。何時になっても独立出来る目当てがなくブラジルへ移民を申しこんだ。外国で働きお金を貯めて父ほどの土地を買うのが望みだった。二人の子を連れての外国での働きは手間ばかりと父母に預けて長男をつれてう移住した。ブラシルには先輩で一族の牛さんが8年前に移住して土地をもっていて、牛さんが引受人になって相談がまとまり、1933年の3月の末にカンバラの牛さんの土地にたどりついた。早速自家用にと二羽の庭鳥と二匹の豚をプレゼンとされて前途を祝ってくれた。
家はパルミツト造りの小屋をあてがわれた。夜になると星も見えて残した二人の子のことを思って涙があふれた。
2ヵ年牛さんで働いたあと沖縄から持ってきた資金と牛さんから残りを借りて6アルヶ-ルのブラシル人の土地を買う事が出来た。。
長男は日本にも国籍があるにも拘らず、ブラシルの国籍も取り入れた。すぐに次男が生まれて、長男が子守りをするようになった、それでも夫婦で働かねばならず,洗濯用のバシャーを持って畑に出た。幼い子を寝かせて共に働いた。子供があまり泣くので行ってみると蟻にかみつかれていた。其の後はおんぶしてエンシャーダを引いた。土地が余にも細長く不便を感じて売り代えた。新しい土地は学校には遠いけど土地は作物がよくで来た。新しい土地には一アルヶ-ルのパ-ストを柵で囲い牧草が良く伸びて、多くの豚を放し飼いで育てた 。4人ものカマラーダをいつも使っていた.マツさんが豚肉を盛り込んだ豊かな食事を整えるので、使用人は何年もいついた、時間外にもマンジョカを掘つたり。薪を割ったり手伝ってくれた。一人者達の使用人には良くしてくれるマツさんを母のように慕った。彼らはマツさんにドナ、マリャと呼ぶようになった。子供達は隣の子供達も混じえて遊び、昼頃には日本のてんぷらをマツさんは区別なく皆にあたえた。真次は区別ない子達の教育が不安でならなかった。いつも頭の中には日本へ帰った時も困らない日本語の教育がしたかった。
子達が日本語よりもポルトガルになついていくのに苛立ちを感じた、もともと日本人魂を植え付けられた真次はブラジル人の品格は受け入れがたかった。頭には日本人は一等国民でブラジルは後進国との観念があった。真次は何事にもけじめをつけたがるので妻の振る舞いに顔を赤くして、短気を起こす事が良くあった。真次の気性が正しさを求める故か、よく同県人と口論した。それでもよく後輩移民を
世話した。自分の弟夫婦も呼び寄せ、土地の世話や子供が学校に行くため預かって世話した。マツさんは自分の3人の子と甥の3人と6人の子を学校や洗濯等の世話で、てんてこ舞でした。それい外にも100頭近くの豚の餌を与えたりで忙しかった
戦争にもなるとブラジルは日本の敵国となりキンタクルナと呼ばれ、日本人学校生徒をいじめた。真次も日本への思いは断ち切れず沖縄が激戦地となったのを、残した子と母の事とが気になって、眠れぬ日が続いた、幸い長女は日本からの最後の移民として甥と共に移住してきた。次女は真次の母一人だけ残すのがいたたまらず沖縄に残る事にした。戦争も終わり真次は沖縄に帰るのを諦め二人の男を大学に学ばす決心をした
敗戦の沖縄へ慰問品を送る事も始めた。戦後まもなく沖縄訪問して沖縄の親族から一番食糧に困った時、慰問品を受け取った事を親戚が喜んで御礼をのべた、その頃沖縄はまだ敗戦から立ち直っていなかった、沖縄にはもどれなかったけど錦をかざって故郷に帰ったような思いがした。沖縄の親戚はブラジルの気候を聞き,無肥料でなんでも作物が出来るのに羨望を感じて、ある人は自分の長男も移住再開したらよこすからお願いしますと頭をさげた、世話好きの真次はもちろん肯定した。真次自身が本当に人種差別もなく、気候も良く移住してよかったと思うからでした、それでも沖縄の慣わしは捨てがたく夜になると三味線をとりだして沖縄民謡を歌うのが常でした、亦大学に学ぶ子達から観ればブラジルの観念からはずれた、点があっても父を尊敬して相容れた、移民再開と共に安儀なる青年が真次のもとへ移住してきた。安儀は戦争で父をなくした後、中学卒業後一家の後を継ぎ農業をした、。若いときから家長として村の共同作業に参加して、大人達の村の昔話しや、沖縄の伝説なども聞かされ、よく話し好きな青年でした、安儀の母は真次の従姉妹で真次の娘と結婚出来れば良いがと思っていた、真次もその事をうすうす感じていたので、娘が婚約中の男性と早く結婚させたかった、娘はブラジルの中学卒で気品と美しさを備えていた。安偽はとても及ばない相手だと悟った。そのようないきさつを娘の婚約者の信吾は安偽の男らしさが気にいって、自分の妹を安儀に紹介した、新移民で資産のない移民に妹を託すには兄としても強い決断が必要だった。安儀を頼りに3家族の一族が移住してきた。其の後戦後移住者だけで奥地に原始林を購入して開拓に、カンバラの町を出て行った、二人の息子は大学卒業して歯医者として開業した。農業は自分までときめて、其の後土地は借地に出して、長男家族と悠然たる生活を送る事ができた、金婚式は10人の孫にかこまれておこなわれた。

家族の絆

  家族の絆
N H k のテレビヲ観て日本の大都会でアパートに一人暮らしの 老人が誰とも交際もなく家族との絆のきれた人の多いことに驚いた、豊かな生活で便利な世の中で家族の絆が失われた社会に、哀れを感ずるのです。その様な老人も日本経済成長、華やかな時に地方から大都会に移り住み、両親の承諾なしに結婚して仕事に終われて地方の家族との連絡もなく、夫婦のどちらかにも先立たれて一人ぽっちになった人です。とくに体の自由もきかない人は、電話で食事を取り寄せて、部屋いっぱい塵でうまり、管理人が部屋を訪ねると二三日前に亡くなっていたことを知る様になる、引き取り人もなく、無縁者として葬られるのです、余にも発展した社会の人として,あってはならない家族の絆が失われているように思われる、
その点沖縄人はまだまだ家族の絆は守られていると感ずる。もともと以前は、沖縄は日本で最も貧しい県で家族構成の多いので有名でした、朝食は大きい鍋にたくさんの芋を炊き、お膳に盛り家族全員囲んで、皮をむいて味噌しるで喉の詰まりを流すのが常食でした、それでも一家は祖父母から孫までが円満でした、祭日になると仏壇に供えるご飯や餅や豚肉や魚で家族は腹いっぱい食べるので、待ちどうしいほどでした。畑が少なく次男以下は日本か海外に出稼ぎにでるのが慣わしでした。出稼ぎにでても古里の親兄弟が忘れられず、正月やお盆に帰るのが待ちどうしく、歯を食いしばってお金を貯ええて持ち帰り。親兄弟の喜ばすのでした、帰ると祖母はたくさんの芋てんぷらを揚げて親類や近所の人も加わり、地酒で賑わって、祖父母のわが子の手柄を称えるのでした。
沖縄人には仏教は浸透していないけど、どこの家にも祖先を祭った仏壇があり、先祖の亡くなられた人々の位牌が置かれている、家族や一門はお正月やお盆にはお参りに来て、家族の大切さを身につけるのです、これが家族の絆として古里を離れても
自分の後ろには家族が控えていて悪い事でもしたら、家族全部の恥だとしていつも肝に銘じてるのです、ブラジルにおける沖縄人も同様で大家族がおおく、親子三代ひとつ屋根に住んでいるのが多いのです。
私の家族にも次のようなことがありました。わたしの家族も大家族ですけど
総てが思ったよりも容易く、国立大学に入学したのです、7番の女の子が大学入学してまもなく大変な事が起こっていたのです、上の娘の夫が突然田舎の町の我が家に現われた。何の用かもわからず、母や妻は涙を流していた。まず母がきりだした、わたしが二十歳のとき出稼ぎにいって、お前を身ごもった、おんなじことが七女にも起こったのです、学生でありながら恋愛して身ごもってしまった、母はきっと娘は死にたい思いでいるからいって抱きしめてやりなさい、と言ったのです、
自分のあの頃を思い浮かべての事でした。。私は早速娘に会いに行きました
彼女を抱きしめた時、彼女は声を出して泣きました。私は言いました、心配するな神からの思し召しだ、皆で育てるから後で皆で振る舞を考えよう。と別れた
娘も安心したようでした、不安で食事も通らないと体にも悪く生まれる子にも悪い、と」先ず親子とも健康で良い子を産んでほしいと願った。先ずどのような男なのか知りたかった。知りえたのは彼も医か学生で親の仕送りで学校に通うっているとのことで、まず結婚は無理で、たとえ結婚したとしても幸せになれない、先ず良い道は結婚して離婚する事、生まれる子に父を認知してもらうことでした、私の孫が父の知らない孫であってはならないようにしたのです。私自身が父なし子として育ち運動会や卒業式にいつも一人でいたから、家族の大事さを感じていたので、孫にはその様な思いはさせたくなかった。孫は健康に生まれて、我が家で育てることにした、娘も嫌な思いも忘れて、子育てに一生懸命でした、私も孫の顔が見たく、仕事から早く帰るのが待ちどうしかった。このように私の母や夫婦や姉妹によって暖かく育てられた。娘もCaixa economica federalに就職して、隣街の大學に入学して、子育てと仕事と夜学と三つの仕事を20歳の若さでこなし、法科の過程を卒業して労働裁判所で働く事ができた。親として不憫でならない、けど娘は案外平気でいる、大家族であったのが皆出て行ってその娘だけが親と一緒に住んでいるけど。わたし夫婦も年ですし、私達のために神が与えた道なのかと思うのです。その孫も今年大學卒業して職についてる、自分の孫ながら誰よりも優れた人間性を持った男なので卒業式にはその父親にも会って話す機会があった。はじめのショックを受けた時にはその父親を恨んだりもしたけど、彼も立派な人物で、学生時代経済的にも支援していつも電話で話し合い親子の絆を保っている。つい最近には父の両親にも会い、孫は母方と父方家族との絆で守られ、母違いの二人の妹もおり、あれ程不憫に思われた孫が誰よりも愛されるようになったのも家族の絆の賜物だと思うのです
2010年4月24日国吉真一

2011年6月8日水曜日

 大陸

 大陸
日本列島の南の島沖縄は日本でも小さい島で、第二次大戦で焼き払われ戦後アメリカの支援のもとに復興をめざしていた、上原安雄は日本から引き上げて、母は生まれ育った家を引き継ぎ、その家で農業で生計を経てていた。安雄の上に二人の兄がおり、下に妹がいて。母一人の働きで生活していた、安雄は友達もみな貧しいので苦にはならなかった、高校一年になった時、ブラジル大陸に住む叔母から手紙がとどいていた、手紙にはブラジルは果物が豊富で作物は肥料も入れずになんでもよく出来て気候も沖縄と変わらないとあった。家族の写真もそえてあった、叔母家族は安雄が七つのとき、今安雄が住んでいる母の実家に住んでいて、親子三人ブラジルに永住した、その家に安雄の家族が住む事になった、安雄は自分の家族が貧しいのと沖縄の現状を比較して、なんて貧しい島なんだろうと思うようになった。それ以外にもアメリカに占領されて自由がなかった、高校を卒業しても軍作業以外に仕事がなく、学生時代からアメリカの軍用地立ち退き運動に参加する学生は共産主義者だとしてのレッテルが貼られて仕事にありつけないとの噂が広がっていた、現に安雄も運動に参加していたので卒業後の不安があった。学生生活は楽しかった特に安雄は背が高く運動家で、丁度、その頃、風と共に去るのアメリカ映画がロングインして男の主人公が体格といい安雄に似ていると、女生徒からもてはやされていた、ある日ブラジルの叔母から一通の手紙と従兄弟の信吾兄さんの結婚写真が送られてきた、貧しい沖縄ではみられない、素晴らしい結婚写真だった。信吾兄さんは高校三年のとき中退してブラジルへ移住したのでした。安雄はブラジル大陸で暮らしたいと思うようになっていた、丁度その頃もう一人の叔母家族がブラジルへ移住する事になった。安雄は自分一人でも叔母家族と一緒に移住したいと思い、その事を母に相談した、母は安雄が家族と別れて外国にやるのは乗り気ではなかった。それでも、もし成功すれば残りの家族も行けると思い承諾した。そのことを友達に伝えた、友達は外国に移住することを羨ましくもあり。苦労するだろうと哀れみにも思った、女子同級生は憬れていた安雄がブラジルへ移住の話しを聞いて騒ぎ出した、安雄に好意をもっていた正子は安雄に近づいて話しかけた、安雄さんブラジルへ行くって本当ですか。。安雄はこんな沖縄の小さい島にいても将来」が見えないんだ。と答えた、すると、正子は私の叔父さんもブラジルに戦前移住してカンピーナス市の郊外に住んでいるんです、何かトマトを栽培しているとの手紙がこの前来ました、私も外国に移住したいからブラジルで会いましょうね。 その翌年学期の終了前の二月に神戸向けに沖縄の那覇港を離れた、家族との別れるのは辛いけど、大陸に夢があり、古里の島に未練はなかった。神戸に着くと移民収容所で4日間滞在してブラジルの事情やポルトガル語の会話を習得した。ついでに別れて暮らしていた父にも会った、育てていない父なので悲しい気持ちは湧かなかった、。35日の旅を終えてサントスの港に接岸されて、多くの同船者と友達になっていたので、別れもつらいけどお互いの前途を願って下船して別れた。ドックには従兄弟の信吾兄さんが迎えに来ていた、写真で見たよりも色がやけて瘠せていた。長い船旅でお疲れでしょうどねぎらってくれた。早速入国手続きを済ませてパラナへの汽車に乗った。翌朝,信吾の農地に着いた。安雄は自分の想像していたのと異なりがっかりした、沖縄では各家庭に電気があった、ここはランプで明かりかともされた、
安雄の想像では信吾は労働者を使い優雅に暮らしていると思った、実際には信吾が先頭に三人の労働者をは使って一緒に働いていた、
隣の土地も買って借金していた。一緒に来たm松田叔母家族は持ってきた資金と信吾の保証で土地を買い地主となった。安雄は翌日から一緒に畑に出た、草取りをしながらも沖縄におれば学校で楽しくしていたのに、自分の夢が甘かったのに悔し涙がでた。もう来てしまったんだ、頑張らねばと自分に語った、。案外日曜は仕事は休みなので信吾兄の馬に乗ってあちこち散歩した。馬にのっている時はアメリカ映画を思い出していい気持ちになった、ある大農場まで行くことにした、道の両側に椰子の木が植えてあり、200メ-トル位行くと多くのレンガ屋が並び労働者の住宅のようで、その上の方にはレンガを敷き詰めた広いテレーロがあり、中央には立て横にレールが強いてあった、そのレールは下の大きな倉庫の屋根の中に繋がっていた、前に進むとプリマヴエラの花に覆われた正門に出会った、安雄は船旅で覚えたポルトガル語であいさつをした。
。なんとか手まねで日本から来てまもなけど、農場が見たいと言った、すると馬に乗った若い女性が現われた。会話のやりとりを聞いて後からついて来いと手招きした。女は農場主の豪華な邸宅をまわり、そこにはテニスコートがあり、プールもあって石が敷き詰められていた。そこをぬけると黒い実のなる木やマンゴが植えられて大木になっていた、ぬけていくと大きな人工池の前に出た、。
、池の辺には桑の木が植えてあり実が塾すると池に落ちるのが魚の餌になっていて、あちこちで魚の跳ねる音がして、輪をなして静かな池にひろがっていった、ぼんやりと池をみつめていると安雄に、女は声を掛けて前へ進もうと手招きした。始に来た道にきて正門で別れを告げた、指を七つ出して次の日曜にも来るようにと話している事を察した。帰りの中でこんな大きなブラジルの農場にびっくりした。古い移民は皆ファゼンダで働いたとは、あの様な大農場だったのだのだ、従兄弟の農場も沖縄に比べたら非常に大きい。その何十倍もファゼンダは大きく、まるで風と共に出てくる大地のようだと安雄は思った、やっと外国に来た感がした。次の日曜が待ちどうしくて働くのも苦にはならなかった。信吾兄さんにその話しをすりと多分支配人の娘だろうと語った、でも用心しさいよ、ブラジル人女性は浮気ものだとの話しだからとだけ言った。、この大農場には昔日本移民がおって、其の後パラナの奥地に自分の土地原始林を買って今は地主になったのだと信吾兄さんは話してくれた。戦後も日本人移民も受け入れていて低地は日本移民が米を作っていた、この前と同じ時間頃農場を訪れると彼女は馬上にまたがり待っていた、ポルトガル語でこんにちはと挨拶して彼女が走ろうと手招きした。そして彼女は走り出した、果てしないコーヒー園を4キロも言った所に駅があった、駅を乗り越えると、また果てしない砂糖キビ畑になり原始林の山を過ぎると遠い所に煙突から煙がでていた。安雄はどこまで来たのか方向が解らなくなっていた。帰ろうとしても安雄には帰る道もわからず彼女のあとに従うほかなかった。彼女はそれでも前へ進み、とうとう製糖工場まで来てしまった。工場内に入るとが彼女の知り合いらしい人がきて工場内を案内してくれた。煙や湯気の中を多くの歯車が音をたてて回転していた,お腹がすいたのので砂糖きびをひろい沖縄のように歯でむいてかじった。それを見た彼女の知り合いの男は二人を職員休憩室に案内してくれた、室にはランチが用意されていて、彼女もコ‐ヒーとランチを食べた。安雄は時計をみると3時をすぎていて時間のたつのが早く感じられて、彼女に時計をさしてうながした帰りは馬を走らせて家に着いた時には5時を過ぎていた。信吾の妻、明子は馬から落ちて怪我でもしたのではないかと心配していた。信吾は落ちたなら馬だけでも帰ってくるはずだと、妻に言い聞かせて安心させていた、安雄は製糖工場まで行ったことを語った。信吾はまだ製糖工場に行った事のないことを語り。沖縄と比較して規模の大きさ,砂糖きび農場が沖縄全体と匹敵する面積だと農業の規模が比較できないと語った。
6月になると24日にはファゼンダで日本移民主催のサアン、ジュアン祭りが行われる事になっていた.かンバラ日系人が集まることになった。安雄も信吾兄と一緒に行った、信吾兄さんが一人の女性を、妻明子の妹君子と紹介してくれた。信吾は別れて別の青年と話していて、安雄は君子と二人になったので君子に話し掛けた。貴女は日本語がうまいですね、日本人と変わらないよと言った、君子は答えた、田舎に住んでいる時に植民地の日本学校で学んだ、母が小学館を取ってくれたのでいつも読んでいた。今もノルマ‐ル学校行く傍ら日本学校にも通っていると話してくれた、続けて君子は話しかけた、この大農場にいたマリーナさんはサンヂエゴへ留学しにアメリカへ行ったのよ安雄さん知っているでしょう。安雄は誰なのマリ‐ナはと聞いた、君子は貴方と一緒に馬で製糖工場に行ったあの女よ、彼女は私と一緒に学校に行っていたの、でも彼女は多くの男学生と交際して、お父さんが留学させたの。でも向こうでも何を仕出かすかわからないのよ、安雄さんは日本に好きな人いたんでしょう、特別に好きな女性はいなかったよ、友達はたくさんいたけどと安雄は答えた。そして君子は自分の家庭を語った
。話しによると、年は15歳で自分より3歳年下とわかった、将来先生になると語ってくれた。そして信吾兄さんと結婚した明子姉さんの事を話してくれた、信吾兄さんと姉は従姉妹で私の母は信吾兄さんの父の妹で、母は結婚して姉と私と弟を残して父は事故で亡くなった、それで母は明子は勉強中でしたが、やめて父の仕事のあとを継いだのです、一つの土地は整理して信吾兄さんに売り残りの半分の土地の3000本のコ‐ヒはブラジル人にまかせ、残りは親子で経営していた、明子は家事を受け持ち母は使用人と一緒に畑仕事に出た、たまに信吾兄さんも手伝いに来てくれた、亦日曜には薪を割りに信吾兄さん来てくれた、このような信吾さんに明子はほのかな愛を感じていた。でも従兄妹どうしは禁じられた愛であることは解っていた。よく母の家に遊びにきた、理由は母が主婦の友を取っていたので,借りたのを返しに来ると母といつまでも話しに夢中になっていた。食事の支度をしていた明子は信吾と話しがしたくてならないのに母に奪われてしゃくに障っていた。何とか話す機会がないかとつい会話の中に入った、ねー信吾さん、ポルトガル語勉強しないかと誘った、私が教えてあげるからと言った、信吾は大喜びでポルトガル語が不自由を感じていると言った。じゃ夕食後家にきてと約束した、その晩から早速明子の家に行った、先ずその頃レヴィスタの写真つき会話のあるドラマを読まされた、それを日本語で語って聞かせた、明子は日本語も上手に話せた、信吾は貴女は日本語の先生にもなれると褒めた。ずうっと学校辞めずに勉強したら良かったのにと信吾は言ったら、でも信吾さんも学校止めてブラジルに来たんでしょう、でも僕は大陸の外国に憬れていたんだ、沖縄は小さい島で人口が多すぎる、それで貴方の父もブラジルへ移住したんだ。
会話中も明子はじいと信吾を見つめていた。目と目が会うと明子はにっこり笑った、笑いの顔には澄んだ目と日本人女性特有の優しさがあった、信吾も明子に何かを感じていた、でも明子は僕の従姉妹なのだ、小さいとき一緒に育たなくて親戚の感じがなかったのが、しずかな愛を膨らませていた,でもあってはならないとは知りつつも燃えるばかりだった。ある時借りた本を返す時明子の手が僕の手の上に触れた、その動作がわざとのようでもあり、彼女が信吾を見つめて抱きついてきた。信吾も望んでいたとはいえ狼狽した、二人とも初めての抱擁と口づけをした。残りの家族は眠りについていた、二人は夜の一時になり信吾は別れを惜しんで帰った、寝床についても眠れなかった。翌日明子は母に信吾さんを愛している事を告げた、母は自分が財産もない貴女のお父さんと結婚して苦労しているので財産のある二世と結婚するのを望んでいたと語った。あの頃は皆男は一世ばかりで皆財産はなかった、いまは土地をもった家がたくさんおり二世はあまり働かなくても生活は豊かだからね。お母さんは私に楽をさせたいのね、でも二世はのん気で希望をもっていないの、信吾さんは世界の事何でも知っている、頭がよくポルトガル語を覚えるのも早いの、大農場主になる希望をもっている。お母さんは私たちが従姉妹である事に世間態を心配していると思った。と明子はいった、でも沖縄では従姉妹同士の結婚はよくあることだと言った、其れは嫁さんがいつも付き合っている家だと馴染みやすいから嫁さんの苦労が少ないからと言った。それではお母さんは私達の結婚は反対ではないんだね、ありがとうお母さん。でもお爺さんと信吾のお母さんが承諾したらですよ、結婚についておじいさんは反対した、世間態がわるい。信吾はまだ来てまもなく、どうも頭が良いので田舎に住み着くとは限らない結婚したら大都会に行くかも知れないよ、結婚するんでしたら今から別れて独立して自分で生活しなさいと2年めに別れて小さな5アルヶ‐ルの別の土地に住むようになった。それ以外にもおじいさんが信吾家族を呼び寄せたのは信吾の父が少年の頃沖縄に残してブラジルに移住していて、育てないのでその償いを戦争で苦しんでいる孫の信吾のめんどうを見てあげたいとの思いがあった。だけど祖父母は昔の沖縄のしきたりをそのまま残しもっていた。亦信吾は戦後の民主主義の教育を受けて自由に発言して対立していた。そような、理由を君子は安雄に話した、ブラジルにきて四年目に信吾と明子は結婚式をあげた。明子は信吾が日本におれば先生になれたのにブラッジルで農業するなんて可哀相だと言ったら、ブラジルに来たから素晴らしい貴女と結婚出来たのだよ、明子は立派な男性信吾に愛されてこんな幸せはないと言った、安雄が見た美しい結婚写真は明子の父の一部分の土地と祖母の土地を買って苦労していたんだと安雄はさとった。でもブラジルはインフレーがひどく土地も毎年上がり信吾兄さんの先見と努力に感心していた、結婚後も信吾は明子の母の土地も監督するようになり。明子の母は残り二人を学校に通わせながら縫い物をして町に住むようになった、日曜に、なると安雄は良く町に出た、もちろん君子と会うためだ、年もまだ若いので信吾は安雄が失恋でもすると日本に帰るのではないかと心配だった、ある日町に用のついでに明子の母に安雄と君子の愛について語り合った、母は別に心配はない、若いから、たとえ結婚しなくとも良き思い出になるし、愛は人を成長させてくれるので年を取った時に良い思い出になると語られた、成る程と思った
信吾は君子が先生になるなら街で生活するので町の仕事を覚えたほうが良いので、安雄に町の仕事を見習いなさいと進めた。クリチーバの町で写真を見習う事になった。二人は離れた後も手紙をやり取りしていた。二人の愛情はふくらかに結びつつあった。二ヵ年後カンバラの町で写真屋を開業する事になった。仕事も起動にのり君子も先生の職についたので日系人に祝福されて結婚した、信吾兄さんの結婚写真を見てから10年の年月が流れていた、信吾兄さんは4人の女の子が生まれていた、明子は子育てにおわれた。信吾兄さんは亦土地を買い仕事に一生懸命だった、安雄は家庭をもって憬れた大地に根を下ろすのだと家庭をもった喜びを味わった。、
     2009年  12月 4日   国吉真一





本命 国吉 真一
生年月日 1,932 年12月 2日
住所cambara rua otavio bernadeli 948
   parana

2011年6月6日月曜日

寿命

寿命
世界的に人間の寿命が延びている。有り難い事ですけど。社会の負担が増えるのは当然です。結婚した頃二十代で六十代まで働き定年「アポゼント」するまで四十年長い年月と思っていた。
私が糖尿病を患っているのを知ったのが四十代で後二十年は働かねば成らないので体を維持せねばと思っていた、六十代になったら
アポゼントしても良いと思った.ところが人間の平均寿命も七十五歳になっていた。私達の寿命は家系にもより、遺伝的な宿命もあるようだ、自分の家系をみると、母方の姉妹は四人とも八十八歳まで長生きした、父方は祖父が癌の病気故六十で他界した、自分がアポゼンタしたら、誰かが養ってくれている結果で社会は成り立っていると思うようになった。
結局自分で決めた老後をどう生きるか変更せねば。社会の負担が働く人にのしかかると僕は思っている。亦働く事が寿命も延びて、生き甲斐も生まれる相互扶助の役割を果たしていると思う、
現在自分は八十代で周りの知人は殆ど他界している。体格の良い病気を持たない人でも、もう此の世にいないから神が与えた寿命のように思われる。それとも体が丈夫でなく、医者通いするのが健康維持しているともいえる。現在では百歳まで生きるのも不可能でなないようだ。
百歳まで生きるとしたら、僕が八十代でまだ二十年生きねば成らなくなる、僕は大腸を手術して十センチほど短い、大腸は体の重要な働きで、体に必要な養分を作り出す機能を果たしている、アレルギ―を抑えたり、糖尿病を抑えたり、体の水分を維持したり、体の需要な役割のようだ、糖尿病が腎臓にタンパク質が消化されず負担をかけているのも専門医者が説明してくれた
体の健康についてはテレビや本などからある程度、理解できた
体の健康は維持できたとしても、老人に付きまとうボケはどのように防ぐか考えてみた、記憶力を増す意味で仕事上、支出収入を記憶して無駄を省く、頭を働かせる。本を読んだりして想像の世界を
広げる、近頃想像したのが次のようだ
私達は人魚の話を本などでみている、しかも確実に上体は女性である、実際に実物はありえない話だ、生物の世界はオスとメスからできている、メスの人魚がおればオスの人魚も当然実在しなければ生命はなりたたない。頭に或る記憶では、この世界に生命が現れたのが、暖かい海からだと言われている、先ず単一生命が発生して進化を遂げてオスとメスの機能をもった生物が生存して植物と動物に進化したと考えられる
その中間の生物もいまだい生存している、どうしてメスの人魚がうまれたのか想像すりと、男性が創り上げたと考える、現在だと作者の著作権などに触れたけど、ただ男性は波が打ち寄せる海辺に或る石を見て想像したのではないかと僕も想像する。人間も進化を遂げた生物でたまに進化の逆もドリして、自分がオスかメスはっきりせずメスを入れて生まれ変わったり、同性結婚したり、するのが出てくる

遺伝と進化を考えた時;現在の若い世代が四五歳のときからパソコンなどから学ぶ豊富な知識が遺伝に繋がると、人間を取り巻く環境は変化している、遺伝にも変化が現れ、優れた才能を持った人物が現れると想像する。現に将棋の世界では天才が出現している

2011年5月9日月曜日

夫婦船 - みーとぶね

しき    は
世界や果てなしぬ 
ふなじたびぐくる
船路旅心
みーと    ふか
夫婦やか外や 
たよ
頼りならん
かな みーとぶね
愛し夫婦船

うとう  ふばじら
夫や 帆柱に 
とうじ  ふなぐくる
妻や 船心

いちゃる   なみかじ
如何なる波風ん 
とむ
友どやゆる
かな みーとぶね
愛し夫婦船


ふに   ふばじら
船と 帆柱や 
うきよかじ
浮世風まかし
ごくらく みなと
極楽ぬ港
ち      ま
着ちゅる間や

かな みーとぶね
愛し夫婦船

たげ    ちもあ
互いに肝合わち 
ひし みーとぶね
走り夫婦船
とち  く
時ぬ来るまでぃや 
漕がねなさみ
かな みーとぶね
愛し夫婦船


たゆ     だる
頼るなよ誰ん 
みーと
夫婦かながなとぅ
ひび   く    かた
日々ぬ暮らし方
わら  ふく
笑い福い
かな みーとぶね
愛し夫婦船


tradução para o português
(prof Maria Tomimatsu - UEL)


Navegando a Dois
O mundo é como um coração de um viajante
Navegando pelos mares sem fim.
Com quem iria contar,
Senão con seu parceiro, Nave Amada.
O marido, o mastro; a esposa, a própria nave.
Bravas ondas, violentos ventos.
Sempre unido em piores momentos, Nave Amada.
À deriva do vento deste mundo flutuante,
Fica a nave como mastro,
Até que aporte no porto do paraíso, Nave Amada.
Deslize, pois nave casal,
Afinando seus corações,
Reme, pois, até que chegue a sua hora, Nave Amada.
Viva emharmonia o seu cotidiano
Aos sorrisos, felizes,
Pois não há ninguém mais
Com quem contar, Nave Amada.


Canção originária de Okinawa, arquipélago do sul do Japão.





ま え が き

 今年結婚五十年を迎える。子供達が祝う事を企てているようです。 私としてはもっと大切な、何時までも残るようなのはないかと思い、つい自分が書き残したのを本にすることにした。本なら自分の代々の子孫が自分の先祖はどこから来て、どんな事をして、どんな事を考えていたのだろうかと思い、そのルーツを辿るのに役立つのではないかと思っています。それには日本語を知り、日本の文化にもふれて理解できるようになる事を願っている。
 まず、私はほんとに幸せ者です。第一に自分で惚れた女性、千代と結婚できたこと、そして九人の子が身体何不足なく生まれ立派に成長したこと。ただ、六女の美幸だけが不幸にも亡くなりましたが、それ以外は良き職業人として働いていることが、父として頼もしく思い、十人の孫も年上が大学を卒業し、次々と国立大学に入学しておりますので、長生きして見守りたい。それに私達夫婦をとりまく、叔母様方や義兄弟、多くの従兄弟達と私達夫婦との人間関係は素晴らしく、みな善い人たちなのです。人間の幸せは、自分を取り巻く人間関係によって生まれるような気がするのです。
 私は日本の沖縄の北部、宜野座村、惣慶村に、家は母の実家で屋号は前漢那小で生まれた。母は次女でウシ名で、小学生の頃は優等生だったようです。 出稼ぎに大阪に行き父と知り合い、私が生まれた。私は母の実家で育ち、小学校から高校まで宜野座で暮らした。
 1951年12月の初めに呼び寄せで祖父母の住んでいるカンバラ町のチジュコ・プレット植民地に移住した。植民地に着いた頃は多くのバナナが植えてあり、みかんの木もいろいろあり、それ以外にマンゴーやアバカテ、果物の豊富なのには驚きました。豚や馬は牧場に放され、鶏は自然に放され、肥育豚は囲われてトーモロコシとカボチャで養われていた。 豚は自家用の脂や食肉に一頭もつぶされた。こんなに豊かな国に珍しさと驚きでいっぱいでした。
 2年後に祖父母の家庭と分かれて私達親子三人で生活することが出来た。貧しい家で、屋根はパルミットの上に瓦を載せ、床は土で埃がたった。3年後には祖母より500クルゼイロを借り受け、それも2年で返すことが出来た。家も板屋に改築し古い移民と似たような生活が出来た。
 その後、私に好きな人がいる事が知れて叔母を通じて結婚を申し込んだ。彼女には沢山の男性から結婚の申込みがあり、私が一番貧しかった7が、結婚しても良いとの返事をいただき、私は有頂天になった。 夜も昼も彼女のことを思った。
 1956年、クリスマスも間近に結婚式を挙げた。植民地の人々が鶏や豚などを出してお祝いが出来た。1年後には長女が生まれ、その後次々と一年越しに次女、三女、四女と生まれた。私にはこれ以上大学まで教育できかねるので、母にこれ以上子供を生まないことを言った。母は泣いて、苦労して移住したのに家の跡継ぎがないことは移住した甲斐がないと嘆いた。やむをえず又も五女が生まれ、六女、七女、そして八番目に長男が生まれた。母は大喜びで親戚を集めて祝った。そのときは遠く離れた仲田や安義、松田の家族もお祝いに集まってくれた。
 子育てと休む暇もなく仕事に追われ、千代は肺を患った。2ヶ月以上兄英秀の家で療養した。現代のペニシリンのおかげで完全に治った。その間にも隣の新垣叔父の土地を買い、続いて松さんの土地、そして真吉叔父の土地と、全部で28アルケールの土地になった。
 今思うと運が良かったといえる。それと母が子育てから畑仕事まで手助けしてくれたお蔭です。周りの人々、叔母や義兄、従兄弟達のお蔭なんです。
 結婚50年、長いようで短い歳月でした。体力はだんだん衰えますけど、頭だけはしっかりとしたいものです。
 この50年、あっという間に過ぎたようである。 ふるさとを離れてこのブラジルに移住し、この国を愛し、各国の人々の中に沖縄人であることに誇りを持ち、自分の子孫の種を蒔き、この国の土地にしっかりと根を下ろし、繁栄することを願うものである。

私の生い立ち -漢那家-

 私は1951年12月10日にブラジル国へ永住して来た。それにはいろいろな事情があります。国吉家の祖父母が私の父を沖縄に残してブラジルに永住したからです。私の母と父が大阪で深い関係になり、母は私を身ごもり、私は母の実家、漢那家で生まれ育ちました。その頃は実家には叔母の苗さんと安さんがおりまして、母とそして祖母と4人の女性の影響を受けて、愛情こまやかに感受性の高い少年に育っていたようです。 
 私の生まれた漢那家はもともと母のおばあさんが與那原の船道と一家を持ち、私の祖父安貴氏を生み漢那家を名乗るようになり親子で生活し、親戚の子供も預けられて一緒に暮らしたようです。その中には伊芸のおじいさん、仲間源助さんがおります。翁長林亀さんも苗さんが子守りをして漢那家に出入りしたようで、孫の松田源助さん、妹のつるこ、仲田清次も漢那家で生まれ育っております。また苗さんの話では 漢那家に生まれ育った人は皆子宝に恵まれているとのようです。第二次大戦後も松田家、上地家の家族がお世話になりまして、それ故か、従弟同士も兄弟のような感じがするのです。
 私は漢那家の四人姉妹の若い頃を思うと4人ともきれいな娘だったような気がする。 なかでも苗さんは背も高くずば抜けて美人で、その名は金武の青年の方まで伝わり、郵便配達人など漢那ウトーに会えたことを自慢にしていたようです。そのことは昔話に母が語ってくれました。
私の祖父は沖縄が大和世になった時の初めての小学入学生で、日本語に通じた人だったので村の区長や役人を務め、計理に詳しく重要な人のようでした。また、祖母は翁長家の人で、昔王宮に勤めた家で廃藩後、村に移り住んだ侍のようで、昔の習慣に従い士族は士族と結婚したようです。母の話によると、姉のかなさんが百姓の松田冊吉さんと結ばれた時おばあさんは大変嘆き、残りの娘たちに百姓の男と結婚してはいけないと厳しく言われたようです。
 そのような訳で母が大阪に出稼ぎに行ったとき、大阪に住んでいた翁長のナベさんが国吉家の人と結婚していましたので、ナベさんの世話になっている時、たまたま国吉家の私の父が訪ねてきて母と知り合いになったようです。ナベさんの勧めで結婚を約束し私を身ごもり、母は沖縄の実家に帰り私が生まれた。父はまた別の女と仲良くなり約束は果たされなかった。
 5年の年月が過ぎ、父は軍人として勤めている時にケガをして病気になり、死も近くなった時、母は私を連れ看病に駆けつけ最期を看取ったようで、その後初めて私は当名地家の孫として認められ、国吉姓を名乗るようになったようです。

国吉 牛 家族

 私の祖父、牛氏について昔のことを記憶のまま記しておこうと書いております。
 祖父牛は沖縄の南部、東風平村字上田原で、屋号は当銘地家の地名で村でも土地の多い家でいつも雇い人を使っていたようです。それでもあの頃は生活が貧しく、次男の牛さんまで土地を与えることは難しく、外国で稼いで5年くらいで帰り土地を買うのが目的で、沖縄に長男と長女を残してブラジルに移住したのでした。まずモジアナに配耕され、2年後ジャカレジーニョに移りパラナの土を踏むことになる。4年後、自分の土地をアグア・ド・ヴィエイラに求めて地主となる。その後面積を大きくする目的でタクアラに土地を買い移る。その間にツルコ、カメコ、真寛、清子、真吉が生まれ安定した生活が出来るようになった。
 牛さんは無学でしたけど、頭がよく、考えてあらあらの計算は出来た。自分が無学ゆえか自分の土地に学校を建てることを実践した。また同県人の世話もやり、金を貸して土地を買わせた。その後タクアラはマラリヤが多いのでチジュコ・プレットに土地を買い換えた。コーヒーの景気に逢い生活はなお良くなった。
 牛さんの家族構成で来られた甥の真保さんは師範出で頭の良く切れる人でした。沖縄にいても目立つ方だったろうと思いました。ポルトガル語の良く話せる方で、ブラジル中を移り住んだ人でした。働かずにお金を儲けようと考える方でしたので家族は苦労したようです。
 もうひとり祖母の兄弟に国吉アントニオさんがおります。2人の息子ルイスとシルビオがおります。孫、三代になると多くの大学卒業生が出て、祖父の意志は立派に受け継がれていることに孫のひとりとして敬意を表します。

国吉家と独立

 私が国吉家の長男として生まれ、ブラジル国へ呼び寄せられた故に、漢那家の子孫の歴史が変わったのです。まずその後、松田家の家族、冊吉と亀、久雄、正義、藤子、勝子、義彦がブラジルへ移住し、その家族と一緒に上地家の安勝も17歳でこの国にやって来ました。その後仲田家の家族、幸太郎、安さん、昇は先に開発青年で来ていました。その妻光子さん、幸子、幸夫、清次、則夫がおります。その後幸夫は日本で勉強したく10年いて帰り、建築士の資格を取り沖縄で活躍することが出来、自分の運命と歴史を変えたひとりなのです
さて漢那家では上地苗さん家族が住み、安勇は父のもとで工業高校を卒業して、独自で警備会社を設立して、今日では沖縄でもトップに立つ会社に育て上げました。安勇さんは人々の世話もよくやり、信用を得たのが発展に繋がったのだと思います。安昭は大学卒業後、独自で博士号を取り心理学者として教育界で、沖縄でも優れた人物として知られております。このことも漢那家の歴史を変えて運命を開いたと言えるでしょう。
私は苗さんの88歳のお祝いに出席して、新しい家で戦後母が建てた家を思い出し、漢那家の四人姉妹の波乱にとんだ人生を思い浮かべ、孫達が家を出てゆき、社会で奮闘しながら自分の道を開いて行った歴史を思い、私の母の辿った歴史を想うと懐かしさ、はかなさに涙が溢れるのでした。

運 命

このように、多くの人の運命を歴史づけた母もまた自分の人生を運命づけられたひとりなのです。
母は決してブラジル行きを好んで移住したわけではありません。
私の外国行きへの憧れを満たしたい気持ちと、私の将来を父方に託したい気持ちとがあったようです。それ以外にも安さんが仲田家にお嫁に行くことになり、漢那家に苗さん家族を入れて安心させたいとの思いがあったようです。私達親子三人が国吉家に住むようになってほどほどにも気苦しい思いをするとは考えてもみなかったようです。長年自由に育った私達にとって一緒に暮らすことはお互いに不幸になるようで、2年で別れて独立して生活するようになった。2年間の生活で人間関係の難しさ、嫉妬心、見栄が人間関係をより難しくしているようで、精神的苦労や悩みが私という青年を大人にしたようです。沖縄の学生時代が懐かしく、時間があると本を読み何とか忘れることが出来た。
ついに独立して祖父の土地を耕作してコーヒーを育てる代わりにトーモロコシや小豆を作り、私たちの収入となった。少しずつお金が入りその中から前漢那小家の改築にお金を送った事もあった。日系人の中で私達が最も貧しく在りましたが、前途は明るく母が元気で豚も飼い、また野菜も作り、家の前にはコスモスの花を咲かせ、二世から見れば変わった風景のようでした。

結 婚

3年の年月が流れ、ポルトガル語も覚え、少しずつブラジルの事情も解るようになった頃にひとりの女性を愛するようになった。
まだ中学卒業まもなく、家で親の手伝いをしていた。田舎に住んでいる娘とは違って気品があった。それは学校を出たせいか、あまりおしゃべりせず、隠された宝石のようになお一層美しく見えた。私にはとても及ばない女性に見えた。たくさんの男性が結婚を申し込んだ。私も良く彼女の家に遊びに行った。彼女の気持ちも知らず叔母のカメ子さんを通じて結婚を申し込んだ。私は昼も夜も彼女のことを想った。
その頃は私も5アルケール*の土地を買い求めていた。500クルゼイロを2年で払うことが出来、私も古い移民と同様に土地を持つことが出来た。
結婚の話も始めは断られ、初めて失恋の苦い思いを感じた。心の苦しみを忘れるためになお一層本を読み、現在の悩みが人生にとって小さいことのように思われ、新移民の私にとって彼女は高嶺の花のように思われた。彼女の幸せを願うようになった。
突然結婚しても良いとの返事を持ってきた。私は有頂天になった。しかし母は、彼女の姉ふたりに子供がないことを気にしていた。せっかくブラジルまで来て子孫の絶えることは耐えがたいことだといわれたが、好きな人と結婚することが自分にとって幸せであることを母に言い聞かせた。
その後私は毎日のように彼女の家に行った。二人とも話すことは少なく、私が女性と付き合うことに慣れていない故でもあった。それでも会うことは楽しかった。
20001010日 

*編者註 アルケール:1アルケール=2.44ヘクタール

国 吉 真 次

国吉真次氏は私の妻千代の父で、沖縄の上田原村の屋号は新坂迎ミーサカン家小で四男に生まれた。彼の父は村一番の働き者で多くの土地を持っていた。彼は18歳で結婚して夫婦とも働かされた。このままでは何時になっても自分の土地を持つことが出来ないと分家することを思い、ブラジルに移住することを決めた。その頃には二人の女の子と長男が生まれていた。
女の子二人を残して1933年アリゾナ丸で3月の末にカンバラ市のタクアラ植民地内の国吉ウシさんの土地に着いた。
二ヵ年そこで働き、沖縄から持ってきたお金を合わせて6アルケールの土地を買うことが出来た。しかし土地があまりにも長いので売って、アグア・ド・ジャウーに10アルケールの土地を求めた。その後、土地が良く何でもよく出来、コーヒーも見事に実ったその土地を売り、日本人の多いチジュコに移った。
畑仕事は人を使い、長男と次男は大学へ勉強させた。農業は自分だけで結構だと彼は考えた。その間にも弟の真亀や甥の真考、真輔なども後を追ってやってきた。
戦後も多くの新移住者が彼を頼りにやって来た。新城安義やその一族新城安考氏家族、新城安吉、赤嶺家族、それに新城安誠。最後に甥の栄光さんの息子真次がひとりで移住した。その頃は沖縄も日本のバブルに沸いて景気がよかった。日本への出稼ぎが始まった頃である。
真次氏は、農業は自分だけでたくさんだと息子たち、長男の永秀は歯科を卒業しサンパウロで開業し6人の子を大学までやっている。次男の永賢も同じく歯科大学を卒業させている。親子三代まで真次氏の意志を継いだことになる。

母への想い


亡くなった母を思うと自分にとって大きな支えであったことは確かです。自分の体の一部分が削られたような思いがするのです。
母の60代までは私の仕事やあらゆることに意見を述べていた。その意見は日本で得た体験や常識に基づいたもので、ブラジルや新しい時代に沿うものではなく、よく対立していた。私と母はよく口論した。それは何事にも反発する癖で、何事にも参加し私を自由にさせなかった。
小さい時から私は叱られて育ったような気がする。
私が小学生の頃、学生服を着たまま海へ行き、服を脱いで泳いでいる間に満ち潮になり服をさらって行ってしまったので、裸で家に帰った。母は苦心して買った新しい服なので、その時はだいぶ殴られたので覚えておるのです。またある時は母から郵便局に本土への慰問品を送りに使いに行ったとき、途中で遊んでいる子供たちに加わり、お金をなくして送らずに帰った時散々に叱られた。一度は祖父の大事なものを壊し、二階にある米場所に閉じ込めようとして階段を上がる時に私が暴れたので一緒に落ちた。私が六年生の終りの頃、私とあと5人が農林高校へ受験に行き不合格して散々叱られた。でもあの時は私を勇気づけて欲しかった。
そのようによく考えてみるといつも叱られていたように思われるのです。そのことは私にとってよかったのではないかと思っている。
母は若い頃から家長として父母を助け、家計を守り、時には名護の税務署まで行き所得税の交渉をしたこともありました。ある時は沖縄が台風に見舞われ、芋の苗が枯れて中部まで行ったこともありました。また台風のときは茅葺の屋根が心配で隣の男の人に縛ってもらうこともしばしばでした。
そのようなことが家長として気苦労だったと思われるのです。終戦の頃はいち早くヤギを飼い、その頃は家畜も少なく高い値段で売れ、それで新しく瓦葺の屋根に改造することが出来た。 それには戦
争で壊された中部地方の古いかわらを集め、山から源助兄さんとふたりで材木を切り出し使われた。その頃私は15歳でした。

家長としての責任、結婚しても夫婦としての生活を送れなかった母は自分自身にいつも不満を持っていたのではないかと思われるのです。
母は小学生のころ頭もよく優等生でそれが勝ち気にして、家長の役割を演じ、安さんが家事を受け持ち、私に優しい母の思いがあるのでしょう。ブラジルに於いても母は日本の新聞を読み、政治やスポーツにも詳しく、特にフットボール(サッカー)は好きで、選手の名前を殆ど覚えておりました。ドラマは現実でないと初めから否定していました。母は孫たちの面倒もよく見て、オムツを替えたりお風呂に入れたり、下の孫が生まれると一緒に寝るのが常でした。孫の寝つきが悪いと眠れなかったと愚痴をこぼしていました。
母は私と一体になり、畑仕事や家事と忙しい毎日でした。それゆえか亡き後も孫たちは忘れることが出来ないようです。現実としてもう会えない母ですけど、思い出すたびに懐かしい。母は私達一家を引っ張った機関車だったのです。