2018年6月27日水曜日

戦後移住者の植民地


戦後移住者の植民地
悲惨な第二次大戦を生き残り戦後の貧しい生活に苦しんだ、沖縄の人々がブラジル大陸に夢を抱いて1960年台に、パラナ州のカンバラ市に旧移住者を頼って移住してきた、初めは旧移住者の歩合作として働き、植民地は二世や若い戦後移住者で賑わい、日本とブラジルの文化の交流が行われて日本語の先生も戦後移住者を雇い、子供達にとってもよい機会でした、失われた戦争時代の空白が蘇ってきた、戦後移住者にも自分の土地を持ちたいとの機運が高まり、400キロも離れた奥地クルゼイロの手前に約300アルヶールノ原始林を購入した、戦後移住者が十五家族旧移住者八家族で植民地を造り上げた、第一に入植したのが新城安義家族と仲田昇家族で先発隊として六人の男子だけで、汽車に乗り食料と伐採道具と衣類を持ってマリンガ市の終着駅で下りた、その日はホテルに泊り翌日、トラックの荷物の上に載せてもらい夕方現地にたどり着いた、まず仮小屋で一夜を明かし翌日から境界線に沿って道を明けることから始めた、人類未踏の原始林、太古に眠る山に、開拓の斧を入れる事になぜかしら六人は旧移民同様な経験を味わう事に意義を見出した、半キロくらいの所で谷に出会い橋を掛けて上の方で家を建てることにして材木が運ばれ、二家族の住める家を建てた、一容準備が出来たので二人を残して残りは帰ってきた、二人はその後も山きり人を使って土地の半分を開拓して家族を呼び寄せた、その後三年後に殆どが移住してきた、山焼き跡にタピオカ、やサツマイモ、トモロコシを植え、家畜を養う準備をし、陸米も蒔き、食料の準備を整えた、地形の低い方に綿を植え上のほうにコーヒを植えて、三年後の収穫を夢見ていた、幸いにも5キロ離れた所に古い移民が見事なコーヒーを栽培しており教えてもらう事が多かった、移住者の中から初めて犠牲者が出た、切り倒した木の下敷きになり死亡したのです、一家の働き手の主人を失い家族は途方にくれたそれでも皆に励まされ15歳を頭に開拓に挑んだ、初めてのコヒー収穫に大きな望みを託した時に、霜が降りて絶望し、植民地から出て行く家族も出始めた、とかく沖縄県人は年も若く良く働いて、古い移民の評判になった、家族総出で古い移住者のコーヒー、を収穫してブラジル人にも負けない働き方をした資金もなくなり古い移民同様メリケン袋を買って仕事着などこしらえて着た、労働靴を買うかねもなく裸足であるいた年とともに明るいみとうしが見えてきた、6,7年にはブラジル銀行から融資を受ける事も知り、トラックなども持つようになっていた町からコーヒーの殻を運び畑にいれたコーヒーは見事に実った、、子供も生まれ植民地に多くの二世が誕生した、日本で小学生だった子供は5キロ離れた小学校に入学した、中学生だった子は開拓に参加した、それでも家庭では文芸春秋、中央公論や現代、諸君などをとり、知識欲を満たしていた、中学生だった子達も大人向きの本を読み知識欲を満たしていった、生活が楽になると、国吉兄弟は谷底にダムを造り発電機を吸えた新城安義は高大に井戸を掘り住家までパイプを通して水を引きコーヒーの苗や、野菜を栽培し食べきれぬほど出来た、、子供の教育の事も考えて母と子供が町で暮らすようになった、植民地を出て行った家族の土地も買いそれでも止まらず、パラグアイにも四家族で土地を買い牧畜を始めていた、ところがパラガィは役人の汚職に嫌気が指し、子供の結婚相手が少ないことにきずき、売りはらってサンパウロへ移転した。植民地で生まれた子達に勉学の機会を与えた、ある二世は弁護士にある二世は医者に歯医者に大学教師に商業にあらゆる分野で活躍する事が出来た、中にはミーナスにわたり大コーヒ農園を経営するのもでた、、変わっているのは21歳で日本に帰り勉強をしなおし昼は働き夜学で工業高校を卒業して設計事務所を開き活躍しているのもおります、植民地開拓は努力心、人間の大切な事を教えたようです、新城さんはいく年月後懐かしさのあまり植民地を訪ねて以前の姿は跡形も無く牧草に変わり、戦後移住者が日本から持ってきたエネルギーを注ぎ込んだ植民地の跡形はどこにも無く感無量だと語った、日本政府の力で開いた植民地は幾つもあります、事業団や国の融資を受け国が面倒を見てくれています、戦後移住者のこの植民地だけは自分の力で政府の力を借りず開拓した植民地、新聞にも載らず消えた植民地があったことを記し、その名は皇栄植民地と名ずけたようでうす、

国吉真一


2018年3月18日日曜日

祖父母の移民百年祭


三月三十一日は国吉牛ナべ祖父母の移民百年祭に孫の一番年上の私が提案したら、従姉妹の孫達が賛成して、インタ―ネットを通じて話し合い殆どが参加する事になった
l  総勢百四十名の子孫が夕食を共にして演芸会をもようすことになった。従姉妹や従兄弟の繋がりは沖縄人の持つ仁徳で、準備も予想以上のが出来た、祖父母の移民初期の歴史を記さねばと思うけど、祖父母が長男の父と妹を日本に残して移民した私は、長男が日本で結婚してその長男で、日本生まれで移住先の生活は文献によって知るのみである、
国吉牛とナベは沖縄南部の東風平村字上田原となっている
この区域は国吉家の子孫で成り立っている、祖父牛さんは国吉家の子孫九代に当たり、屋号は当銘地で二男に生まれた村でも多くの土地を持ち貧しい家ではなかった、長男の夫婦が
ハワイへ出稼ぎに行ったので二男牛祖父がト‐メジ家をナベと結婚して守っていた、いくら働いても長男の松金の土地なので外国へ出稼ぎの機会を待っていた。
真保さんが参加した、真保さんは国吉本家「モート」屋の跡取りで、其の頃戦争に召集されるのを逃れる為に母が無理に家族構成に賛加するよう勧めたと伝えられている、真保さんは師範学校卒業間際で義務的に先生を務めるのが嫌で海外行きに賛成したようだ。歴史を顧みて思うに祖父の牛さんは無学で甥の真保さんは師範中退の家族構成で二人の移民の歩んだ歴史は波乱に富んでいて、多くの移民の物語も似たりよったりだ、
さて牛さんがなぜ無学だったか、一番には土地面積が大きく
年賦の雇人も使っていたので,学校に行く暇を働かせたとも考えられる。二つめは明治になっても侍「ユカチュ」と百姓の差別が残って居て、侍は髪を「カンプ」に結っていたので
学校では差別なく皆断髪するのが習わしだった、侍の誇りを
捨てがたく学校行かなかったようだ。中には率先して日本語学校へ行ったのもいて。琉球の初期の官職に就いたのもいる
日本の明治の初期に歴史は似ている、何時の時代にも先見
ある人は繁栄しているのが歴史は語るのです。
村では土地が多くても沖縄は日本と比較してサンゴ礁のやせ土地で日照りでもあるとお互いに助けあって命を繋いだようで、上田原は国吉一族の結束は強く、祖父牛さんが移民の先頭になった道を開いたとも言われている、祖父の話では唯モジアナだけでブラジル沖縄移民史の名簿には。ヴィラ,ユスチナーとある、多分ファゼンダと駅名だと考える、祖父は体格ががっちりした持ち主で、体格が大きくブラシル人からク二ヨソンと呼ばれて、人の倍も働いたようで契約を全うして耕地をでたようです。その間に次女のツルさんが生まれた。
アバレ―役所に出生届を出しているで、其の辺の耕地にいたのでないかと察する、三女のカメ子さんははパラナ州のジャカレジンヨの耕地生まれで、コスタジュンヨに契約していた、現在はマリンガ製糖工場の一部になっているコスタジュンヨ耕地には、沖縄移民が五六家族いたようで、その後カンバラ市のアグアヴィエイラに初めて土地を購入して地主となった、その後、土地を拡大しようと、タクアラに二十アルケールを購入して、自分の土地に日本学校を設立した、
沖縄移民も歩合作で受け入れた、日本移民の独身者も受け入れて耕作した、二男の真完が生まれて、サンパウロに中学に進学して柔道の稽古で体を負傷して命を奪われた。長男の私の父、真亀も海軍任務中事故で命を損なっている、その下に清子と真吉がおって七人の子に恵まれて、現在は孫達の時代になっている、移民の中では順調に土地を広めて国吉の一族国吉真次夫婦を移民で、引き取って世話をして二年後独立させている、カンバラ市には国吉一族が移民して土地を買い求めて独立したのも、牛さんの率先のたまものです、沖縄の一族の団結心を外国の移住先まで持ち込んだのです、其の後を継いで国吉真次さんがブラジルの豊かな国の暮らし安さに戦後一族を呼び寄せてカンバラの国吉家は膨らんだ
私は祖父が無学で事業を広めて来たのに計算は頭で暗記していたようで、若し、無学でなく学校も出て字が読めたら
ブラジルで十分活躍したのではないかと思うのです。
終戦ごタクアラ‐の土地を売った。低地でコーヒーに適せず、チジュコに原始林を購入して開拓した、そこにも学校を建設した、思えば、自分の無学を意識して、子孫に学問の大事を理解していたように思うのです、その反対に甥の真保さんは学問故にブラシルを点々としているのです。学生だった故に労働仕事は苦手でまず言葉を覚えるのに、熱心で働かずに家でポルトガル語を勉強したようだ、叔父の牛さんが人一倍働くので受け持ち分に支障はないけど、祖母が文句だらだらに、嫌気がしてサンパウロ市へ出ていった、その時代サンパウロの街は移民夜逃げであふれていた、幸い真保さんは言葉憶えが早いので、すぐにバールの召使いにやとわれた。同じく夜逃げした大和撫子の女性と結婚した、しかし沖縄のモート屋、本家には知らせなかった、跡取り息子長男故に許される仲ではなかったからです、真保さんは学問ゆえに労働は嫌った、
いつも大儲けしようと借地農で仲買より前倒しでお金かりていたけど上手くいかず、家族をつれてカンバラの牛叔父にみを寄せて生活した。叔父の保証で土地を求めた、移民は労働仕事で稼ぐために外国まで移民しても、農業仕事以外にあの頃は仕事がなかった。真保さんの孫も牛さんの孫も高等な学問を授かり現在あらゆる分野で活躍している。
国吉真一

2018年2月10日土曜日


寿命
世界的に人間の寿命が延びている。有り難い事ですけど。社会の負担が増えるのは当然です。結婚した頃二十代で六十代まで働き定年「アポゼント」するまで四十年長い年月と思っていた。
私が糖尿病を患っているのを知ったのが四十代で後二十年は働かねば成らないので体を維持せねばと思っていた、六十代になったら
アポゼントしても良いと思った.ところが人間の平均寿命も七十五歳になっていた。私達の寿命は家系にもより、遺伝的な宿命もあるようだ、自分の家系をみると、母方の姉妹は四人とも八十八歳まで長生きした、父方は祖父が癌の病気故六十で他界した、自分がアポゼンタしたら、誰かが養ってくれている結果で社会は成り立っていると思うようになった。
結局自分で決めた老後をどう生きるか変更せねば。社会の負担が働く人にのしかかると僕は思っている。亦働く事が寿命も延びて、生き甲斐も生まれる相互扶助の役割を果たしていると思う、
現在自分は八十代で周りの知人は殆ど他界している。体格の良い病気を持たない人でも、もう此の世にいないから神が与えた寿命のように思われる。それとも体が丈夫でなく、医者通いするのが健康維持しているともいえる。現在では百歳まで生きるのも不可能でなないようだ。
百歳まで生きるとしたら、僕が八十代でまだ二十年生きねば成らなくなる、僕は大腸を手術して十センチほど短い、大腸は体の重要な働きで、体に必要な養分を作り出す機能を果たしている、アレルギ―を抑えたり、糖尿病を抑えたり、体の水分を維持したり、体の需要な役割のようだ、糖尿病が腎臓にタンパク質が消化されず負担をかけているのも専門医者が説明してくれた
体の健康についてはテレビや本などからある程度、理解できた
体の健康は維持できたとしても、老人に付きまとうボケはどのように防ぐか考えてみた、記憶力を増す意味で仕事上、支出収入を記憶して無駄を省く、頭を働かせる。本を読んだりして想像の世界を
広げる、近頃想像したのが次のようだ
私達は人魚の話を本などでみている、しかも確実に上体は女性である、実際に実物はありえない話だ、生物の世界はオスとメスからできている、メスの人魚がおればオスの人魚も当然実在しなければ生命はなりたたない。頭に或る記憶では、この世界に生命が現れたのが、暖かい海からだと言われている、先ず単一生命が発生して進化を遂げてオスとメスの機能をもった生物が生存して植物と動物に進化したと考えられる
その中間の生物もいまだい生存している、どうしてメスの人魚がうまれたのか想像すりと、男性が創り上げたと考える、現在だと作者の著作権などに触れたけど、ただ男性は波が打ち寄せる海辺に或る石を見て想像したのではないかと僕も想像する。人間も進化を遂げた生物でたまに進化の逆もドリして、自分がオスかメスはっきりせずメスを入れて生まれ変わったり、同性結婚したり、するのが出てくる
遺伝と進化を考えた時;現在の若い世代が四五歳のときからパソコンなどから学ぶ豊富な知識が遺伝に繋がると、人間を取り巻く環境は変化している、遺伝にも変化が現れ、優れた才能を持った人物が現れると想像する。現に将棋の世界では天才が出現している