2017年10月22日日曜日

永住

永住
ブラジルに移り住んで六十年にもなる、生まれ故郷に住んだ
三倍がブラジルで暮らしている、高校三年で中退して
ブラジルに移住した、母と妹を道づれが未だに後悔の念
に胸がしめつけられる思いだ
母は実家を再建して暴風にも耐える瓦屋根に吹き替えて安心したまもなくだった、妹は中学生で義務教育も終えずに道ずれにした。
僕は三年にもなると、卒業後の職に難色を示していた。大学へは母の経済力では無理だった。アメリカ軍作業員になる事は望めなかった、学生の社会主義に参加したのがたたりだ。
丁度その、頃、父方の祖父がブラジルに呼び寄せたいとの手紙がきた
僕は飛びついた、ちょうど其の頃高校卒の七人がアルゼンチンへ
移住していたのを羨ましく思っていたのだ。
話はトントンに進み1951年の暮れには那覇空港より軍用機で羽田空港に到着した、冷たい空気が沖縄で味わったことない故郷へ戻ることの出来ない侘しい思いだった。
翌日はアメリカ領事館でアメリカ大陸通過の許可を経てサンフランシスコ向けの船に乗り込んだ、アメリカ大陸を飛行機で横断して
ニュヨ-クからブラジル行の飛行機で翌日朝サンパウロに着いた、あの頃ジェット機はなく、しかも軍用機の払い下げが民間航空に使われていて二日かけて大陸を横断した。
飛行場には親戚が出迎えて、祖父は沖縄語(クタンデネーニ)疲れなかったの意味でたずねた、祖国離れた沖縄人が故郷の言葉いつまでも
憶えているのに戸惑った。
翌日は夜行汽車に乗り込んで、パラナ州へ向かった、夜が明け次第
大陸の趣が牧場に現れ、牛や馬が草をもぎって
いる光景がアメリカ西部劇を思い浮かべた、途中で下車してパラナ行きのタクシーでパラナに向った、植民地に近づくとラッパを鳴らして着いたことを知らせた、祖父の家では親戚が集まり待っていた。一人一人が拍手を求めてきた。僕の家族の永住の歴史が始まったのだ
その夜は旅の疲れでぐっすり眠った
翌朝眼が醒めて裏庭では祖母が鶏にエサをやっていた、その数が三十派も越えていた、鶏は何処にも巣をつくり卵が籠一杯にかき集めていた、豚も三十頭位馬と一緒に牧場に放されていた
なんと食べ物が豊かな国なのだ、戦争で食糧不足で生き延びた僕たち家族には頼もしい思いだった
果物、バナナ、やマンガは観た事もなかった、祖父が日系新聞を取ったおかげでブラジル事情や日本の事情も知る事が出来た、突然ブラジル大統領が自殺したのを日伯新聞で詳しく知ることが出来た
その後,副大統領が左傾化して共産主義化する傾向を防ぐために
軍事行動を起こしたのも記憶をたどると永住の歴史が重なるのです。
祖父一家と暮らすにはあらゆる面で馴染めなかった、僕たち家族が民主化の影響で昔の風習はなくなっていて、ブラシルでは未だに戦前の風習が残り大事にブラジル化することなく守られていた、
事情会って、長男の孫である僕が別れて一家を構えることにした、
その事は永住の一歩と云えそうだ、まづ、なによりも欲しいのは土地だった、土地さえあれば、家も建てられるし、家畜も飼う事が出来る母は豚や鶏を世話することによって、故郷への思いが和らぐからだった、祖母は一部の土地を良い条件で譲った、ある時期にカンピナスの母方の親戚を頼りに移ろうとも思っていた矢先に思いとどまった、今思うと、殆どの移民が二度や三度の引っ越しを経験したのに、僕は永住して以来、同じ場所に住んでるのも永住に腰を据えたお陰だと想う。
家も新築して住みよい住み家になったのを機会に叔母の世話で嫁を世話することになる、叔母の隣の家の娘で中学卒業して間もなく、家事を手伝っていた、ご両親は世話好きで、戦後移民を引き取って、世話したのが多く、娘はいつでもお嫁にやると叔母に話していた
僕の嫁にやりたい素振りのようで叔母は、当たったのでした。
僕はそれでも、祈る思いで返事を待った、僕は経済的に多くの負債を抱えていたし、長男故に母と暮らす,重荷を抱えていたからなおさら半身諦めていた、叔母は良い返事を持って来た。
僕は有頂天になった。彼女は僕にとって高嶺の花だった。
永住して四年目に結婚した、翌年には長女が生まれて我が屋は家族
が増えた、その後も次女が生まれ、次々と四女まで生まれた
僕は母にもう子供を産まないと告げた、母は悲しげに涙を浮かべて
なんで姉妹と別れてブラジルに永住したか、子孫が絶えるなら日本でもよかったと訴えた、僕は呼び寄せてくれた祖父に対しても跡継ぎを生まねばと思った。八人目に男の子がうまれた、長男一人では心ぼそく、欲張ったらまた女が生れて我が屋は九人の子と十二人の大家族になった、一時期は土地を売り払ってスパーでも経営しようと思ったこともあった、大家族のゆえだった。でも土地にしがみついて、子達全部大学までやる事が出来たのは神の手助けか、子供たちが父に負担かけるのを惜しんだ故かと思っている
子達も大学卒業後良い職に就き、結婚しても自立で生活できて親たちの苦労は子達にはせずに暮らしている
金婚式は娘達が出し合って祝い、その後昨年六十年も祝い、体に不調をきたしていろいろの手術を体験している
療養中暇を持て余して僕はなんと幸せものだと思っている
永住とは祖国から持って来た種を耕して蒔き、その出来栄えを眺めるのが永住だと思っている。今の心情です

二千十七年十月十日     真一

2017年8月13日日曜日

不思議な国日本


今世界で最も注目を集めているのが日本のようだ、まるで学校の

優等生のようである、その一つが世界で最も安定している、第二次大戦後七十年間戦争に巻き込まれることなく、平和に国民は暮らしてきた、その間に幾多の災害に見舞われたけど、国民団結して復興してきた。現に大戦中に味わった忘れることの出来ない事も、今の

政治家は味わっていないのが殆どです、中でも教育者が経験した、敗戦の挫折や虚無感は作家によって表されている。たとえば、教育勅語の取り扱い、教育者は生徒たちに人間の情操の掟として、教えて来た、書かれた道筋に間違いは無くても、せんご憲法で廃止された事は、教育者にとって、未来を失った人間の挫折に陥れた、それでも戦後七十年平和に暮らした国民にとって、憲法に定めた、軍隊なく、戦争放棄した憲法は何処の国にもない不思議な国が日本なのです。戦争が人殺しでどの国にとっても犯罪である事に敵国軍を多く殺した軍人を英雄化した今までの教えに問題があるのは勿論で

自衛隊が軍隊ではないとの安保条約も問題である

日本国民が過去の歴史を顧みて、平和な七十年間の歴史は国民に最大の贈り物である、過去において、隣国を占領して、植民地化し領土を広げて、国民を移住させて、生活を維持しようとした戦前と比較して、戦後は移住した国民が帰国して狭い国土を農地改革して、優れた農産物を生産している、それ以外にもあらゆる海産物をある食品に変えて利用して、職場をもたらしている、また身近にある材料、竹細工や。木工細工など、伝統職業が祖先代引き継がれて、職場を与えている、日本の織物は有名で分業化して多くの人々に職をあたえている。このような職業は地方によって伝統化されて引き継がれている、日本の物づくりは家庭産業で親から子と引き継がれて。看板を守っているのも外国人の不思議の様です、特に鉄製品の刃物は世界の人が買い求めている商品のようだ、世界で最も治安が良く観光客が日本の不思議な国として目に映るようです。

国吉真一

2017年4月15日土曜日

随筆      療養生活

三か月間家を離れて大都市の娘の家で暮らすことになった
理由は健康診断の為だった、その間に従兄弟が見舞いに来て五冊の本を置いて行った、毎日が退屈だろうとの計らいと、彼は僕が本読むのが好きなこと知っていたからです。
五冊の本の中に三浦綾子の随筆集があった、早速手に取って読んだ僕の今の境遇に考えさせる事がたくさんあった。
僕は移民の中で、最も恵まれた者だと思っている、移住したパラナが土地の良く季候も作物に適して良く収穫できた、人間関係にも恵まれて良き妻に出会い、家族にも恵まれ、故郷へも四回も旅行して満ち足りた生活を送っていた。
最近便に血が混じって検査のためにクリチバの娘に身を寄せた。
そもそも地方から専門医者を求めてきた故だろう。病院には各専門の医者とあらゆる検査設備が整っていて、敏速に結果を知る事が出来る、腸の専門医によると、早速傷の所を取り除く為の手術をすべく、心臓の検査を受けたら、心臓を繋ぐ小血管に塞がった所をあ

り手術で広げてから、安全状態でしか,腸の手術は出来ないと、医者は説明した、先ず血液循環の薬を処方したら出血か多くなった、とりあえず,腸をラジオテラピアで治療することを勧めた、其の為に一か月をようした、毎日が一人で一日過ごすのにもてあましていたので、考えることが多くなった雨の降る日など今までの出会った人々を思いだして恋しかった、前に書いたように何も不足しない人生なのに寂しさがあった、満ち足りた人生とは言えなかった、その時に三浦綾子の随筆を読んで、彼女が幾つもの病に侵されても,神仰によって、夫と共に絶えず、神に感謝して祈る事に満たされた人生を送っていることを語っていた、僕自身結婚後洗礼を受けて、教会に通っていた次期があった、大人になってからの入信は疑問がのこるのです、大都市では新興宗教が大きな殿堂を築き貧しい人々からの献金により、反面病院では満足な手当ても受ず苦しむ人々を見ると矛盾した社会を思うのです。また崇教による争いもあまり深入り出来ない面があった。綾子女史があらゆる困難を神が与えた試練として、感謝と祈ることで乗り越えている事に感銘をうけたのです人間の心には侘しい時、淋しい時、悲しいとき、満たされない空間がある。その様なとき、神へ感謝して祈る事で救われる思いがした、、 国吉真一           

2017年2月20日月曜日

成熟した絆
僕は君と八重子のロマンスを小説に書く事を夢に描いていた。そのあらすじを君の金婚式に語るのを楽しみに
していた。突然家族だけで祝福した写真がFACE BOOKに載っていて、つい文章に書くことにした
家族だけの祝福でも、大げさな祝福でも、五十年の歩みに区切りをつけてまた踏み出すに変わりはない
僕と君は似た所が多い。まず少年から青年になるまで、同じ家で過ごしている、小学校や中学、高校も同じだ
暮らしもあまり変わらなかった同じく母の手で育てられた,娶った妻も同じく二世でインテリだ。
僕が運命によりブラジルへ渡った時から君の運命、八重子と出会う運命になったのだろう、
決定づけたのが僕の結婚写真だと思う、君一人家族と離れてしかも高校中退でブラジル移住なんて考えられない
あの結婚写真はあまり出来過ぎだと僕は思う、日常の生活が浮かばないし生活程度も想像できない、
きっと、金持ちで裕な暮らしが頭に浮かんだのだろう、
僕はあの頃借金を抱えて子沢山で大変でした、それでも松田家や仲田家や君を引き受けたのです、
あの頃の沖縄は生活が貧しくブラジルは食べ物はよかった。
君は僕がブラジルで学校にいかしてくれると予想していたのでないかと思う、なぜなら僕もそう思っていた。
着いて始めてきつい労働が待っていた、それでも二か年はアットの間に過ぎ、君が八重子と交際しているのを知ったのは
六月二十四日のSAOJAO祭りのブ-グレでした、その後僕はカメ子叔母へ行き君と八重子のなかを説明して
結ばれぬ愛ならば早い内に断ち切った方がお互い傷は少なくて済むと思った
叔母さんは理解ある人で、例え失恋におわっても長い人生では良い経験だと言われた。
その点について僕にも経験があった、僕の妻とは僕は始め断られていた、多分千代の父は僕が長男で母と一緒に暮らすことに
思案しての事だと思う、失恋の痛手に僕は多く本をよんだ自然と世界の中で女性に断られる事は小さな出来事に思われた。
千代にはもっと良い相手いるはずだ彼女の幸せを願うようになったのだ。その後、承諾の返事をうけた時は、天にも昇る思いだった
叔母さんの話聞いて心の安らぎをえた、早速君に街に出て何か職業を身に着けることを勧めた
早速、クリチバで写真業をみにつけ始た、その後も君と八重子は文通し合ってお互いの愛情を深めていった
その文通が田舎の家の戸棚と本立てから見つかった、二人の愛情が着実にすすんでいるこが判った
文の中に貴方の写真にキースして寝ますとあった、自分がしたように愛する人は皆同じと微笑ましくおもった。
その後隣街でも働き、サンパウロでも働きカンバラの街で開業して結婚した.
二人に子供が出来ないことに、八重子が沖縄留学することになった,安勝も一緒にいくことになった、
写真屋畳んでのことだった、幸いに八重子の人柄が兄貴夫婦の目に染められて、二男の優を養子に出すことを決定した
君と八重子の子育てが始まった、その後はクリチバに家をかまえて、多くの日系人と交友し合っている、
クリチバは学生都市で日系人のインテリ―があつまりよい環境にある、この物語は青い果物が成熟するまでを

君と八重子のロマンスを五十年の成熟した絆とした。国吉真一