2012年5月20日日曜日

随筆 比較社会

人間は生まれた時から何事にも比較して成長したようです。四か月もすると回りの人は誰かに似ているか比較する。笑い出すと生まれた時と成長した事を比較して知らせられる。人間の周りをみてもあらゆる事が比較の対象になっているようです、人間社会が比較によって進歩しているようにもとれる。良い、悪い、高い、安い、低い、など考えただけでもたくさんある。人間の良い悪いは常識によって中立の間があって決めて
いるようです。比較するに数字が必要で各国の国民の生活も数字で先進国と後進国が解ります。数字が無かったら何事も比較できないでしょう。社会には貧乏社会と金持社会がある、むしろ貧乏人によって金持ちが成り立つとの理屈が成り立つ。社会には知識ある人とそうでない人によって構成されている。社会は知識ある人によって治められている。自由主義社会では政治は指導力のある人が政治を握る。民主国家では何をおいても自由が第一に国民平等をもって憲法が敷かれている、にもかがわらず、知恵のある人はずば抜けて金持ちになれる。社会は五本の指の様に平行には出来ていない。よい社会は金持ちから十分取り上げて貧乏人に分配する社会が理想ですけど。かならずしもそうはいかないのが社会なのかも知れない。さて数学は何時ごろで来たのでしょうか。文化の始め頃に出来たと思われる。あらゆる数学の方程式は生活の中で取り入れています。現在はいろいろの道具がありますけど。川の幅を計ったり高い木を計ったり。方程式と影で測れるのを昔の人は使っていたのです、最近私は次のようなことを考えました。水力を利用して発電します。落差の力を利用しての事ですからその発電機の電気を利用して同じ水を何パーセントもとに戻せるだろうか考えたことがあります。専門家は計れると思う。落差を利用してのエネル―ギと持ち上げるエネルギーとでどれだけの差がでるのだろうか。これも比較の対象です。私達の社会で比較がとまったら土人の社会になるでしょう。亦比較を否定したら滅びた社会を意味するかもしれません。有名な大学入学試験など一番の点数が発表されます。ただ一人が比較されて何万の受験生が無視されますしかし、無視された何万人が社会を支えるのです、このような比較される社会で数字に惑わされずに生きることが出来ないだろうか考えた事があります。それは多分精神異常を起こした病人扱いされるのでしょう。
2012年五月二十日 国吉真一。

2012年5月6日日曜日

随筆 人間と宗教

歴史上で古い昔から人間は宗教に関わたって生活している。日本ですと神は森や御嶽などに宿るとされて、宗拝の対象になっている。歴史の古いギリシャの神殿の跡を見ても人間は神を崇拝して生活してきたのです、現代でも殆どの国民が宗教の団体に属している。その反面若い者に宗教離れも起きている。またキリスト教でも新しい宗教がたけのこの様に現れて信者獲得に凌ぎを表して居るのです。特に低所得の層に信者が多いようです、では知識階級には宗教はどのように考えて居るのでしょうか、誰しも宗教について、議論するのはタブーとされている。現に知人とも語り合ったことが無いのです。人前で俺は無紳論者だと出張できない。その理由はこの人は野蛮人と受け取れないとも限らないからです、また自分の人生を確信持って無神論で生きることも出来ないのです。現に宗教によって起こっている問題をどう捉えたら良いのか迷います。回教徒の宗教の自爆テロ。自分の生命を無視する行為は考えられない。亦キリストの生存不可能な胎児を堕胎することも許さない宗教も一般の人びとには理解できない。古い政治体制が宗教に支配された国家で国民に自由がないのも悲しい。私自身ですと小さいときから沖縄の祖先崇拝が生活に取り入れて生活してきて、ブラジルでカトリックの洗礼を受けて子達と共に隣の人々とも社交的に関ってきました。色々な説教も聞きました。それでも熱心な信者にはなれないのです。説の中に病を治してくれるとか。家庭が円満でお金も授かるとか。またそれを受けるには余分なデシモを献上すべきとの話で終わるのです、
その点を考えると、低所得者や貧乏人ほど余計献金しているようです、私は無神論者でもないのです。古くは今日ほど医学や自然科学が進歩しておらず死ぬ人が多かった。神の保護を求めて宗教に縋ったのでしょう。また、迷いある時は神父や牧師の教えを乞うたのです。現在は精神心理医師の門をたたくのです。私は農業者として自然の影響を受けやすい。自分の力では出来ない天候や作物の値段の変動や使用人の健康など神様に祈る以外にはないのです。自分の都合だけで神に頼っている様にも受取れますけど、ただ深入りしないだけの事です、考えると人間は経済に恵まれ、家族に恵まれても自分の予測出来ないのが多いのです。
人間は弱い者なのですから神にすがるのだと思うのです。2012年4月