2016年12月31日土曜日

結婚六十年


 私達夫婦は結婚して六十年を迎える事になる
 娘達が祝ってくれた金婚式は私夫婦最後のお祝い
だと思っていた。
まさかその後十年夫婦とも生き延びて六十年のお祝
をしてくれるとは想像しなかった。
日本語で結婚六十年のお祝いの言葉がないようだ。
昔は夫婦とも六十年元気で生きているのはいなかった
のでしょう。
私夫婦の場合体に異常がない訳ではない、私は糖尿病に
が少し高い。食事と薬で何とか保っている、家内の場合
はボケ始めて医者の指示で薬やくもんに通い小学並みの
数学を復讐している、N,Hkのためしてがってんに
ボケの問題をとりあげていた、
脳の中の海馬(記憶する局所)に衰退現象だといわれた。
どうして海馬と名づけたのかわたしの事典では海馬はない
ポルトガル語で、イポ、カンポとあった、私の従兄弟の説明
ではギリシャ語で竜の落とし子の事らしい。図面を見ると似ているように思われる。
私は日本生まれで青年になるまで。日本で過ごした
 彼女はブラジル生まれで地球の反対側で私が青年に
いたるまで会った事もない。また独身時代に自分の嫁
の女性がブラジルにいるなんて想像もしなかった
その事については彼女も同じ事だろうと想像する。
 何故か神様は私達が夫婦になるのを決めていた用に    
 思われるのです
 いくら運命とは云え、何かの要素が働いて二人を
出会わせた、その運命を考えてみた
 まず私と彼女は性格がまる反対で、私は何事にも積極
適で、反対に彼女は消極てきなのです。
其のことが六十年寄り添える原因でもある、彼女の
消極性が多くの二世からのプロポーズに乗りきれな
かったのも、恋愛に積極にならなかったのだろう、
その一方で二世と違った私が個性豊かに見えたの
かも知れないと思うのです
生活の安定した二世より私の個性に人生を掛けた
と思われるのです
私夫婦には八人の子がおる、子達の性格も私に似たの
もおれば、彼女に似たのもおる、それでも似たような
顔かたちはだれもが姉妹だとわかるのです。孫の
代では似た顔は一人もいない。違った因子が働いた
のです。
もう一つの要因は祖父母が呼び寄せた事。祖父母が
 沖縄に残した長男が父の子として私が生まれたこと。
そして家督相続の習慣を守る習わしを守った事である
事も私たち夫婦を結び付ける運命を近づけている
私たちには十二名の孫がおり、若し孫が日本にいて同じ
立場におかれたら旅費をだして呼び寄せたろうかと
疑問に思うのです。
小さい時から一緒に暮らさぬゆえかお互いに溝があり
祖父母の期待したようには一緒に住めなかった、
お互いに別れて暮らして初めて。祖父母の有り難さを
思うようになった
四年の付き合いで祖父は他界されて、私が国吉家を
背負う立場になった、今思うと祖父は無学故で聞く事に
関心が多かった、自分は新聞も読め、社会事情を
話して聞かせなかった自分が後悔の念に堪えないのです。
結婚六十年を迎えて、九人の子が一人前になり
結婚し、十二人の孫に恵まれている
長い年月のようで案外にも恵まれ過ぎた感がする。
一つの区切りとして、移住して以来コーヒー栽培に
携わってきたけど、抜根して大豆栽培に変えた、
それ以外にも土地の名義を子達に変更した。
祖父母のお墓もグラニットに敷きかえた、私が孫の
年長で来年は祖父母の移民百年にもなるので
子孫を集めて移住百年祭を行いたいと思っている
ちなみに無学の祖父母は自分の土地内にブラジルと
日本語学校を建設した、その孫の代では
殆どが大学を卒業しているのを思うと尊敬の思ひに
絶えない。
二千十六年二十五日    国吉真一


2016年10月15日土曜日

私とFACEBOOK

私とFACEBOOK
私は老人です。八十三歳ですかたら、定年を超えた可なりの老人です。
今でも田舎の土地で自家用の野菜をつくっている。余ると隣近所にもあげて喜ばれて自分も嬉しいのです。野菜を作るのは、時間潰しで。本職は、まだ七十ヘクタールの土地を経営している、今年までまだコーヒーも栽培していた。市の区域内では私が最後のコーヒー栽培者だったので名前も街で知れていた。利益があったから続けていたのです。コーヒーは人が必要で、一時は四人の労働者を雇っていた。現在は一人だけで経営出来るようになった、殆ど毎日車を運転して通っている。ある程度の体を動かしているので健康には良い事だと娘達も進めている、食事も肉食よりも野菜を多くたべるので、糖尿も抑えている、
以上は午前の日課で。午後はブラシル語新聞の経済欄と社説やコルナは殆ど読むのが日課で、日本語辞典にはない知らない言葉があるとグ―グルで調べて理解するよう努める、
老人になると若い人との接触は絶えるのが常です。その点FFACE,BOOKは若い人との交わりが可能です、私が載せ始めて五年以上にもなり。旅行の写真やレストランでの食事など思い出が記録されていて、また通信した人々の行動もかなり知る事が出来る、それ以外にも政治や社会問題をのべてその人柄や関心をしる事ができる。私の相手は私の孫や昔の知り合い、親戚遠い知り合いの繋がりと、範囲は広い。国を超えて日本や、アメリカとも載せあって知り合い、それでも本人に会った事がないのもおります。私は日本社会の良さや食事など、また漢字の意味などを孫達に理解させて関心を持たせるように書くのです、最近の出来事は。NHKからの情報で脳の中の海馬の話、私自身どうしてこのような漢字を付けたのか不思議だった、ポルトガル語はなんとあるのか辞典にもない。FACEBOOKに乗せたら従兄弟のお医者がしかも日本語もかなり理解するのが、次のようにポルトガルで説明した、人体のアナトミヤは殆どギリシャ語で龍の落と子でCABALINHODOMARでポルトガル語はHIPOCAMPOつまり馬と、カンポ海とあった、なるほど
図解をみると似てるようだ、私が海馬に関心があったのは老人になると記憶が衰える、その原因が海馬の記憶力にあるようで、瞑想や座禅やヨガなどで脳の海馬に休みを与えることで記憶量が蘇るとあった、つまりストレスからの解放のようだ。私の家内が記憶力が弱く、KUMONに通い数学の宿題を行っている。私の場合は記憶する能力はまだあるようで
毎日の運動や農業経営やFACEBOOKなどによる知能の働きかと思っている


2016年2月28日日曜日

    小説  土地

    
  戦後移住者には先祖代々続いていた働く場所を
  失い移住した家族がおる。
  日本では炭鉱が廃坑になり働く場所がなく移住
した家族。沖縄では戦後米軍用地に接収されて
働く場所がなく移住したのがおる。
  新里哲夫の家族もその一家族である。新里家は
祖父の代で働き者だったと語られている
琉球王朝時代までは土地は王家のものだった
明治になり所有権が交付された。土地が課税
の対象になる噂が出て所有権を拒む戸主も
あった、哲夫の祖父は先見を先取りして多く
の土地を所有した村一番の地主だった。
戦前は日雇い人を使って砂糖キビを栽培して
いた。戦後米軍の普天間基地に接収されて
  家族は働く場所を失った。
  経済的には借地料は土地の収入よりも多く
恵まれた生活ができた。  
戦争で家も失いアパート暮らしをしていた
 自分の家を新築したくても基地を明け渡される
のを待ってふみきれなかった。中でも心を痛
めたのが環境問題。軍用地代が生活を豊かにして
 若者達が昼から酒場に飲み放題でお金を使い
 働く意欲を失っていた。
 哲夫は長女十二歳を頭に男子二人と女子二人
 が教育時期を迎えていた。将来が思いやられた 
 新里家の親戚でブラジルの北パラナに土地を
持っていたのを幸いに手紙を書いた。
 内容は所持金も十分あり子供の将来を考えて
移住したいとの事だと説明した。
家内の栄子と子供を含めて海外移住を語り合った
 栄子は爆撃機が空を飛ぶごとに忌まわしい戦争
 当時を思いだされた。長女をおんぶして中部の
 激戦地をのがれて北部のヤンバルへの疎開だった
 当てもなく群れをなしての行進で僅かの
食糧と着替えを持って宜野座村にたどり着いた
村人は山奥に避難して村はずれに空家があった
ので、一夜を明かす事に決めた
哲夫は防衛隊に参加したけど妻の栄子の後を
追って宜野座まできていたけど米軍に拿捕された
哲夫の父は最後まで家を守る為に残った
食糧も亡くなり。これ以上逃避も不可能と悟り
何とか食べる芋をさがした、二日は何とかすごして
三日目にはアメリカ軍が宜野座まで進駐してきた
宜野座には米軍による病院が設立されて、住民の
治療に当たった。中部の激戦地から負傷した住民
が送られていた。
亦住民から看護や炊事に働く女子を募集して
食糧が与えられた。栄子が病院に働いている時に
偶然にも哲夫の母がけがをして入院していて
栄子にあう事ができた。
母ウトさんの話では夫は家で爆撃受けて死亡した
と語った
家主の老夫婦も山からおりてきた家に見知らぬ
親子が住んでいるのにびっくりした、栄子は
普天間から激戦地をのがれてこの家まで辿り
ついたことを説明した。
戦争はお互い助け合って生き延びるのだ。お互い
我慢しようと快く受け入れた。老夫婦は一歳の
晴美を孫の様に見守った。.栄子が病院の
炊事場で働く間も晴美を守ってくれた。帰りには
 アメリカから送られてきた支援物資の中から
 洋服や子供服など食べ物まで持ち帰り家主を
交えて分け合った
終戦になり普天間の近くに移り住んだ
たった四か月の逃避行がいまでも爆撃機が空を
飛んでいるのを看ると過去が現実のように
思いだすのです
平和になったのに戦争の恐ろしさが頭に
 住みついている。栄子は老後だけでも戦争を
 忘れて暮らしたいと外国移住に賛成した。
 晴美は学校の社会科で外国を知り、外国行きに
賛成した。残り三人はまだ分別がなく親に
従った。二か月すぎて叔父から返事がきた。
内容はあれだけの資本をもってくれば、叔父が
今日まで働いて得た土地が十分所有できると
あった。
叔父が引受人になり移住の手続きを始めた。
家族四人が神戸の収容所をえてパラナについた
のが九月の半ばだった。
叔父の空家に当分住むことになった、食事は
慣れるまで一緒にした、
晴美と弟は航海中も英語やポルトガル語を
勉強していてブラジル学校に入学した
幸いにも川向かいのコヒー園が売りにだされていた
叔父は条件は運が良いといわれて、哲夫は買う
ことにした
ブラジルに来て事情も分からず総て叔父にまかせた。
コヒーの収穫が終わったばかりで来年までの
管理にお金がいるけど銀行から融資も出来ると説明」
叔父は説明した。ある日晴美が学校から帰って
あのブラジルの学校は日本より遅れて四年生で
日本の掛け算を習っている、と母に語った
栄子はとにかくポルトガル語を勉強して来年は
四年の資格をとれば中学に入れると言われた
栄子は移住して子達がブラジルの大学を卒業
できることを願っていた。
哲夫も日系二世のようにブラジル人に負けない
社会人になってこそ、土地を棄ててやって来た
甲斐があると考えて居た
四か月が過ぎブラジルで初めての正月を迎えた。
街の日本人会館に日系人が集まっての祝賀式だった
持ちよりでつまみものを出して。ビールで乾杯した、
そのご各人が自分の抱負を語りあった、最後に
会長より紹介されて哲夫も新移民として
つぎのように語った。
戦争を体験して困難を乗り越えて平和のように
みえても沖縄では軍用地に接収されて土地を失い
働く場所が無く、いまでも爆撃機が空を飛んで
戦争当時とあまり変わらない。ブラジルに住んで
始めて平和を得た思いです、その上に北パラナー
は土地が良く未だに肥料を使わずに作物がとれて
なお気候もあまり沖縄と変わらない。沖縄に無い
果物が豊富にあることは住みよい場所で
永住する事に決めたと語った日系人から拍手が
わいた。
お正月の夕方叔父方に新年の挨拶に行ったら
叔父はお酒に顔をそめていた。叔父のお蔭で
お正月迎えることに感謝の気持ちをあらわした。
叔父は戦後移民は苦労すること無く、古移民と
同じ生活ができるのは古い移民のお蔭だと苦労の
話を持ち出した。開拓当時や子供に十分な教育も
与えずにやっと得た土地がお前と同じなのだ、
なんだか妬ましいような言い方だった。しかし
戦争に遭わなくて済んだだけでも良いと哲夫は
思った。移民
移民の苦労と。死におびえて生きてきた戦争と
は較べられない体験だと思った
何故か叔父の家庭は何かがくるっているようだ
一人娘は年頃になって。外人と駆け落ちして家を
でていった。
日系人社会では外人との結婚は受け入れなかった。
長男も勉強が好きでなく、農業するにも
叔父が車を買ってやって、一緒にいるけど
よく街に出かけて、仕事に精を出さずに叔父は
嘆いていた
この植民地には三十家族の日本人がおったけど
半分は子供の将来を考えてでていった。
原始林から切り開いてやっと所有できた土地
を子等の将来を考えて大都市に引っ越すのだ
俺もいずれ売り払って都市近郊に行くつもりと
話を続けた。哲夫はどこにも問題はある。
日本移民が出稼ぎの為に、移民は点々と移動して
未だに自分の子孫にうけ
継がせる家を持たないのは、子孫に故郷を持た
ないのと同じで、小さい頃に育った故郷は大人に
なってからの困難を乗り越える勇気をはぐくむ
野だと思った。うき草のような家族に思われた。
晴美と弟の哲司はバスで午前中に街の学校通った
コヒーは見事な花が咲き匂いを風にただわせた。。
近くのブラジル人を雇って収穫をおえた。
叔父さんも喜んでお前は運のある人だ
土地代の半分は取れたようだ。叔父さんはこんなに
沢山実がなったら来年は収穫は無いと言われたのを
思いだして、今まで無肥料で取れるだけ取ってきた
何時かぐっと収穫落ちるのは予想できる。
子供も中学終えたら大学に進むのを考えたら,
都市の近くに移転した方が大学に行けると考える
ようになった。栄子もさんせいした。子供をあてに
した農業は止めた方がよいといった
早速売りに出し,オリンヨスの街の近くに
養鶏場を買い求めた、ここが永住の場所だと

決心した、

2016年1月10日日曜日

2015年度回顧

2015年度顧みてブラジル国家が衰退した感じがする
政治の混乱や政策の失敗などで大きく後退した、政治を
率いるP,T党は国の定めた予算を遥かに超えて低所得の層
に資金を注ぎ選挙の当選を計った。その付けが国の財政を圧迫して、政治責任を問われている。国は高インフレと不況と
失業者で国の収入は減り赤字予算が来年に持ち越されるにいたっている。
13年間におよぶPT党の政治がルーラ始め政治家に国の事業に参加する企業」から資金を集めて、支持する政治家にばらまき今日まで政治を維持してきた、
その結果が今年の政治混乱と経済不況を巻き起こしている
党首のルーラに先見があり、政治理念に基づいた政策を取って居たならば。ブラジルは先進国の仲間に入っていた。
南米諸国のリーダーにもなりえた。ぺトㇿブラスは政党支持の送り込んだ役員とぐるで予算を膨らませて政治家にばらまき赤字をかかえて、産業を引っ張る力はない、国の企業はすべて、PT党の職場になりすまし、競争力を失っている。その付けが国民に押し付けられ企業維持にコスト高で国民が生活苦に陥っている。貧民にお金ばらまく反面に教育や医療制度に欠陥が現れている。労働運動に始めは知識階級も賛同して国民の支持をえていたけど。PT党に政治家や事業家が加わり国の予算を食いつぶして現在では、若い層から国民から反対運動に陥り来年は政治、経済。インフレになやまされて。20年間歩んだ中で最悪の年になるでしょう。
反面農業は雨が順調で農作物も豊作が予層されている。反面中国の生産後退で農産物買い付けが鈍く、市場は停滞気味ですけど、ブラジル経済不安からドル高が予想されて市場は維持できるでしょう。一方では畜産、牛肉、豚肉鶏肉は衛生管理が整い、輸出が許可されて、伸びる可能性

がたかまっている。ブラジルの輸出は農業分野が引っ張ることでしょう。

2016年1月9日土曜日

のうそん誌をかえりみて

永田さんより年賀状をいただきました。
のうそん誌発行から四十六年の年月を得ていて、今も夫婦でボケない限り続けるようです、発行事態が編集や発行と忍耐
と時間が必要なのは理解できます。読者自身もブラジル社会に溶け込んで、家族も二世、三世との構成でよっぽど日本語の
知識に親しみのあるのが読者層だと考えられる。
私と永田さんの出会いは4Hクラブ運動からだと思われる、その運動に参加した二世でも今では70歳にもなり。偶に会うと
其の頃の思い出を話し合います。精神教育の面で影響受けていたと思われる、
のうそん誌の1970年代頃は、永田さんも勉強家で良く日本の経済や世界の経済など詳しい統計から意見をのべていました。
私自身も感銘を受けた一人です。一時日本語教育に、現代派と、コロニヤ伝統的教育と論戦を張った記事がありました。そのご時代
は流れて、事業団派遣の教員が外国語としての日本語を受け入れて、私の孫も日本語学んでいて、何とか日本語に関心がありま
す。次は北朝鮮の拉致問題で、日本政府の約束不履行を外交問題として取り上げた事、読者から反対意見が出されたようです、
私も、その一人でした、いまだに日本政府は解決出来ずにおる
のうそん誌は現在漢字に振り仮名をつけて、二世の方に読みやすいようにできている、よいことです。二世の従姉妹も読者に
なっている。日本語発行の雑誌が消える中に現在も続けて行けるのもコストを安く抑えて発行するゆえでしょう

2016年一月二日。