2013年5月12日日曜日

随筆   妻と寄り添って


会うは別れの始めの言葉がある。
妻と結婚して近い内に六十年になるけど今まで有難うと言ったことが無い、いつも心では感謝していても改まって有難うと云えないもどかしさ。僕にとってはこの上もない妻だと思っている。お互いに体の故障で良くお医者に通うようになるとやはり別れが近いのかとも感じ、あえて妻への思を書く事にした。
六十年寄り添う中で子育てに忙しくまた僕自身も生活の糧を求めて時間に余裕がなく過ごしてきた
それでも九人の子の父母として子育てが大変なのは子が結婚して子供を育てて子等も知るようになった。ある意味では尊敬と。なんでこんなにたくさん子供を産んだのかと、子等は思っているだろう。子供らは案外良く姉妹の絆を深めてその子達は孫も兄弟姉妹のように付き合って居る。最も僕にとって喜ばしいのは孫達が健康でいることが将来がたのもしい
僕自身は移民して多くの子孫を残してこそ移住した意義がある、幸いにも子供全部が高等な教育を受けてブラジル社会に活躍出来るのは両親にとってこの上もない喜びである
さて僕が妻とで会ったのは移民で来て。まもなくでした。ある結婚会場の帰りでした,従兄弟の馬車で返りに後ろに乗っていたのが妻で月夜の光に照らされて映る彼女の顔は天使のようで学校卒業して間近だった。田舎の娘とは異なり。僕の学生時代の女友達よりも増せて見えた。
日が立つにつれて知るようになった。会う事があっても話す機会はなかった。まず僕がまだポルトガル語が十分話せない事.亦彼女もあまり日本語が話せない事も原因だった。それ以外に性質が消極的で家庭では沖縄口を使っていたのです、学校卒業すると家庭で家事にたずさわり上の学校には行かなかった。それには父の考えも潜んでいた。女は嫁に行けばよその家庭に入り、子育てに勤めたら特別な職業学校などに行かなくても良いとの考えでした、兄の二人は大学まで行ったけど女性については高等な教育を受けなくても良いと、あの頃は皆そう考えて居た。いつでも良い相手がおれば結婚する準備が出来ていることを語っていた、
相手の結婚候補者の男はたくさん現れた僕もその一人でした。
身分のある医者とか大学卒の嫁さんになっても申し分ない女性でした。
それでも僕を選んだのです、僕は寝ても覚めても千代子のことを思った
なぜか僕の家には彼女の卒業の写真があって僕は寝る時写真を抱きしめて寝ていた。僕と彼女は性格が反対で僕は何でも積極的で彼女は消極的で僕が話しかけても返事するだけで意思の交換がなかった。僕が始めてキッスしたのは二人で彼女の家にレコード取りに行った時お互い見つめあって抱きしめていた。彼女も待ちかねていたように思われた。いつまでも心に残る思い出になった
僕と千代子は一世と二世の組み合わせなので議論することは少ない。僕は物事を突き止めて理解することが好きだ。お互いに同じ意見や同じ趣味があれば夫婦はもっと好きになれるとの意見を持っている、言い争う場合でも日本人の良く使う言葉、例えば馬鹿とか「のろま」とを浴びせたとしても二世には余り衝撃を与えないのは意味の深さを知りえない、。今までに共通の点は日本音楽が好きでよく寝るまえに聞く事がある。
二世の妻を娶って僕自身がポルトガル語を理解することが出来たのは進んで会話を持ちたい気持ちの故である。妻もある点では日本語が理解できるようになったのも僕が一世ゆえだと思っている
長年寄り添う他の夫婦をよその人から見ると良く似合の夫婦に見える。長年の共同生活からそうなるのか、二人の意見が良くあう。勿論二人の考え方が合わなかったら長年一緒に住めなかったでしょう。
日本人通しの組み合わせの様に言い争う言葉が見つからないのも二人が長年暮らせる理由でもある、六十年近くの間には二人の体はなんでも知り尽くしている。嬉しい時には愛想よく抱きついてくる、また反対に何の言葉もかけない時は何か気にいらないことがあったのだと気づく。それでも夜抱きしめれば和らぎ理由を語ってくれる。翌日には元の鞘に納まるから六十年も共に暮らせる、長年の夫婦はパネラプレツソンと同じで同じ形で、何時も使う鍋でないと蓋がうまく締らず空気がぬけだすのです。すなわち二人は位型にはまっているのです
新婚当時は母と僕との過去の歴史が長く母と僕との話の話題が多かったので。千代子はよそ者のように、昼間は二人の話は少なかった。でも夜になるとひそひそと二人だけの話になる。交際の為に出かけるのも僕と母で妻の千代子は置去りにされた。勿論、子供の世話の為でもあった。
結婚して十か月に長女が生まれた。世間の人は結婚前から二人は交渉があったのだろうとの噂が流れたけど。事実は結婚まで純潔だった、それは僕が彼女の気持ちを傷つけたくなかったからで、初夜は意義深いものと今でも思っている
僕たち夫婦は教会での式はなかった。僕が教会になじみが無かった。然し結婚して三十五年目に誘われてエンコントㇿでカザウの催しに参加して反省する事が多かった。その場で神の前で式を挙げた。何時迄も忘れない事だった
また八番目に長男が生まれて母がやっとブラジルへ来た甲斐がある家の跡継ぎ出来たとの喜びも忘れない。それで子育てに疲れて肺を患い沢山のペニシリンのお蔭で治ったけど。その後から丈夫な体とは言えない、今は物忘れが多く一人では家事が無理なのでお手伝いをやとっている
夫婦は一体との言葉がある。聖書にもあるようで結婚式の神の言葉として神父が良く使っている。この年になると夫婦二人で一人前の仕事ができるので夫婦一体の言葉を感じるのです。二人で旅行したのは日本からアルゼンチンやアメリカと僕の友を訪ねての旅行で、友達に自慢の妻を紹介するのも楽しみの一つである。国内ではミーナスを訪ね。またバイヤにも旅行した、思い残すことは何もないのが今の心境です
二千十三年五月t二日母の日にて