2013年8月25日日曜日

私小説   旅

なんとなく旅に出たくなった。始めて行く所は過ぎ
ゆく景色を眺ながら、過去を思い出す機会でもある。
自分が今日まで歩んだ人生を振り返って多くの人に
で会った。その中でもぼくの妹の夫の活躍ぶりを目で
確めたいとの想いも、旅の目的を兼ねていたのである。
それ以外にも小説や随筆を書くにも。文献や本を読
むと話題が浮ぶし亦旅も題材を与えてくれると確信
しての旅であった。
先ずサンパウロへ出て.ベロオリゾンテのバスに乗る
サンパウロ州は平原で各種の作物が植えてあり
肥沃地帯で、ミーナスに入ると傾斜地で
牧畜や谷底には南部のパラナ松が自然の形で残
されている。
予定は夕方ミーナスの首都で一泊して。翌朝一番のバ
スでジアマンンチナーの朝七時のバスに乗る。
この街は歴史が古いのでとくに寺院が歴史的に勇名の
ようだ
尚、過去にはダイヤモンドが出て奴隷やガリンペイㇿ
で栄えた街でもある。
ズッセリノ前大統領の出身地としても広く知られる
翌朝席に座ると殆ど満員のようだ。見渡すと南部では
見かけないノルテの人で色は浅黒く、皆痩せ型で
サンパウロとは趣が異なるのである。
僕の隣の座席には運よく日系人のカトリックの尼さ
んがいた。彼女も同じ日本人で安心したようだ
目を逢せてメガネの中を覗くと慈悲深いマリヤをおも
わせた。多分黒い服と頭を包んだ白い布の純真さがそ
う思わせたのだろう。
聖書を広いて目を通していたけど、つい話しかけたく
なった、日本語話しますかと聞いてみた。彼女の読
でいる聖書が日本語なので。彼女は小さい時から
家では両親と日本語で話していた、と語った。
それでは日本生まれですかと聞くと、いいえ二世です
との返事が返ってきた。僕は好奇心がわいた。
では、ブラジル学校には行かなかったのですか。
小学年までとの返事。インテリゼンテなのに中学には
行かなかったのですか。返事は家庭の事情でと。
僕はその事情が知りたかった。なんとか会話を続けた
いと思った。でも会話に夢中になり旅の目的の
見知らぬ土地の風景は頭に焼き付かなかった。
途中の田舎街や石山の多い風景を眺めてブラジルのグ
ラニットがミーナス産地と聞いたけど、この辺ならあ
りそうに感じた。
眺めながらどうして尼さんになったのだろうと思って
いたら、貴方様はどちらへ行かれるのですか。問いかけた。
僕はミーナスのジャキチヨンヤの所まで、彼女はジャキチ
ヨンヤと聞いてブラシルでも貧困が激しい所ですか
と問うた。僕はそうです。男の働き手の八十パーセンとが
サンパウロのサトウキビ収穫に出稼ぎで人口が減るよう
ですと付け加えた。義弟が、コーヒを栽培しているので、
観に行くのですと、彼はパイオニヤ精神が旺盛でと付け加えた。
多分ジアマンチナーで宿をとり、翌朝出発します。
ついでに僕も彼も戦後移民ですと自己紹介した
沖縄の方ですねーと話が続いた。
彼女は父も沖縄県人で浜田と申します、偶然のようで僕の
住んでいる街にも浜田さんの家族がおりましたけど
彼女も親しみこめて、どの街ですかとパラナ州のカンバラ
です。
その時、まーあ、私の父もカンバラですと返事をした。
その時僕の頭の中に記憶が蘇ってきた
僕の娘五女が看護学校卒業課程の実修で、養老院で働
いていた。日系人の尼さんが娘のクラシャを見て貴女はカ
ンバラ出身ですかとポルトガル語で尋ねた。国吉ウシさ
んとはどのような間なのかと聞いていたと娘の話が思
い出された、彼女の父について僕の叔母から
いろいろの噂を耳にしていた、彼女の浜田正典は日本で
医科を卒業してブラジルに移住していた。
その頃は日本でも医者として生活出来たろうにどうして
ブラシルに移住したのか謎に包まれていた。
尚始めの家内は開拓当時マラリヤに倒れ、三人の子を残
して他界した。植民地内では持参金があり倍の面積を所有
していたので、その後日本人の女性を嫁に迎えた、その女
性は夫を同じくマラリアで亡くして二歳の男子を抱えて
いた。嫁に迎える条件として里子に出すように言われて、
やむなく。ある日系家族に養子として迎えられて、その後
音信が耐えていた、
浜田さんは教養があるけど日系同朋からは信頼され
なかった。それでもブラジル人からもドットル浜田と
呼ばれていた、二度目の奥さんと四人の子ができ、その中
の女が尚子で小さい時から体が弱く、家から一歩も出た
ことが無く育ったようである。僕たちの日常会話に
出てくる植民地の古い話に途上した家庭なのである。
僕は彼女の小学校しか出てないけど日本語やポルトガル
語をどうしてマスターしたのか聞いてみた、十四歳の時姉
が結婚してクリチーバに移った時、私もついて行った1.
その後カトリックの教会で働く内に、日本人の神父と
出会い、日本語の聖書で日本語を覚えた」、私は多くの姉
妹や弟がおりますけど、会う事はありません、神に感謝し
て毎日を過ごしておりまと打ち明けた。不思議ですね。僕
の娘が学生時代に貴女と会っているのですと、言ったら
彼女もその事を思い出したとの返事、僕は次の物語を話し
た。ある神父さんが人間は皆見えない糸で繋がっている話
を思い出した。僕と貴女は見えない糸で繋がって
いたのですねと言った。確かにあまりにも偶然ですね
過去の縁が遠い所で、お会いするものね・
夕方ヂアマンチーナに着き、彼女は教会で宿を取るようで
旅の道ずれを惜しんで別れた。僕は古いホテルに寝ること
にした。
寝つかれずに、ある事が想いだされた、僕の長女
が学生の頃、同じ女学生と下宿していた。名前は房江さん
で上手な日本語が話せて。成績も良かった、その父が養子
でサンタマリヤの街に住んでいた。僕はその房江さんを見
た事があり、どこかこの尼さんと似た顔形がしているのを
感じた、或いは浜田さんが里子に出した方が房江の父だと
察した。ホテルには南部の白人は見当たらない
日本人も僕だけでお客さんは珍しそうに僕を見ていた。
翌朝すぐ一番のバスでレーメブラドのバスに乗った
途中幾つもの灌木林を過ぎてリオド―セのカリッピの植
林地に入る。
道路は高台地に連ねてバスは走っているようにある
遥かなる山岳が見渡せる。一千メートルの標高で見渡す
かぎり磐壁ばかりで、その底辺には人の住み家があるよう
で煙が出ていた。高台は牧畜も作物も見当たらない、灌木
の中にブラドの町が見えてきた、こんな僻地にどうしてコ
ーヒーを栽培する気になったのか。
それには曰くがある。
始めに開拓した原始林がパラナの奥地で近くに日本人の
コーヒー農園もあった。開拓初期に、二年メのコーヒーが
霜にやられて、お金に困り、日本人のコーヒー収穫も手伝
った。日本人は新移民の働きぶりに感心していた。その後
日本人家族は売り払って出て行った
サンパウロでも思わしくなく。ミ‐ナスのカルモに移住し
て、見事なコーヒー園を育てた、良質コヒ―の条件を満
たして最高値で取引されていた
莫大な利益を得てブラドにも開拓を広げていた、
現在たどり着いた道のりは険しく、その過程は見えなかっ
た。義弟はサンパウロのポストからの利益で開拓で
きるとの予定で開拓していた。
彼にはパラナ時代に移民も一緒の同志がいて。牧畜を。パ
ラグアイにも百アルケールの牧畜を目指した経験がある。
それもある日系の牧畜業者が日本人は小さい
面積から利益を得るのは素晴らしけど、イタリヤ人の様
に広い面積での牧畜には向かない。牧畜は一千頭の牛を飼育
すれば、悠然と生活できるとの言葉と、お前たちは若いし
亦勇気もある。日本人離れを起こすべきだと言われたのが
パラグアイ開拓に挑んだ
しかし子供が成長するにつれて教育を考えた時に奥地で
は子供を犠牲にするかも知れないと
資産を売り払ってサンパウロへ出たのである。
けれど開拓心は収まらず,ミ‐ナスのブラジルでも最も遅
ている場所がジャキチヨンヤで現実に出会って、とまどい
を感じていた。僕は南部と此処は百年の時代遅れがある
今日までの移民の中でも、これ程開拓に挑んだ人は
ないように思われる。僕が彼に妹を嫁にさせたのも
僕は彼に自分にない勇気や負けじ魂があるように思
れた。それ以外にもユーモアにあふれ。植民地の集まりで
は人気があった。実は僕の家内の父が戦後間もなく母国訪
問なされた時、彼の母といとこ同士で長男の彼も移民さ
せるからよろしくお願いしますと頼んでいたのである。
多分彼は僕の家内を嫁にしたかったのではないかと察し
た、以上が妹を嫁がせた所以でもある。
彼が語ったエピソードが今でも忘れない
先輩の古い話として次の様に語った事がある。
沖縄の村で日照りが続き作物が打撃を受けて村の税金が
払えなくなった。村長は節約せねばならず、倹約者を募
集して助役に指名する事としていた。一人の若者が名乗り
出た、俺は団扇を左右に振り風を起こすはもったいない、
自分の頭を左右に振って熱さをしのぎます。それを聞いた
村長が言うには団扇は破れてもまた買えばよい。店はうるおい。
作る職人も金が回る
お金は。皆に回すのだ。農作物が取れなくも金さえ回れば、
住民は潤うと言った。貧農家は蓄もなく
お金に困ると男は出稼ぎに、女は水商売に出す以外
の道しかなく、余裕ある人は叩いて土地を買い、余計金
持ちになると話した。このような事情はブラジルでも同じ
事が起こっている、開拓では自炊して。自然木を倒し木炭
を生産して資金に充てていた
三人共同で百メートルの谷底から水をくみ上げ二万リッ
トルの貯水漕に流し込み苗を育てていた
部品は全てサンパウロから取り寄せての業なのである。
彼は日本でも中学を卒業後戸主となり村の人びとと共同
作業にも参加して、年配よりの村の伝え話も聞かされて
大人びた所があった。植民地の集まりでは話題も多く。
反面自己主張の意識が強く、他人の意見に耳を傾けない欠
点があった。それでも議論後も後味を残さない心広く
僕は好意をもっていた。
一日滞在して近くの街まで寄ってみた。奴隷制度の頃の跡
が残っていて古い建物が残されていた。
帰りはセッテ、ラゴアスを回って、幾つかの蘇鉄精製所が
あり。義弟の土地で焼いた木炭が運ばれて来る所であった
この当たりは作物が植えてあり地形も穏やかになって
いた、カルモには日系人のコーヒー園が多く
日系人の組合も支店を開いていた。今こそ生活も楽になっ
て豪邸な屋敷も見受けるけど、開拓当時はごく僅かな値
段で土地が取得できて。売り手のブラジル人も日本人は騙
されて高く買ったとの噂もあるようでした、
同県人のコーヒーを観て帰る事にした。彼は戦後移民の二
世でパラナ奥地を開拓初期に原始林伐採中に父を亡くし
ていた倒れる木の下敷きになり、植民地の犠牲者でした。
同朋者は家族の末を案じていましたけど。開拓心を受つ
いでカールモに土地を求めて、開拓したのでした。
僕が尋ねた頃はコーヒー最盛期で収穫労働者が不足して
獲得に争うっていた。
それでは彼らに甘い汁を吸われるだけと、思い切って
収穫機を導入する計画を立てていた、また大量の化学肥r
量が必要で経費を抑える意味において百メートルの養豚
舎を建築して契約方式の養豚を導入する計画を進めて
おり有機物肥料の確保を目指していた。僕の農業と比較
して。天地の差があるように感じた。まさにエンプレ
ンデドールの趣がして頼もしく思われた、別れを告げて
サンゴッターㇿに向かった。この地帯は日本とブラジルの
セラード開発で有名になった地帯で、当たりを見渡しても
アメリカの機械農業を思わせる広い耕地に点,点と倉庫
が立っている。開拓当時は雨の時期やら適作物も解らず
唯土地改良に幾年も費やしたようで先駆者の苦労が
伺える。東のジャキチヨンヤは時代に取り残され、西の
サンゴターㇿは時代の先端を走っている感がある。その差
が地形なのか。それとも人間の差なのか、考えさせる
日本人移住者はブラジルのサンタカタリ‐ナでは初め
て林檎を栽培し北部ではセラードに大豆を栽培してブラ
ジルに貢献したことは先駆者に頭の下がる思いがした。
返りのバスでは過ぎ去った事が思い出された。
僕は地球の反対側で生まれ育った。縁があって祖父が僕
の父を沖縄に残してブラジルに移住した。家督相続故に
移住した、日本では得られない経験をして、違った民族と
交わり。開拓の分野でも貢献してきた移住者なのだ
平和な国に永住出来た事は意義があるのを知った
僕の辿った人生もまた旅で有る事を悟った。終り