2013年6月22日土曜日

労働者と思想

私は貧しい農家の家庭に生まれた、小学生の時から、母の仕事を手伝った。中学生の頃には一人前の仕事を任されていた。勉強の傍ら農家では野良仕を手伝うのは当たり前の様に思った。友達も同じであったからです、青年になってから、想ったり、考えたりするようになって、生きるためには当然食を得るには働くのは当たり前と思っていた。若し働かずに食を得たら誰かが食わせて貰っていることになるからです。大人になっても労働者は大切で尊敬されるべき者だと思っていた、しかし世の中、必ずしもそうではなく、労働者は機械や馬と同じ仕事をこなすのみとあるのです。与謝野昌子の論文―「婦人と思想」の中に労働は神経の下曾の部分が働き。上曾部の神経は。想う事、考える事に使っているとある、医学上そのような神経部分があるとは思わないけど区別上に分けたように取れる、今まで筋肉労働こそが人間の尊い仕事だと思っていた。はて社会組織の中で頭脳を使っている人々こそが発展の元を造っていると考えるようになった
例えば馬は十人以上の働きをする、馬を使えば九人の人間を養うことが出来る。車か機械を使えばなお更何百の人を養う事もできる、そこで機械を発明した人は神経の上曾部を使って発明したでしょう。発明家や企業家などはて何百人もの労働者を雇い。労働者の生活を保障する仕組みになっている。勿論の事。報酬や生活も労働者よりも素敵な生活をしているのです。このようなことを書く私は小さい時から働いていたので労働者の虐げられた生活の味方だったので、社会主義こそ労働者の味方で理想な社会と考えていた。農村からでた小説家の書いた本にはその傾向がある、しかし資本主義国家に最も優れた発明家や発達した企業家がいて、ノーベル受賞者は殆ど資本主義国家から出ているのでも解る。ただ資本家が金銭蓄積の為にだけ神経を働かしたとしたら、その弊害は労働者にも及びよい社会いとは言えない。
「婦人と思想」論説のなかで男子主導の社会のあの頃に女性が追従的に働くことは.下層神経を使うだけで、物ごとを考たり。想ったりしない、つまり女性も上層部神経を使って知識を高めねば何時になっても女性は浮かび上がれないとある。とかく男性は頭脳のエネルギーを発明や研究などに費やして。女性は男性の行き過ぎた行動に、バランスの取れた理想な社会を構築するにはぜひ女性の頭脳をも取り入れなければならないとある現在の男女平等社会が成り立つ前に。知識ある女性が叫んでいたのです

   終り

2013年6月15日土曜日

我が家の犬

我が家には雌犬がおる。名前は二―ナと呼んでいる、僕の隣から譲り受けたのだ。隣の家には二匹の犬がおった、僕の家にも犬はおったけど老齢なので車が出る時、門を開くと注意しないと外へ出る癖があった。出るとなかなか屋敷に入ろうとしない癖もかねていた。多分自由に走りたいのでしょう、また犬を連れた人に出会うと喧嘩でもしたいのか四つ角まで追いかけた、たまには争いになり家の前では威張っていても四つ角までいくと相手は主人がおるのを強みに喧嘩をしかけてきて恐れをなして帰るのです。一度通りがけの人に後ろから噛みついて病院で手当てをしてもらったことがあった、市役所の職員が狂犬病でないか調べにまで来た。幸い予防の接種がしてあった
その後昼は囲いに入れていた。
突然行方がわからずになった多分年ですので主人に迷惑がないように死場を求めて去ったのだろうと家族は話し合った。その後譲り受けたのが二―ナです、幸いに避妊手術を受けているのでオス犬がタムロすることはない
朝起きると僕はコーヒーを飲んでからテレビのニュースを観ると僕の所に来て縋りつき、手をなめたり、顔まで近づいて舌でなめる。人間の挨拶のキッスかも知れない。顔を良く見るとやはりやさしい顔をしている。でも種類は雑種の雑種で何でも食う、特に人間の食事つまりフェイジョンとご飯がいくらでも食べる、その他にラソンも用意しているけどあまり食べようとしない。
時たま夜中に遠い犬と鳴き声を争い寝付かれない事がある。また前の通りを夜中に誰かが通ると吠えるので泥棒の予防になっている。たまに隣の犬と出会って足で抱きあったりする。多分過去の事を思い出しているのだろう、
それでも隣の犬は上品で耳がだらりとぶら下がり毛が柔らかく見るからに品がある。主人のお嬢さんはて綱を取って散歩に連れて行くのをぼくの二―ナは恨めしそうに見ていることがある。多分どうして私の主人はどこにも連れていかないのかと二―ナは思うでしょう、けど一度前に飼っていた犬が人に噛みついたからだといっているそれ以外にも散歩する時間的余裕がないのも一つの理由のようだそれでも二―ナは
私の主人は年齢的には定年になったけどいまだに仕事にでかける。
街の中央に出かける時は車で行き用事が済むとすぐ帰ってくる一体いつになったら仕事を離れて私を散歩に連れて行くのか、二―ナは考えるのです。
人間の争いを犬と猫にたとえることがある、ある時雨が晴れた後犬が吠えだしたので窓から覗くと知らない猫が石垣を歩いているのに吠えていた、この野郎家の主はおれなのだと吠えていたのかも知れない、
ふと次の俳句が頭に浮かんだ
「夜ほえて、娘の帰宅。ホッとする{
(雨晴れて。垣根またがう。野良ネコか)

「わが輩は猫である」の小説の中に。人間が食べる屠蘇の夜食がどんなにうまいのか年に一度しか食卓にださないのをその家の猫は一度試してみたいと隙を見て口に入れたのが餅だった、口にほり込んだのはよいけど歯にくっついて、食べようがなく吐き出すにもだせないで、前足を口に入れて取り出そうと、歩き回る姿を主人の子供らは、やーれ正月になると猫も踊りだすと手をたたいて笑う場面が書かれている。僕の飼っている犬も言葉は出さぬけどいつも主人家族の様子を見てひとりで考えているだろう。然し人間のように考える能力がないだけだ。