2011年5月9日月曜日

私の生い立ち -漢那家-

 私は1951年12月10日にブラジル国へ永住して来た。それにはいろいろな事情があります。国吉家の祖父母が私の父を沖縄に残してブラジルに永住したからです。私の母と父が大阪で深い関係になり、母は私を身ごもり、私は母の実家、漢那家で生まれ育ちました。その頃は実家には叔母の苗さんと安さんがおりまして、母とそして祖母と4人の女性の影響を受けて、愛情こまやかに感受性の高い少年に育っていたようです。 
 私の生まれた漢那家はもともと母のおばあさんが與那原の船道と一家を持ち、私の祖父安貴氏を生み漢那家を名乗るようになり親子で生活し、親戚の子供も預けられて一緒に暮らしたようです。その中には伊芸のおじいさん、仲間源助さんがおります。翁長林亀さんも苗さんが子守りをして漢那家に出入りしたようで、孫の松田源助さん、妹のつるこ、仲田清次も漢那家で生まれ育っております。また苗さんの話では 漢那家に生まれ育った人は皆子宝に恵まれているとのようです。第二次大戦後も松田家、上地家の家族がお世話になりまして、それ故か、従弟同士も兄弟のような感じがするのです。
 私は漢那家の四人姉妹の若い頃を思うと4人ともきれいな娘だったような気がする。 なかでも苗さんは背も高くずば抜けて美人で、その名は金武の青年の方まで伝わり、郵便配達人など漢那ウトーに会えたことを自慢にしていたようです。そのことは昔話に母が語ってくれました。
私の祖父は沖縄が大和世になった時の初めての小学入学生で、日本語に通じた人だったので村の区長や役人を務め、計理に詳しく重要な人のようでした。また、祖母は翁長家の人で、昔王宮に勤めた家で廃藩後、村に移り住んだ侍のようで、昔の習慣に従い士族は士族と結婚したようです。母の話によると、姉のかなさんが百姓の松田冊吉さんと結ばれた時おばあさんは大変嘆き、残りの娘たちに百姓の男と結婚してはいけないと厳しく言われたようです。
 そのような訳で母が大阪に出稼ぎに行ったとき、大阪に住んでいた翁長のナベさんが国吉家の人と結婚していましたので、ナベさんの世話になっている時、たまたま国吉家の私の父が訪ねてきて母と知り合いになったようです。ナベさんの勧めで結婚を約束し私を身ごもり、母は沖縄の実家に帰り私が生まれた。父はまた別の女と仲良くなり約束は果たされなかった。
 5年の年月が過ぎ、父は軍人として勤めている時にケガをして病気になり、死も近くなった時、母は私を連れ看病に駆けつけ最期を看取ったようで、その後初めて私は当名地家の孫として認められ、国吉姓を名乗るようになったようです。

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