2011年5月8日日曜日

もったいない

先日、NHK番組の中の日本語講座で、「もったいない」の言葉が出て、日本語独特の言葉で外国語には当てはまる言葉がないといわれた。なるほどポルトガル語にもないようです。日本の文化が生み出した言葉のような気がする。
年長者の殆どがよく使う言葉で、コロニアでも年長者はよく使っていたようです。私も小さいとき、ご飯を残すと母から叱られて、「もったいないことするな」と言われた。「もったいない」のなかには汗を流して働く農民への感謝の念が込められていたと思われるのです。
封建制度のころの日本では自由は許されなかった。国民が共同体で助け合い、ものを大切に譲り合って生きた時代ですから、「もったいない」の言葉は重みがあった。例えば偉い人からお言葉を戴いたとき「もったいないお言葉を戴いて」と使われた。またお金や物を大切にせずに使うと「もったいない」と語られた。その「もったいない」の中には、使い果たしてなくなると困ったことになるとの意味が含まれていたようです。またよく考えると、わたしたちの人生は限られた時間をこの世で生きているので、大切にもったいなく過ごすことも、もったいない深い意味があるようです。
私の生まれた沖縄は土地の痩せたさんご礁で、戦前は芋が主食でした。毎日30キロくらいの芋を大きいなべに炊き、家族の食事と家畜の、豚や馬全部の食糧でした。
掘り起こした芋と葉っぱとを家に運び、葉っぱはヤギの餌、家族は煮た芋を剥いて豚の餌、味噌汁やおわんについた少しの油気も洗いとって豚に与えていたのです。家畜の糞は土地へ返して、有機質の肥料にして自然をリサイクルしていたのです。
捨てることは許されない時代でしたので、「もったいない」の言葉は皆の合言葉だったと言えます。
日本も同じで東北地方では大根めしのことや、京都あたりでも大根の葉っぱはご飯と混ぜて炊き、茎は揚げ、根はおろして食べていたようです。沖縄でも芋から澱粉を取り、残りは干していも粕として、災害や台風で食料が不足した時の用心に保存していました。
移民の初めの頃は、「もったいない」が発揮されてたようで贅沢は許せなかった。日本から持ってきた着物はもったいなくても、ここの風土に合うように縫い変えた。家庭内で味噌や醤油をも作りおぼえて、お金を使うのはもったいないとの故でした。
私の妻千代も「もったいない」の言葉を母から教えられ、物を大切にする癖があり、家庭のあちらこちらに保管されていて、子供達が帰ると整理して捨てたり、田舎の使用人に上げたりしております。それでも古い道具が田舎には捨てきれずにあります。
近代の文化は捨てる文化で、大都市はゴミで大変で、車でも捨てるのにお金がかかります。川は汚染し、紙は使い放題、ビンや袋や紙は大量に捨てられています。行く末が暗示させられます。
昔の「もったいない」の気持ちを取り戻せないものかと、近頃思うのです。

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