2011年6月26日日曜日

しあわせ

老人の枠にはいり、自分の幸せについて考えてみた。自分自身の満足度が幸せにつながるのではないかと思う。毎日毎日が平和で、特別の悩みがなければ幸せを感じなくても、幸せのうちだとおもう。先ず家庭が円満で自分の現在おかれている事に満足しているかも要因だと思われる。自分を取り巻く人間関係とか、自然環境も幸せの要因だとおもう。いくら自分の家庭だけ円満でも親戚関係がよくなかったり、隣近所とうまくいかなかったり、亦自然環境が住みにくい所だと幸せとはいえない、満足度にも差があり余に貧しくとも、反対に余に金持ちでもなく、極平均的な生活を維持できるるのが生活の満足と言えそうっです。農業には色々のタイプの人がいて、過去の移民の中にも始は自分自身がエンシャーダを引いてやったのが殆んどでした、そのご仕事が大きくなるにつれて使用人と一緒に働くようになり、後には使用人まかせで経営するまでになったのが殆んどです。移民には学問のある人は自ら農業に携わるのは殆んどなかった。自ら労働者と共に働くのは限られていた。俺は経営者なのだとの自負があったのでしょう、。そのなかで私は自ら鍬を取り経営者としての自覚を持ちたいと実行してきた。他人に言わせるとこんな安い賃金で労働者が雇えるのに自分で汗を流す必要もないではないかと言う。農業経営者でも正等な賃金を払って経営できるのが経営者だと思っている:
体の為にも運動のつもりで鍬を取りますけど長時間体力が持たないのが現実です。農業者は社会の進歩の速さに取り残され易いですけど、いろいろの話しを聞いたり。新聞を読んだり、本を読んだりして遅れないようにしてるのです。自然の中での農業は考える時間がたくさんある。つい幸せについても考えてしまう。私達の持っている感は人により大きな差があるようで、例えばきれいな花を見て胸の躍るような人は好きな人に見せてあげたいとか、俳句を作ることも考えるでしょう、化学的に見れば花は蜂をひきつけ、花粉を媒介させて自分の種を結ばせて生存を保つと考えるでしょう。あらゆる物ことに関心をもち、感動したり。悩んだり、驚嘆したりして
。私たちは生きている事に幸せを感ずるのです。若い頃は、ただ子育てと高等学校までやるのに一生懸命で、幸せについて考えたことがなかった。子育ても終えて生活にゆとりが出来て、やっと幸せを考えるようになった。世界の誰もが幸せになりたいと思っている。幸せな人は困っている人や病気で苦しんでいる人をみると何とかしてやりたと思う。それは人情で自分の心が痛むのでほんとうとの幸せでは
ないと思われるからです。併しこのような人々に比べて自分がなんと恵まれているかを知り、神に感謝の念にわくのです。夫婦や親子関係にも何らかの小さい争いや、反対意見があるのは当然で、ないとしたらむしろ刺激や反省もなく、喜怒哀楽もないでしょう。私、夫婦は一世とニ世で妻への労わりがないので不満もあるようですけど。もう年のせいでもあるのでいまさら変わる事がないと諦めており不満を通り越しているのです。『子の世話し、夫ツマ』も世話して、満足げ}若い頃は夢があり、実現できるようがんばった、年と共に夢はなくなった、毎日毎日が平和で健康に恵まれたらこんな有りがたいことはないと思っている、寒い日や疲れたときにお風呂に入り体をほぐすと何処かの温泉にでもいるような感じがして、エネル-ギを消費して、もったいないけど幸せを感じるのです。先日娘とバイャまで4日の旅行をした、サルバドルの果てしない海辺を歩き気の遠くなるような海原を眺めると、経済や政治の腐敗の現実を忘れてしまう。水中メガネをかけて岩の小魚を追うと小さい頃の古里の海を思い出して幸せを感ずる、誰かの言葉に、生まれたるは死ぬまで生きる事なりと書いてあった、当たり前で生きる事の難しさを語っている、、会うは別れの始まりだともといった、たしかにその気がする、毎日毎日が別れに近ずいるのです、その毎日を大切に生きたいとねがうのです、

2011年6月25日土曜日

三つの顔

世界中で一つしかない顔が三つの顔とは何のことだろうと不理解に思われるでしょう。けど読んでいただくと理解できると思います。顔は頭の一部で頭には自分の生まれた時から今日までの体験や経験が記憶されていてコンピウターのような役割をしています。亦顔には名前があり同じ名前が何人もおります。けれど顔は世界でも同じのはおりません頭には。才能と技能がありこれは親から受け継がれて。才能は環境や経験や努力によってより磨かれていくのです。性格も親から引き継がれて環境により正確が創られていく。親と子はよく似たところがある、現在の私の顔はブラジル人の証明書を持ち、選挙権と軍人免除証明書も選挙権もあります。そしてカトリックの洗礼も受けて、結婚式も教会で挙げているのでカトリックの講習にも参加してブラジル人から信者として認められています。それ以外にブラジルの新聞も読み農業関係の組合の役員やシンジケートの役員もしているのでブラジル人から、ある程度尊敬されていると信じています、。けどブラジル人は私を日本人と呼んでいるのです。私自身も心の中にブラジル人になりきれないもどかしさを持って居るのです。次は大二の顔で日本人です。小学校にに行った時から、日本語を学び日本人としての教育を受けてきました日本の選手が世界で競争するときは日本人選手を応援します、日本の国が大震災に見舞われた時には心から悲しみ、日本人はみんな協力するからすぐに復興するのだと信じています、ブラジル人からも日本人は努力と協力があるので早く立ち上がれると語ると、日本人としても嬉しいのです、。テレビなどで見る日本の街が整った町並みをみると日本人として頼もしい。日本の自然の美しさや言葉のきメ細かい表現にも日本人の心情かうかがわれる、そして私は日本人としての戸籍を持って居たのです、しかし。ブラジルで土地購入の際に一時外国人が取得できない時期がありまして日本人の国籍を耗出してブラジル人になったのです、いまでも日本語の文章はすぐに理解できポルトガル語は日本語に訳して理解するのです、それほど日本語は身にしみているのです。つぎの顔はウチナ人で証明書もなく言語はあるけど文字が鳴く日本語にくっつておりますけど。年と共に最も心に残るのがウチナ-人の顔です。生まれた時から祖父母や叔母と一緒にウチナグチで会話していたので最も身近に感じていた家には祖先を祭る仏壇があり、一日と十五日にはお茶を供えて家族の健康を願うのでした。年と共に沖縄の祖先崇拝が経典もなく別の宗教と比べて偶像信仰のようにも思われましたが、良く考えると日本の神社も祖先が祭られて多くの国民が祈願するのです。自分の現存するのも元は祖先があるからで、自分の才能や技能も祖先から受け継いだもので、しからば祖先に現在の幸せを感謝して子孫を見守ってほしいと願うのも良いことだと思うのです、祖先を通して親戚が広い大陸で絆を持ち合わせて繁栄を願うのもよいことだと思うのですこの沖縄独特の言葉もブラジルで古い二世まではうけつがれていますけど,消えるかも知れません、ウチナグチは人の感情を表現した言葉がたくさんあります、またブラジルのように心と心臓もごっちゃでチムクククルと区別がなく、人の情を大切にしているように思われる、なかでもチムを使った感動詞は20ほどある。なおウチナーグチは少数民族の言葉としてUNESCOにも登録されているようですのでブラジルのウチナ民族の次の世代までも残したいですね.

2011年6月24日金曜日

移民二話 あの人に会いたい

僕が移住した1951年頃はカンバラの街には沖縄県人の四,五十代の戸主が30名ほど住んでいて活気にあふれていた。今は総べてあ
の世の人となった。その内の国吉真次は亦会いたい人なのです。真次は屋号『坂迎』サカンヶー坂を前にして家が建ってい
たのも,その屋号の言われである。彼はその家の四男として生まれた。父が働き者で一代で村一番の地主となった。朝早くから夜の暗くなるまで働くので村の評判にもなった、しかもあの頃は那覇の町とは4キロしか離れていて、若い男は那覇の遊郭に遊びに行くのが男としてのたしなみであった。遊郭はチ-ジと読ばれ薩摩に戦領されて後も尚繁盛して、1500人程の遊女を抱えていたと言われていた、薩摩のひどい税金の取立でと家族が病にでもなったら、女子を8歳の頃から貧しい農家は遊郭に売りに出したと伝えられていた。、遊郭には母親代わりの女子の世話をするアンマー主がおって、みっちり芸を仕込んだようだ。遊郭は日本から来る官史を接待いたり、商売の駆け引きなど、お祝の披露なども行なわれた。それに チ-ジに約十数家所のアンマーが軒を連ねて10人以上の遊女を抱えていた,ひいきのお客さんが東南アジャなどから持ち帰ってきた珍しい食べ物や、日本のお客さんなどの」漬け物などが常に用意されていて、お客さんの酒のつまみに出されたようで、那覇から村に帰った男たちは、村にない珍しい食べ物のある事を語り合うので男達の遊び心を沸きたてるのでした。夜にもなると遊郭を挟んだ通りは三味線の音と沖縄独特の唄が聞え、ある家からは遊女の笑い声が聞えて男を誘惑するのでした。貧しい沖縄の人々にとって男の羨望の場所だったようだ。。真次の父はそのような場所にも出入りせず、黙々と貯蓄して村一番にのし上がったようだ。子供のしつけは厳しく特に金銭面は正しく、人の恩は忘れてはならないと言われていた。真次が18歳にもなると隣村の親戚の娘マツ子さんを嫁に迎えた。そんな訳で遊郭での遊びも経験がなくて結婚した。。多分父が厳しいので一人前になっても小遣いをやらなかった。その代わり夫婦は朝早くおきて薩摩芋を掘り起こし、よい薩摩芋をせり分けて那覇に売りに持っていき、稼いだお金の20%はマツさんに渡すのでした。長女と次女が生まれても自分で自由に出来る金は渡されづ、子育てに不自由を感じたらしい。何時になっても独立出来る目当てがなくブラジルへ移民を申しこんだ。外国で働きお金を貯めて父ほどの土地を買うのが望みだった。二人の子を連れての外国での働きは手間ばかりと父母に預けて長男をつれてう移住した。ブラシルには先輩で一族の牛さんが8年前に移住して土地をもっていて、牛さんが引受人になって相談がまとまり、1933年の3月の末にカンバラの牛さんの土地にたどりついた。早速自家用にと二羽の庭鳥と二匹の豚をプレゼンとされて前途を祝ってくれた。
家はパルミツト造りの小屋をあてがわれた。夜になると星も見えて残した二人の子のことを思って涙があふれた。
2ヵ年牛さんで働いたあと沖縄から持ってきた資金と牛さんから残りを借りて6アルヶ-ルのブラシル人の土地を買う事が出来た。。
長男は日本にも国籍があるにも拘らず、ブラシルの国籍も取り入れた。すぐに次男が生まれて、長男が子守りをするようになった、それでも夫婦で働かねばならず,洗濯用のバシャーを持って畑に出た。幼い子を寝かせて共に働いた。子供があまり泣くので行ってみると蟻にかみつかれていた。其の後はおんぶしてエンシャーダを引いた。土地が余にも細長く不便を感じて売り代えた。新しい土地は学校には遠いけど土地は作物がよくで来た。新しい土地には一アルヶ-ルのパ-ストを柵で囲い牧草が良く伸びて、多くの豚を放し飼いで育てた 。4人ものカマラーダをいつも使っていた.マツさんが豚肉を盛り込んだ豊かな食事を整えるので、使用人は何年もいついた、時間外にもマンジョカを掘つたり。薪を割ったり手伝ってくれた。一人者達の使用人には良くしてくれるマツさんを母のように慕った。彼らはマツさんにドナ、マリャと呼ぶようになった。子供達は隣の子供達も混じえて遊び、昼頃には日本のてんぷらをマツさんは区別なく皆にあたえた。真次は区別ない子達の教育が不安でならなかった。いつも頭の中には日本へ帰った時も困らない日本語の教育がしたかった。
子達が日本語よりもポルトガルになついていくのに苛立ちを感じた、もともと日本人魂を植え付けられた真次はブラジル人の品格は受け入れがたかった。頭には日本人は一等国民でブラジルは後進国との観念があった。真次は何事にもけじめをつけたがるので妻の振る舞いに顔を赤くして、短気を起こす事が良くあった。真次の気性が正しさを求める故か、よく同県人と口論した。それでもよく後輩移民を
世話した。自分の弟夫婦も呼び寄せ、土地の世話や子供が学校に行くため預かって世話した。マツさんは自分の3人の子と甥の3人と6人の子を学校や洗濯等の世話で、てんてこ舞でした。それい外にも100頭近くの豚の餌を与えたりで忙しかった
戦争にもなるとブラジルは日本の敵国となりキンタクルナと呼ばれ、日本人学校生徒をいじめた。真次も日本への思いは断ち切れず沖縄が激戦地となったのを、残した子と母の事とが気になって、眠れぬ日が続いた、幸い長女は日本からの最後の移民として甥と共に移住してきた。次女は真次の母一人だけ残すのがいたたまらず沖縄に残る事にした。戦争も終わり真次は沖縄に帰るのを諦め二人の男を大学に学ばす決心をした
敗戦の沖縄へ慰問品を送る事も始めた。戦後まもなく沖縄訪問して沖縄の親族から一番食糧に困った時、慰問品を受け取った事を親戚が喜んで御礼をのべた、その頃沖縄はまだ敗戦から立ち直っていなかった、沖縄にはもどれなかったけど錦をかざって故郷に帰ったような思いがした。沖縄の親戚はブラジルの気候を聞き,無肥料でなんでも作物が出来るのに羨望を感じて、ある人は自分の長男も移住再開したらよこすからお願いしますと頭をさげた、世話好きの真次はもちろん肯定した。真次自身が本当に人種差別もなく、気候も良く移住してよかったと思うからでした、それでも沖縄の慣わしは捨てがたく夜になると三味線をとりだして沖縄民謡を歌うのが常でした、亦大学に学ぶ子達から観ればブラジルの観念からはずれた、点があっても父を尊敬して相容れた、移民再開と共に安儀なる青年が真次のもとへ移住してきた。安儀は戦争で父をなくした後、中学卒業後一家の後を継ぎ農業をした、。若いときから家長として村の共同作業に参加して、大人達の村の昔話しや、沖縄の伝説なども聞かされ、よく話し好きな青年でした、安儀の母は真次の従姉妹で真次の娘と結婚出来れば良いがと思っていた、真次もその事をうすうす感じていたので、娘が婚約中の男性と早く結婚させたかった、娘はブラジルの中学卒で気品と美しさを備えていた。安偽はとても及ばない相手だと悟った。そのようないきさつを娘の婚約者の信吾は安偽の男らしさが気にいって、自分の妹を安儀に紹介した、新移民で資産のない移民に妹を託すには兄としても強い決断が必要だった。安儀を頼りに3家族の一族が移住してきた。其の後戦後移住者だけで奥地に原始林を購入して開拓に、カンバラの町を出て行った、二人の息子は大学卒業して歯医者として開業した。農業は自分までときめて、其の後土地は借地に出して、長男家族と悠然たる生活を送る事ができた、金婚式は10人の孫にかこまれておこなわれた。

家族の絆

  家族の絆
N H k のテレビヲ観て日本の大都会でアパートに一人暮らしの 老人が誰とも交際もなく家族との絆のきれた人の多いことに驚いた、豊かな生活で便利な世の中で家族の絆が失われた社会に、哀れを感ずるのです。その様な老人も日本経済成長、華やかな時に地方から大都会に移り住み、両親の承諾なしに結婚して仕事に終われて地方の家族との連絡もなく、夫婦のどちらかにも先立たれて一人ぽっちになった人です。とくに体の自由もきかない人は、電話で食事を取り寄せて、部屋いっぱい塵でうまり、管理人が部屋を訪ねると二三日前に亡くなっていたことを知る様になる、引き取り人もなく、無縁者として葬られるのです、余にも発展した社会の人として,あってはならない家族の絆が失われているように思われる、
その点沖縄人はまだまだ家族の絆は守られていると感ずる。もともと以前は、沖縄は日本で最も貧しい県で家族構成の多いので有名でした、朝食は大きい鍋にたくさんの芋を炊き、お膳に盛り家族全員囲んで、皮をむいて味噌しるで喉の詰まりを流すのが常食でした、それでも一家は祖父母から孫までが円満でした、祭日になると仏壇に供えるご飯や餅や豚肉や魚で家族は腹いっぱい食べるので、待ちどうしいほどでした。畑が少なく次男以下は日本か海外に出稼ぎにでるのが慣わしでした。出稼ぎにでても古里の親兄弟が忘れられず、正月やお盆に帰るのが待ちどうしく、歯を食いしばってお金を貯ええて持ち帰り。親兄弟の喜ばすのでした、帰ると祖母はたくさんの芋てんぷらを揚げて親類や近所の人も加わり、地酒で賑わって、祖父母のわが子の手柄を称えるのでした。
沖縄人には仏教は浸透していないけど、どこの家にも祖先を祭った仏壇があり、先祖の亡くなられた人々の位牌が置かれている、家族や一門はお正月やお盆にはお参りに来て、家族の大切さを身につけるのです、これが家族の絆として古里を離れても
自分の後ろには家族が控えていて悪い事でもしたら、家族全部の恥だとしていつも肝に銘じてるのです、ブラジルにおける沖縄人も同様で大家族がおおく、親子三代ひとつ屋根に住んでいるのが多いのです。
私の家族にも次のようなことがありました。わたしの家族も大家族ですけど
総てが思ったよりも容易く、国立大学に入学したのです、7番の女の子が大学入学してまもなく大変な事が起こっていたのです、上の娘の夫が突然田舎の町の我が家に現われた。何の用かもわからず、母や妻は涙を流していた。まず母がきりだした、わたしが二十歳のとき出稼ぎにいって、お前を身ごもった、おんなじことが七女にも起こったのです、学生でありながら恋愛して身ごもってしまった、母はきっと娘は死にたい思いでいるからいって抱きしめてやりなさい、と言ったのです、
自分のあの頃を思い浮かべての事でした。。私は早速娘に会いに行きました
彼女を抱きしめた時、彼女は声を出して泣きました。私は言いました、心配するな神からの思し召しだ、皆で育てるから後で皆で振る舞を考えよう。と別れた
娘も安心したようでした、不安で食事も通らないと体にも悪く生まれる子にも悪い、と」先ず親子とも健康で良い子を産んでほしいと願った。先ずどのような男なのか知りたかった。知りえたのは彼も医か学生で親の仕送りで学校に通うっているとのことで、まず結婚は無理で、たとえ結婚したとしても幸せになれない、先ず良い道は結婚して離婚する事、生まれる子に父を認知してもらうことでした、私の孫が父の知らない孫であってはならないようにしたのです。私自身が父なし子として育ち運動会や卒業式にいつも一人でいたから、家族の大事さを感じていたので、孫にはその様な思いはさせたくなかった。孫は健康に生まれて、我が家で育てることにした、娘も嫌な思いも忘れて、子育てに一生懸命でした、私も孫の顔が見たく、仕事から早く帰るのが待ちどうしかった。このように私の母や夫婦や姉妹によって暖かく育てられた。娘もCaixa economica federalに就職して、隣街の大學に入学して、子育てと仕事と夜学と三つの仕事を20歳の若さでこなし、法科の過程を卒業して労働裁判所で働く事ができた。親として不憫でならない、けど娘は案外平気でいる、大家族であったのが皆出て行ってその娘だけが親と一緒に住んでいるけど。わたし夫婦も年ですし、私達のために神が与えた道なのかと思うのです。その孫も今年大學卒業して職についてる、自分の孫ながら誰よりも優れた人間性を持った男なので卒業式にはその父親にも会って話す機会があった。はじめのショックを受けた時にはその父親を恨んだりもしたけど、彼も立派な人物で、学生時代経済的にも支援していつも電話で話し合い親子の絆を保っている。つい最近には父の両親にも会い、孫は母方と父方家族との絆で守られ、母違いの二人の妹もおり、あれ程不憫に思われた孫が誰よりも愛されるようになったのも家族の絆の賜物だと思うのです
2010年4月24日国吉真一

2011年6月8日水曜日

 大陸

 大陸
日本列島の南の島沖縄は日本でも小さい島で、第二次大戦で焼き払われ戦後アメリカの支援のもとに復興をめざしていた、上原安雄は日本から引き上げて、母は生まれ育った家を引き継ぎ、その家で農業で生計を経てていた。安雄の上に二人の兄がおり、下に妹がいて。母一人の働きで生活していた、安雄は友達もみな貧しいので苦にはならなかった、高校一年になった時、ブラジル大陸に住む叔母から手紙がとどいていた、手紙にはブラジルは果物が豊富で作物は肥料も入れずになんでもよく出来て気候も沖縄と変わらないとあった。家族の写真もそえてあった、叔母家族は安雄が七つのとき、今安雄が住んでいる母の実家に住んでいて、親子三人ブラジルに永住した、その家に安雄の家族が住む事になった、安雄は自分の家族が貧しいのと沖縄の現状を比較して、なんて貧しい島なんだろうと思うようになった。それ以外にもアメリカに占領されて自由がなかった、高校を卒業しても軍作業以外に仕事がなく、学生時代からアメリカの軍用地立ち退き運動に参加する学生は共産主義者だとしてのレッテルが貼られて仕事にありつけないとの噂が広がっていた、現に安雄も運動に参加していたので卒業後の不安があった。学生生活は楽しかった特に安雄は背が高く運動家で、丁度、その頃、風と共に去るのアメリカ映画がロングインして男の主人公が体格といい安雄に似ていると、女生徒からもてはやされていた、ある日ブラジルの叔母から一通の手紙と従兄弟の信吾兄さんの結婚写真が送られてきた、貧しい沖縄ではみられない、素晴らしい結婚写真だった。信吾兄さんは高校三年のとき中退してブラジルへ移住したのでした。安雄はブラジル大陸で暮らしたいと思うようになっていた、丁度その頃もう一人の叔母家族がブラジルへ移住する事になった。安雄は自分一人でも叔母家族と一緒に移住したいと思い、その事を母に相談した、母は安雄が家族と別れて外国にやるのは乗り気ではなかった。それでも、もし成功すれば残りの家族も行けると思い承諾した。そのことを友達に伝えた、友達は外国に移住することを羨ましくもあり。苦労するだろうと哀れみにも思った、女子同級生は憬れていた安雄がブラジルへ移住の話しを聞いて騒ぎ出した、安雄に好意をもっていた正子は安雄に近づいて話しかけた、安雄さんブラジルへ行くって本当ですか。。安雄はこんな沖縄の小さい島にいても将来」が見えないんだ。と答えた、すると、正子は私の叔父さんもブラジルに戦前移住してカンピーナス市の郊外に住んでいるんです、何かトマトを栽培しているとの手紙がこの前来ました、私も外国に移住したいからブラジルで会いましょうね。 その翌年学期の終了前の二月に神戸向けに沖縄の那覇港を離れた、家族との別れるのは辛いけど、大陸に夢があり、古里の島に未練はなかった。神戸に着くと移民収容所で4日間滞在してブラジルの事情やポルトガル語の会話を習得した。ついでに別れて暮らしていた父にも会った、育てていない父なので悲しい気持ちは湧かなかった、。35日の旅を終えてサントスの港に接岸されて、多くの同船者と友達になっていたので、別れもつらいけどお互いの前途を願って下船して別れた。ドックには従兄弟の信吾兄さんが迎えに来ていた、写真で見たよりも色がやけて瘠せていた。長い船旅でお疲れでしょうどねぎらってくれた。早速入国手続きを済ませてパラナへの汽車に乗った。翌朝,信吾の農地に着いた。安雄は自分の想像していたのと異なりがっかりした、沖縄では各家庭に電気があった、ここはランプで明かりかともされた、
安雄の想像では信吾は労働者を使い優雅に暮らしていると思った、実際には信吾が先頭に三人の労働者をは使って一緒に働いていた、
隣の土地も買って借金していた。一緒に来たm松田叔母家族は持ってきた資金と信吾の保証で土地を買い地主となった。安雄は翌日から一緒に畑に出た、草取りをしながらも沖縄におれば学校で楽しくしていたのに、自分の夢が甘かったのに悔し涙がでた。もう来てしまったんだ、頑張らねばと自分に語った、。案外日曜は仕事は休みなので信吾兄の馬に乗ってあちこち散歩した。馬にのっている時はアメリカ映画を思い出していい気持ちになった、ある大農場まで行くことにした、道の両側に椰子の木が植えてあり、200メ-トル位行くと多くのレンガ屋が並び労働者の住宅のようで、その上の方にはレンガを敷き詰めた広いテレーロがあり、中央には立て横にレールが強いてあった、そのレールは下の大きな倉庫の屋根の中に繋がっていた、前に進むとプリマヴエラの花に覆われた正門に出会った、安雄は船旅で覚えたポルトガル語であいさつをした。
。なんとか手まねで日本から来てまもなけど、農場が見たいと言った、すると馬に乗った若い女性が現われた。会話のやりとりを聞いて後からついて来いと手招きした。女は農場主の豪華な邸宅をまわり、そこにはテニスコートがあり、プールもあって石が敷き詰められていた。そこをぬけると黒い実のなる木やマンゴが植えられて大木になっていた、ぬけていくと大きな人工池の前に出た、。
、池の辺には桑の木が植えてあり実が塾すると池に落ちるのが魚の餌になっていて、あちこちで魚の跳ねる音がして、輪をなして静かな池にひろがっていった、ぼんやりと池をみつめていると安雄に、女は声を掛けて前へ進もうと手招きした。始に来た道にきて正門で別れを告げた、指を七つ出して次の日曜にも来るようにと話している事を察した。帰りの中でこんな大きなブラジルの農場にびっくりした。古い移民は皆ファゼンダで働いたとは、あの様な大農場だったのだのだ、従兄弟の農場も沖縄に比べたら非常に大きい。その何十倍もファゼンダは大きく、まるで風と共に出てくる大地のようだと安雄は思った、やっと外国に来た感がした。次の日曜が待ちどうしくて働くのも苦にはならなかった。信吾兄さんにその話しをすりと多分支配人の娘だろうと語った、でも用心しさいよ、ブラジル人女性は浮気ものだとの話しだからとだけ言った。、この大農場には昔日本移民がおって、其の後パラナの奥地に自分の土地原始林を買って今は地主になったのだと信吾兄さんは話してくれた。戦後も日本人移民も受け入れていて低地は日本移民が米を作っていた、この前と同じ時間頃農場を訪れると彼女は馬上にまたがり待っていた、ポルトガル語でこんにちはと挨拶して彼女が走ろうと手招きした。そして彼女は走り出した、果てしないコーヒー園を4キロも言った所に駅があった、駅を乗り越えると、また果てしない砂糖キビ畑になり原始林の山を過ぎると遠い所に煙突から煙がでていた。安雄はどこまで来たのか方向が解らなくなっていた。帰ろうとしても安雄には帰る道もわからず彼女のあとに従うほかなかった。彼女はそれでも前へ進み、とうとう製糖工場まで来てしまった。工場内に入るとが彼女の知り合いらしい人がきて工場内を案内してくれた。煙や湯気の中を多くの歯車が音をたてて回転していた,お腹がすいたのので砂糖きびをひろい沖縄のように歯でむいてかじった。それを見た彼女の知り合いの男は二人を職員休憩室に案内してくれた、室にはランチが用意されていて、彼女もコ‐ヒーとランチを食べた。安雄は時計をみると3時をすぎていて時間のたつのが早く感じられて、彼女に時計をさしてうながした帰りは馬を走らせて家に着いた時には5時を過ぎていた。信吾の妻、明子は馬から落ちて怪我でもしたのではないかと心配していた。信吾は落ちたなら馬だけでも帰ってくるはずだと、妻に言い聞かせて安心させていた、安雄は製糖工場まで行ったことを語った。信吾はまだ製糖工場に行った事のないことを語り。沖縄と比較して規模の大きさ,砂糖きび農場が沖縄全体と匹敵する面積だと農業の規模が比較できないと語った。
6月になると24日にはファゼンダで日本移民主催のサアン、ジュアン祭りが行われる事になっていた.かンバラ日系人が集まることになった。安雄も信吾兄と一緒に行った、信吾兄さんが一人の女性を、妻明子の妹君子と紹介してくれた。信吾は別れて別の青年と話していて、安雄は君子と二人になったので君子に話し掛けた。貴女は日本語がうまいですね、日本人と変わらないよと言った、君子は答えた、田舎に住んでいる時に植民地の日本学校で学んだ、母が小学館を取ってくれたのでいつも読んでいた。今もノルマ‐ル学校行く傍ら日本学校にも通っていると話してくれた、続けて君子は話しかけた、この大農場にいたマリーナさんはサンヂエゴへ留学しにアメリカへ行ったのよ安雄さん知っているでしょう。安雄は誰なのマリ‐ナはと聞いた、君子は貴方と一緒に馬で製糖工場に行ったあの女よ、彼女は私と一緒に学校に行っていたの、でも彼女は多くの男学生と交際して、お父さんが留学させたの。でも向こうでも何を仕出かすかわからないのよ、安雄さんは日本に好きな人いたんでしょう、特別に好きな女性はいなかったよ、友達はたくさんいたけどと安雄は答えた。そして君子は自分の家庭を語った
。話しによると、年は15歳で自分より3歳年下とわかった、将来先生になると語ってくれた。そして信吾兄さんと結婚した明子姉さんの事を話してくれた、信吾兄さんと姉は従姉妹で私の母は信吾兄さんの父の妹で、母は結婚して姉と私と弟を残して父は事故で亡くなった、それで母は明子は勉強中でしたが、やめて父の仕事のあとを継いだのです、一つの土地は整理して信吾兄さんに売り残りの半分の土地の3000本のコ‐ヒはブラジル人にまかせ、残りは親子で経営していた、明子は家事を受け持ち母は使用人と一緒に畑仕事に出た、たまに信吾兄さんも手伝いに来てくれた、亦日曜には薪を割りに信吾兄さん来てくれた、このような信吾さんに明子はほのかな愛を感じていた。でも従兄妹どうしは禁じられた愛であることは解っていた。よく母の家に遊びにきた、理由は母が主婦の友を取っていたので,借りたのを返しに来ると母といつまでも話しに夢中になっていた。食事の支度をしていた明子は信吾と話しがしたくてならないのに母に奪われてしゃくに障っていた。何とか話す機会がないかとつい会話の中に入った、ねー信吾さん、ポルトガル語勉強しないかと誘った、私が教えてあげるからと言った、信吾は大喜びでポルトガル語が不自由を感じていると言った。じゃ夕食後家にきてと約束した、その晩から早速明子の家に行った、先ずその頃レヴィスタの写真つき会話のあるドラマを読まされた、それを日本語で語って聞かせた、明子は日本語も上手に話せた、信吾は貴女は日本語の先生にもなれると褒めた。ずうっと学校辞めずに勉強したら良かったのにと信吾は言ったら、でも信吾さんも学校止めてブラジルに来たんでしょう、でも僕は大陸の外国に憬れていたんだ、沖縄は小さい島で人口が多すぎる、それで貴方の父もブラジルへ移住したんだ。
会話中も明子はじいと信吾を見つめていた。目と目が会うと明子はにっこり笑った、笑いの顔には澄んだ目と日本人女性特有の優しさがあった、信吾も明子に何かを感じていた、でも明子は僕の従姉妹なのだ、小さいとき一緒に育たなくて親戚の感じがなかったのが、しずかな愛を膨らませていた,でもあってはならないとは知りつつも燃えるばかりだった。ある時借りた本を返す時明子の手が僕の手の上に触れた、その動作がわざとのようでもあり、彼女が信吾を見つめて抱きついてきた。信吾も望んでいたとはいえ狼狽した、二人とも初めての抱擁と口づけをした。残りの家族は眠りについていた、二人は夜の一時になり信吾は別れを惜しんで帰った、寝床についても眠れなかった。翌日明子は母に信吾さんを愛している事を告げた、母は自分が財産もない貴女のお父さんと結婚して苦労しているので財産のある二世と結婚するのを望んでいたと語った。あの頃は皆男は一世ばかりで皆財産はなかった、いまは土地をもった家がたくさんおり二世はあまり働かなくても生活は豊かだからね。お母さんは私に楽をさせたいのね、でも二世はのん気で希望をもっていないの、信吾さんは世界の事何でも知っている、頭がよくポルトガル語を覚えるのも早いの、大農場主になる希望をもっている。お母さんは私たちが従姉妹である事に世間態を心配していると思った。と明子はいった、でも沖縄では従姉妹同士の結婚はよくあることだと言った、其れは嫁さんがいつも付き合っている家だと馴染みやすいから嫁さんの苦労が少ないからと言った。それではお母さんは私達の結婚は反対ではないんだね、ありがとうお母さん。でもお爺さんと信吾のお母さんが承諾したらですよ、結婚についておじいさんは反対した、世間態がわるい。信吾はまだ来てまもなく、どうも頭が良いので田舎に住み着くとは限らない結婚したら大都会に行くかも知れないよ、結婚するんでしたら今から別れて独立して自分で生活しなさいと2年めに別れて小さな5アルヶ‐ルの別の土地に住むようになった。それ以外にもおじいさんが信吾家族を呼び寄せたのは信吾の父が少年の頃沖縄に残してブラジルに移住していて、育てないのでその償いを戦争で苦しんでいる孫の信吾のめんどうを見てあげたいとの思いがあった。だけど祖父母は昔の沖縄のしきたりをそのまま残しもっていた。亦信吾は戦後の民主主義の教育を受けて自由に発言して対立していた。そような、理由を君子は安雄に話した、ブラジルにきて四年目に信吾と明子は結婚式をあげた。明子は信吾が日本におれば先生になれたのにブラッジルで農業するなんて可哀相だと言ったら、ブラジルに来たから素晴らしい貴女と結婚出来たのだよ、明子は立派な男性信吾に愛されてこんな幸せはないと言った、安雄が見た美しい結婚写真は明子の父の一部分の土地と祖母の土地を買って苦労していたんだと安雄はさとった。でもブラジルはインフレーがひどく土地も毎年上がり信吾兄さんの先見と努力に感心していた、結婚後も信吾は明子の母の土地も監督するようになり。明子の母は残り二人を学校に通わせながら縫い物をして町に住むようになった、日曜に、なると安雄は良く町に出た、もちろん君子と会うためだ、年もまだ若いので信吾は安雄が失恋でもすると日本に帰るのではないかと心配だった、ある日町に用のついでに明子の母に安雄と君子の愛について語り合った、母は別に心配はない、若いから、たとえ結婚しなくとも良き思い出になるし、愛は人を成長させてくれるので年を取った時に良い思い出になると語られた、成る程と思った
信吾は君子が先生になるなら街で生活するので町の仕事を覚えたほうが良いので、安雄に町の仕事を見習いなさいと進めた。クリチーバの町で写真を見習う事になった。二人は離れた後も手紙をやり取りしていた。二人の愛情はふくらかに結びつつあった。二ヵ年後カンバラの町で写真屋を開業する事になった。仕事も起動にのり君子も先生の職についたので日系人に祝福されて結婚した、信吾兄さんの結婚写真を見てから10年の年月が流れていた、信吾兄さんは4人の女の子が生まれていた、明子は子育てにおわれた。信吾兄さんは亦土地を買い仕事に一生懸命だった、安雄は家庭をもって憬れた大地に根を下ろすのだと家庭をもった喜びを味わった。、
     2009年  12月 4日   国吉真一





本命 国吉 真一
生年月日 1,932 年12月 2日
住所cambara rua otavio bernadeli 948
   parana

2011年6月6日月曜日

寿命

寿命
世界的に人間の寿命が延びている。有り難い事ですけど。社会の負担が増えるのは当然です。結婚した頃二十代で六十代まで働き定年「アポゼント」するまで四十年長い年月と思っていた。
私が糖尿病を患っているのを知ったのが四十代で後二十年は働かねば成らないので体を維持せねばと思っていた、六十代になったら
アポゼントしても良いと思った.ところが人間の平均寿命も七十五歳になっていた。私達の寿命は家系にもより、遺伝的な宿命もあるようだ、自分の家系をみると、母方の姉妹は四人とも八十八歳まで長生きした、父方は祖父が癌の病気故六十で他界した、自分がアポゼンタしたら、誰かが養ってくれている結果で社会は成り立っていると思うようになった。
結局自分で決めた老後をどう生きるか変更せねば。社会の負担が働く人にのしかかると僕は思っている。亦働く事が寿命も延びて、生き甲斐も生まれる相互扶助の役割を果たしていると思う、
現在自分は八十代で周りの知人は殆ど他界している。体格の良い病気を持たない人でも、もう此の世にいないから神が与えた寿命のように思われる。それとも体が丈夫でなく、医者通いするのが健康維持しているともいえる。現在では百歳まで生きるのも不可能でなないようだ。
百歳まで生きるとしたら、僕が八十代でまだ二十年生きねば成らなくなる、僕は大腸を手術して十センチほど短い、大腸は体の重要な働きで、体に必要な養分を作り出す機能を果たしている、アレルギ―を抑えたり、糖尿病を抑えたり、体の水分を維持したり、体の需要な役割のようだ、糖尿病が腎臓にタンパク質が消化されず負担をかけているのも専門医者が説明してくれた
体の健康についてはテレビや本などからある程度、理解できた
体の健康は維持できたとしても、老人に付きまとうボケはどのように防ぐか考えてみた、記憶力を増す意味で仕事上、支出収入を記憶して無駄を省く、頭を働かせる。本を読んだりして想像の世界を
広げる、近頃想像したのが次のようだ
私達は人魚の話を本などでみている、しかも確実に上体は女性である、実際に実物はありえない話だ、生物の世界はオスとメスからできている、メスの人魚がおればオスの人魚も当然実在しなければ生命はなりたたない。頭に或る記憶では、この世界に生命が現れたのが、暖かい海からだと言われている、先ず単一生命が発生して進化を遂げてオスとメスの機能をもった生物が生存して植物と動物に進化したと考えられる
その中間の生物もいまだい生存している、どうしてメスの人魚がうまれたのか想像すりと、男性が創り上げたと考える、現在だと作者の著作権などに触れたけど、ただ男性は波が打ち寄せる海辺に或る石を見て想像したのではないかと僕も想像する。人間も進化を遂げた生物でたまに進化の逆もドリして、自分がオスかメスはっきりせずメスを入れて生まれ変わったり、同性結婚したり、するのが出てくる

遺伝と進化を考えた時;現在の若い世代が四五歳のときからパソコンなどから学ぶ豊富な知識が遺伝に繋がると、人間を取り巻く環境は変化している、遺伝にも変化が現れ、優れた才能を持った人物が現れると想像する。現に将棋の世界では天才が出現している