2011年5月9日月曜日

戦後移住者の植民地

悲惨な第二次世界大戦を生き残り、戦後の貧しい生活に苦しんだ沖縄の人々が、ブラジルの大地に夢を抱いて60年代にパラナ州のカンバラ市に旧移住者を頼って移住してきた。初めは旧移住者の歩合作として働き、植民地は二世や若い一世移住者で、日本とブラジルの文化の交流が行われ、日本語の先生も戦後移住者で子供たちにとってもよい機会でした。失われた戦争時代の空白が蘇ってきた。
戦後移住者にも自分の土地を持ちたいとの機運が高まり、400キロ離れた奥地クルゼイロ・ド・オエステの手前に約300アルケールの原始林を購入し、戦後移住者が15家族、旧移住者8家族で植民地を造り上げた。
第一に入植したのが新城安義家族と仲田昇家族で、先発隊として6人の男子だけで汽車に乗り、食料と伐採道具と衣類を持って終着駅のマリンガ市で降り、トラックの荷物の上に載せてもらい夕方現地にたどり着いた。まず仮小屋で一夜を明かし翌日から境界線に沿って道を開けることから始めた。
人類未踏の原始林、太古に眠る森を開くことに、開拓の斧を入れることになぜかしら自分も旧移民同様な経験を味わうことに意義を見出した。1キロくらいの所で谷に出会い、橋を架けて上の方に家を建てることにして材木が運ばれ、二家族の住める家を建てた。一応準備が出来たので2人を残して残りは帰ってきた。2人はその後も山切り人を使って土地の半分を開拓して家族を呼び寄せた。
3年後には殆どが移住してきた。山焼き跡にタピオカやサツマイモ、トーモロコシを植え家畜を養う準備をし、陸米も蒔き食糧の準備を整えた。地形の低い方に綿を植え、上の方にコーヒーを植えて3年後の収穫を夢みていた。幸いにも5キロ離れた所に古い移民が見事なコーヒーを栽培しており、教えてもらうことが多かった。
移住者の中から初めて犠牲者が出た。切り倒した木の下敷きになり死亡したのです。一家の働き手の主人を失い家族は途方にくれた。それでも皆に励まされ、15歳を頭に開拓に挑んだ。
初めてのコーヒー収穫に大きな望みを託したときに霜が降りて絶望し、植民地から出てゆく家族も出始めた。とかく沖縄県人は歳も若くよく働いて古い移民の評判になった。家族総出で古い移住者のコーヒーを収穫して、ブラジル人に負けない働き方をした。
6、7年後にはブラジル銀行から融資を受けることも知り、トラックなども持つようになっていた。
子供も生まれ植民地に多くの二世が誕生した。日本で小学生だった子供は5キロ離れた小学校に入学した。中学生だった子は開拓に参加した。それでも家庭では文芸春秋や中央公論、現代などをとり、中学生だった子供も大人向きの本を読み知識欲を満たしていった。
生活が楽になると、子供の教育のことも考えて母と子供が町で暮らすようになった。
植民地を出て行った家族の土地を買い、それでも止らずパラグアイにも4家族で土地を買い牧畜を始めていた頃に、子供の結婚相手が少ないことに気づき、売り払ってサンパウロへ移転し、植民地で生まれた子達に勉学の機会を与えた。ある二世は弁護士に、ある二世は医者に、商業にとあらゆる分野で活躍することが出来た。なかにはミナス州に渡り大コーヒー園を経営するのもおり、変わっているのは21歳で日本に帰り、勉強しなおし、昼は働き、夜学で工業高校を卒業して設計事務所を開き活躍してるのもおります。
植民地開拓は努力心、人間の大切なことを教えたようです。

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