人間は一人または一家族だけで暮らして生けるもの
のではない。常にグルップを作って生活してきた。
植民地時代でも誰かがリーダになり植民地の
道路や学校建設など協議する為に集まった。
リーダーは人望があり資金的にも余裕があり、また
年齢からして経験を積んだ人が率先して、学校が
無ければリーダの家に集まった。
集まると故郷をしのんで語り合った。
集まった主人たちの出身地は異なっていても話は
通じるのでした。出身地の沖縄では結マールの言葉
があって.どこの部落でも行われていた。
リーダは街へ出かけて情報を集めて人々に知らせる
役目も背負っていた。街では他植民地の日系家族も
食糧を買いに来るので情報を得ることができた。
会話は主に農作物の出来具合や値段や取引先など
意見を交換していた。例え他府県でも日系人は
同朋国民故に助け合っていた。必要に迫られ街に
に日本人の集まる場所日本人会が組織され
寄付を集めて会館ができた。
会館は各街毎に出来て日本語学校も経営された。
一時期は日本から先生も派遣されていた。ブラジル
は外国移民。特にイタリヤやポルトガル移民が大いのに
彼らは自国の学校や会館などはなく、ブラジル国に
溶け込んでいて、国の言葉や自分の先祖さえ判らぬほど
ブラシル国民に成りきっているのに、日本人は優越な
国民として同化せずお金儲けだけを考えていた。
時代は変わり日本語で話し合った会話もポルトガル語
に変わりブラジル人との結婚も容認されてミスチソ
が日本学校にも参加した、。時代は二世の会長に変わり
何とか運営されている、