2014年12月20日土曜日

定め



マリアナは大人になって母から、次のような話を

聞かされた.多分お前たちに日本人並みの生活を

させて、良い相手と結婚させるのを夢に描いていた。

然し運命と言うか、定めは乗り越える事のできない

運命だった。例えばこのビーラに店を構えても買う

人々は貧乏人で無理にお金を催促することはできなかった、

またお父さんも手助けになるような人ではなかった

それで一家は郊外のビーラで暮らすしかなかった、

いまでは定めだと思っている

なにか娘にすまない事のように話した、マリアナは

町の郊外「ヴィーラ」に生まれ育った。

町の中央までは一キロもあり、八歳の頃町の市制

七十年祭に母と一緒に学生のパーレ-ドを見て初めて

セントロを知った。

その日は各団体のバラカが設けられていて日系

婦人のバラカもあった

母はバラカに働く婦人達と親しく話していたけど

マリアナにとってはみんな知らない人ばかりでした

また多くの日系人に出会うのも初めてだった

母が女子青年だった頃は皆と付き合っていたと語って

くれた

母の若い頃は植民地に住んでいて生活も皆とも同じで

偏見はなかった。夫の靖男とは両親同士の話し合いで

見合いして結婚が決まった。

靖男はまじめで日本人の求めている手本のような

青年に思われた。日本語も立派で母の直子マリヤとは

日本語で語らい会った。目が不自由で近眼だった、

その理由は子供の頃爆竹を鳴らしたとき、

不発にも手の元で爆発して目を傷めて、

その頃は町に専門の医者もおらず、おきざりに

したのが原因だと母のマリヤは話してくれた。

そのことが結婚後の生活に不自由をきたすとは

思ってもいなかったようだ

靖男の家族は直子を嫁に迎えたことに安堵して

いることを率直に直子に話した。

結婚して靖男が生活力もなく農業には向かず

町で暮らすことになった。直子の父がヴーィラに家を

買い求めて結婚生活を始めることができた

その後マリアナが生まれたマリアナは日本語の

名前は久子とつけたけど家族だけが呼んでいた。

回りはブラジル人の友達でマリアナと呼んでいた。

母のマリヤは裁縫を身に着けていたので生活の糧は

母が工面した。暇が出ると敷地の後には空き地があり

野菜も作り、漬物も作って、食べきれないのは近所

のブラジル人にも安く売った。

それ以外にもセントロでよい模様の生地を見つけて

子供服を仕立ててヴィーラの白人家族が買い求めた

ヴィーラの母達は貧しいながらも子供も多く抱えていた

母のマリャはヴィーラでは知識があり尊敬されて

いた

近所の主婦の相談相手にもなっていた.たとえば

如何にしたら避妊することが出来るかも相談してい

たそのことは夫の靖男はカトリック信者で毎日曜

にはミッサを欠かした事がなかったので。

マリャが避妊の話をもちだすと夫の靖男は

カトリックの教えに反すると思わしくしなかった。

マリアナは小学校を卒業するとすぐ会計事務所に

働いた、

十四歳なので一人前の給料を貰う事は出来なかった

それでも母は喜んだ

年齢は満たなくも仕事は一人前以上にこなした。

雇い主のアントニオは日本人は数学がうまいと褒め

称えた。

十八歳になった時にブラジル銀行の採用試験があり

見事合格した。弟の二人も昼は民間銀行に勤め夜学で

中学を卒業した。

その後弟の二人もブラジル銀行に合格して三人兄弟姉

がブラジル銀行に働き、町の話題にもなった

その後兄弟姉三人でセントロに家を買い求めて移り

住んだ

母のマリャはやっと日本人会の婦人部に入会して人並

みになったと喜んだ。

日本人会では母の日にマリヤが貧しくとも子供を立派に

育てたことに、模範の母として表彰状を会場で

渡し会員から拍手が沸いた。

マリヤは生まれて初めて皆から認められたことに

誇りを持ち始めた。今までの苦労や子供たちの

努力もすべて神を信じて神様が与えてくれたと

夫婦は思った

夫の靖男は尚一層感謝のお祈りを捧げた

マリャは夫の無能さで誠実だけでは生活できないことを

程よく知っていた

夫は商売にも向かず。ただ靴を減らしてヴィレッテを売り

歩き、幾らかの収入を得ていた

目の不自由さにヴィーラの労働者が買い求めて

くれた

あるとき靖男は今夜羊の夢をみた。このヴィレッテ

はヴィアドだよと話しかけた。それを聞いた農夫が

全部買っていった

そのヴィレッテが当たった。自分のことのように

嬉しがった。

忘れた頃にその農夫が靖男の家に現れ貴方の勧めで

買ったのが幸いにも当選した。

その十パッセントをあげると四千クルゼイロを置い

ていった

そのとき始めてマリャは夫の靖男の正直を褒めた。

今まで人前で夫の無能さをののしっていたマリャもそのご

小言を言わなくなった。

人の前で夫をけなすマリャも内心夫の誠実を心の

糧として愛していることを知った。商人が嘘を

平気で何の良心もなく物を売りさばくのを知って

いたから、無能な夫の誠実を頼もしく思われた。

マリャは風邪を引いて寝込んでしまった病院に

入院したけど肺炎に悪化して一週間で他界して

しまった

葬式にはヴィーラのお友達が現れてマリャの死を

惜しんだ。ブラジリャに住む弟達も現れて

母の歩んだ今日までの苦労や努力を称えた

マリアナは今後父を誰が面倒見るか、どうしても

父一人では生きていけないことを知っていた

誠実な父をマリアナは尊敬していた。これも定め

られた運命なら自分が父の最期を見届けようと

決心した。

自分が三十五歳にもなり幾つかの縁談もあった

けど両親だけおいて結婚するのに踏み切れず

適齢期も過ぎてしまった

少女の頃が思い出された、家向かいのアンドレー

と友達になり一緒に学校にも行った、数学の宿題

はマリアナが教えてやった、またアンドレーの

自転車の後ろに乗り汽笛が鳴るとよく見に行った

汽車がお客を乗せて通ると手を振って見送った、

お客さんも答えて手を振った。通り過ぎるとまた

汽笛がなり帰途へついた。

駅は五百メートル位で、夜など汽車が通ると

ゴトンゴトンと家まで響きマリアナはアンドレー

と駅で手を振ったのを思い出すのだった

アンドレーの父は運搬業者でカミ二オンを家の前

に置いて、ある時はいつも野菜の空箱を持ち帰り

アンドレーは空き箱を利用して遊び道具を作るのが

上手だった

マリアナの家の裏に鶏小屋があり父と一緒に空き箱

を使って修理もしてくれた。

マリアナは手先のうまいアンドレーに父が持ちえない

男の手わざの良さを見出すのだった。

ある時は肥料の落ち毀れた車体を掃いたゴミを

マリアナの母の野菜畑に持ってきてやった。

マリアナは思いやりのあるアンドレーに初恋の感情

を抱いていた。

アンドレーの父はヴィャジの帰りには土産に黒糖

『ラパヅラ』と地酒『カシャシャ』を持ち帰り街角の

ボテコに卸していた。労働者は仕事の帰りにバールに

より珍しい酒を珍味するのが好きでいつも満員して

いた。

たまにアンドレーがバールによるとFIHLO DE―

PATRAOと呼び寄せ、お前の父の酒は飲め、

うまいぞと父を褒め称えたことなどもマリアナに

語った。

マリアナは職場の男性を見て皆、中産階級に

育っていてマリアナのような労動者の暮らす

社会は知らなかった。

男の同寮達は結婚していて、生活維持に月給を

前借していて生活疲れで輝かしい男は見当たら

なかったので。アンドレーや父のマリオのような

学力がなくても生活力のある男がたのもしく

思われた。

入社当初は張り切っていたマリアナも定年が

近づくと意欲もなくなり毎日を与えられた職を

こなすのみだった

マリアナは母の一周忌のミッサを行なうに

当たって、ブラジリヤの弟も参加した

ついでにブラジリヤに住むアンドレーの近況が

知りたかった。

マリアナがセントロに住むようになってから

アンドレー家族もブラジリヤに引っ越した。

従妹のロ-ザから建築に携わっていることを

聞いたのが三年前、今では立派な建築士なって

いるのではないかと想像するのだった

早速その話を弟に持ち出すと想像以上に成長して

いた

話によればビルデングのトイレのタイル張り

を自分で発明した道具を使うと、三倍も仕事が

はかどり四人の使用人を使ってビルデングの

トイレを請け負っていて、名の知れた請負士だと

語ってくれた。マリャは初恋の男が自分の弟の

ように嬉しかった。

マリアナが思い出すのは親子三人でオランブラの

花の博覧会に行ったのが家族の良い思いでと

なっていた。

母は珍しい見たことがない花をみて夫に語り

かけていた。

農業の部門で日本人が優れていることは認めて

いたけど、オランダ人は日本人より上だと感心した

その後母は野菜や洋裁はせず、ひまをもて

あましていたのを機会にランを集め始めた

集めたランが四十種類にもなっていた。

父はランの花をみつめて亡きマリャを思い出して

いるように思われた

マリアナが思い出すのに父が一言でも小言を

言ったことがなかった。

そのような父をマリアナは不憫でならなかった。

人間誰しも不服はあるはずだ。自分の不満も

言えずに父は耐え忍んでいたのではないかとも

思ったりもした。もしそうであったら開放された

父は安堵しているかも知れないとも思った

人間だれも心の窓をのぞくことは出来ない。

あるいは天にいるマリヤにありがとう。

幸せだったと語りかけているかも知れとも思った  おわり

       おわり