2011年5月9日月曜日

母への想い


亡くなった母を思うと自分にとって大きな支えであったことは確かです。自分の体の一部分が削られたような思いがするのです。
母の60代までは私の仕事やあらゆることに意見を述べていた。その意見は日本で得た体験や常識に基づいたもので、ブラジルや新しい時代に沿うものではなく、よく対立していた。私と母はよく口論した。それは何事にも反発する癖で、何事にも参加し私を自由にさせなかった。
小さい時から私は叱られて育ったような気がする。
私が小学生の頃、学生服を着たまま海へ行き、服を脱いで泳いでいる間に満ち潮になり服をさらって行ってしまったので、裸で家に帰った。母は苦心して買った新しい服なので、その時はだいぶ殴られたので覚えておるのです。またある時は母から郵便局に本土への慰問品を送りに使いに行ったとき、途中で遊んでいる子供たちに加わり、お金をなくして送らずに帰った時散々に叱られた。一度は祖父の大事なものを壊し、二階にある米場所に閉じ込めようとして階段を上がる時に私が暴れたので一緒に落ちた。私が六年生の終りの頃、私とあと5人が農林高校へ受験に行き不合格して散々叱られた。でもあの時は私を勇気づけて欲しかった。
そのようによく考えてみるといつも叱られていたように思われるのです。そのことは私にとってよかったのではないかと思っている。
母は若い頃から家長として父母を助け、家計を守り、時には名護の税務署まで行き所得税の交渉をしたこともありました。ある時は沖縄が台風に見舞われ、芋の苗が枯れて中部まで行ったこともありました。また台風のときは茅葺の屋根が心配で隣の男の人に縛ってもらうこともしばしばでした。
そのようなことが家長として気苦労だったと思われるのです。終戦の頃はいち早くヤギを飼い、その頃は家畜も少なく高い値段で売れ、それで新しく瓦葺の屋根に改造することが出来た。 それには戦
争で壊された中部地方の古いかわらを集め、山から源助兄さんとふたりで材木を切り出し使われた。その頃私は15歳でした。

家長としての責任、結婚しても夫婦としての生活を送れなかった母は自分自身にいつも不満を持っていたのではないかと思われるのです。
母は小学生のころ頭もよく優等生でそれが勝ち気にして、家長の役割を演じ、安さんが家事を受け持ち、私に優しい母の思いがあるのでしょう。ブラジルに於いても母は日本の新聞を読み、政治やスポーツにも詳しく、特にフットボール(サッカー)は好きで、選手の名前を殆ど覚えておりました。ドラマは現実でないと初めから否定していました。母は孫たちの面倒もよく見て、オムツを替えたりお風呂に入れたり、下の孫が生まれると一緒に寝るのが常でした。孫の寝つきが悪いと眠れなかったと愚痴をこぼしていました。
母は私と一体になり、畑仕事や家事と忙しい毎日でした。それゆえか亡き後も孫たちは忘れることが出来ないようです。現実としてもう会えない母ですけど、思い出すたびに懐かしい。母は私達一家を引っ張った機関車だったのです。

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