2011年6月26日日曜日

しあわせ

老人の枠にはいり、自分の幸せについて考えてみた。自分自身の満足度が幸せにつながるのではないかと思う。毎日毎日が平和で、特別の悩みがなければ幸せを感じなくても、幸せのうちだとおもう。先ず家庭が円満で自分の現在おかれている事に満足しているかも要因だと思われる。自分を取り巻く人間関係とか、自然環境も幸せの要因だとおもう。いくら自分の家庭だけ円満でも親戚関係がよくなかったり、隣近所とうまくいかなかったり、亦自然環境が住みにくい所だと幸せとはいえない、満足度にも差があり余に貧しくとも、反対に余に金持ちでもなく、極平均的な生活を維持できるるのが生活の満足と言えそうっです。農業には色々のタイプの人がいて、過去の移民の中にも始は自分自身がエンシャーダを引いてやったのが殆んどでした、そのご仕事が大きくなるにつれて使用人と一緒に働くようになり、後には使用人まかせで経営するまでになったのが殆んどです。移民には学問のある人は自ら農業に携わるのは殆んどなかった。自ら労働者と共に働くのは限られていた。俺は経営者なのだとの自負があったのでしょう、。そのなかで私は自ら鍬を取り経営者としての自覚を持ちたいと実行してきた。他人に言わせるとこんな安い賃金で労働者が雇えるのに自分で汗を流す必要もないではないかと言う。農業経営者でも正等な賃金を払って経営できるのが経営者だと思っている:
体の為にも運動のつもりで鍬を取りますけど長時間体力が持たないのが現実です。農業者は社会の進歩の速さに取り残され易いですけど、いろいろの話しを聞いたり。新聞を読んだり、本を読んだりして遅れないようにしてるのです。自然の中での農業は考える時間がたくさんある。つい幸せについても考えてしまう。私達の持っている感は人により大きな差があるようで、例えばきれいな花を見て胸の躍るような人は好きな人に見せてあげたいとか、俳句を作ることも考えるでしょう、化学的に見れば花は蜂をひきつけ、花粉を媒介させて自分の種を結ばせて生存を保つと考えるでしょう。あらゆる物ことに関心をもち、感動したり。悩んだり、驚嘆したりして
。私たちは生きている事に幸せを感ずるのです。若い頃は、ただ子育てと高等学校までやるのに一生懸命で、幸せについて考えたことがなかった。子育ても終えて生活にゆとりが出来て、やっと幸せを考えるようになった。世界の誰もが幸せになりたいと思っている。幸せな人は困っている人や病気で苦しんでいる人をみると何とかしてやりたと思う。それは人情で自分の心が痛むのでほんとうとの幸せでは
ないと思われるからです。併しこのような人々に比べて自分がなんと恵まれているかを知り、神に感謝の念にわくのです。夫婦や親子関係にも何らかの小さい争いや、反対意見があるのは当然で、ないとしたらむしろ刺激や反省もなく、喜怒哀楽もないでしょう。私、夫婦は一世とニ世で妻への労わりがないので不満もあるようですけど。もう年のせいでもあるのでいまさら変わる事がないと諦めており不満を通り越しているのです。『子の世話し、夫ツマ』も世話して、満足げ}若い頃は夢があり、実現できるようがんばった、年と共に夢はなくなった、毎日毎日が平和で健康に恵まれたらこんな有りがたいことはないと思っている、寒い日や疲れたときにお風呂に入り体をほぐすと何処かの温泉にでもいるような感じがして、エネル-ギを消費して、もったいないけど幸せを感じるのです。先日娘とバイャまで4日の旅行をした、サルバドルの果てしない海辺を歩き気の遠くなるような海原を眺めると、経済や政治の腐敗の現実を忘れてしまう。水中メガネをかけて岩の小魚を追うと小さい頃の古里の海を思い出して幸せを感ずる、誰かの言葉に、生まれたるは死ぬまで生きる事なりと書いてあった、当たり前で生きる事の難しさを語っている、、会うは別れの始まりだともといった、たしかにその気がする、毎日毎日が別れに近ずいるのです、その毎日を大切に生きたいとねがうのです、

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