2011年6月24日金曜日

移民二話 あの人に会いたい

僕が移住した1951年頃はカンバラの街には沖縄県人の四,五十代の戸主が30名ほど住んでいて活気にあふれていた。今は総べてあ
の世の人となった。その内の国吉真次は亦会いたい人なのです。真次は屋号『坂迎』サカンヶー坂を前にして家が建ってい
たのも,その屋号の言われである。彼はその家の四男として生まれた。父が働き者で一代で村一番の地主となった。朝早くから夜の暗くなるまで働くので村の評判にもなった、しかもあの頃は那覇の町とは4キロしか離れていて、若い男は那覇の遊郭に遊びに行くのが男としてのたしなみであった。遊郭はチ-ジと読ばれ薩摩に戦領されて後も尚繁盛して、1500人程の遊女を抱えていたと言われていた、薩摩のひどい税金の取立でと家族が病にでもなったら、女子を8歳の頃から貧しい農家は遊郭に売りに出したと伝えられていた。、遊郭には母親代わりの女子の世話をするアンマー主がおって、みっちり芸を仕込んだようだ。遊郭は日本から来る官史を接待いたり、商売の駆け引きなど、お祝の披露なども行なわれた。それに チ-ジに約十数家所のアンマーが軒を連ねて10人以上の遊女を抱えていた,ひいきのお客さんが東南アジャなどから持ち帰ってきた珍しい食べ物や、日本のお客さんなどの」漬け物などが常に用意されていて、お客さんの酒のつまみに出されたようで、那覇から村に帰った男たちは、村にない珍しい食べ物のある事を語り合うので男達の遊び心を沸きたてるのでした。夜にもなると遊郭を挟んだ通りは三味線の音と沖縄独特の唄が聞え、ある家からは遊女の笑い声が聞えて男を誘惑するのでした。貧しい沖縄の人々にとって男の羨望の場所だったようだ。。真次の父はそのような場所にも出入りせず、黙々と貯蓄して村一番にのし上がったようだ。子供のしつけは厳しく特に金銭面は正しく、人の恩は忘れてはならないと言われていた。真次が18歳にもなると隣村の親戚の娘マツ子さんを嫁に迎えた。そんな訳で遊郭での遊びも経験がなくて結婚した。。多分父が厳しいので一人前になっても小遣いをやらなかった。その代わり夫婦は朝早くおきて薩摩芋を掘り起こし、よい薩摩芋をせり分けて那覇に売りに持っていき、稼いだお金の20%はマツさんに渡すのでした。長女と次女が生まれても自分で自由に出来る金は渡されづ、子育てに不自由を感じたらしい。何時になっても独立出来る目当てがなくブラジルへ移民を申しこんだ。外国で働きお金を貯めて父ほどの土地を買うのが望みだった。二人の子を連れての外国での働きは手間ばかりと父母に預けて長男をつれてう移住した。ブラシルには先輩で一族の牛さんが8年前に移住して土地をもっていて、牛さんが引受人になって相談がまとまり、1933年の3月の末にカンバラの牛さんの土地にたどりついた。早速自家用にと二羽の庭鳥と二匹の豚をプレゼンとされて前途を祝ってくれた。
家はパルミツト造りの小屋をあてがわれた。夜になると星も見えて残した二人の子のことを思って涙があふれた。
2ヵ年牛さんで働いたあと沖縄から持ってきた資金と牛さんから残りを借りて6アルヶ-ルのブラシル人の土地を買う事が出来た。。
長男は日本にも国籍があるにも拘らず、ブラシルの国籍も取り入れた。すぐに次男が生まれて、長男が子守りをするようになった、それでも夫婦で働かねばならず,洗濯用のバシャーを持って畑に出た。幼い子を寝かせて共に働いた。子供があまり泣くので行ってみると蟻にかみつかれていた。其の後はおんぶしてエンシャーダを引いた。土地が余にも細長く不便を感じて売り代えた。新しい土地は学校には遠いけど土地は作物がよくで来た。新しい土地には一アルヶ-ルのパ-ストを柵で囲い牧草が良く伸びて、多くの豚を放し飼いで育てた 。4人ものカマラーダをいつも使っていた.マツさんが豚肉を盛り込んだ豊かな食事を整えるので、使用人は何年もいついた、時間外にもマンジョカを掘つたり。薪を割ったり手伝ってくれた。一人者達の使用人には良くしてくれるマツさんを母のように慕った。彼らはマツさんにドナ、マリャと呼ぶようになった。子供達は隣の子供達も混じえて遊び、昼頃には日本のてんぷらをマツさんは区別なく皆にあたえた。真次は区別ない子達の教育が不安でならなかった。いつも頭の中には日本へ帰った時も困らない日本語の教育がしたかった。
子達が日本語よりもポルトガルになついていくのに苛立ちを感じた、もともと日本人魂を植え付けられた真次はブラジル人の品格は受け入れがたかった。頭には日本人は一等国民でブラジルは後進国との観念があった。真次は何事にもけじめをつけたがるので妻の振る舞いに顔を赤くして、短気を起こす事が良くあった。真次の気性が正しさを求める故か、よく同県人と口論した。それでもよく後輩移民を
世話した。自分の弟夫婦も呼び寄せ、土地の世話や子供が学校に行くため預かって世話した。マツさんは自分の3人の子と甥の3人と6人の子を学校や洗濯等の世話で、てんてこ舞でした。それい外にも100頭近くの豚の餌を与えたりで忙しかった
戦争にもなるとブラジルは日本の敵国となりキンタクルナと呼ばれ、日本人学校生徒をいじめた。真次も日本への思いは断ち切れず沖縄が激戦地となったのを、残した子と母の事とが気になって、眠れぬ日が続いた、幸い長女は日本からの最後の移民として甥と共に移住してきた。次女は真次の母一人だけ残すのがいたたまらず沖縄に残る事にした。戦争も終わり真次は沖縄に帰るのを諦め二人の男を大学に学ばす決心をした
敗戦の沖縄へ慰問品を送る事も始めた。戦後まもなく沖縄訪問して沖縄の親族から一番食糧に困った時、慰問品を受け取った事を親戚が喜んで御礼をのべた、その頃沖縄はまだ敗戦から立ち直っていなかった、沖縄にはもどれなかったけど錦をかざって故郷に帰ったような思いがした。沖縄の親戚はブラジルの気候を聞き,無肥料でなんでも作物が出来るのに羨望を感じて、ある人は自分の長男も移住再開したらよこすからお願いしますと頭をさげた、世話好きの真次はもちろん肯定した。真次自身が本当に人種差別もなく、気候も良く移住してよかったと思うからでした、それでも沖縄の慣わしは捨てがたく夜になると三味線をとりだして沖縄民謡を歌うのが常でした、亦大学に学ぶ子達から観ればブラジルの観念からはずれた、点があっても父を尊敬して相容れた、移民再開と共に安儀なる青年が真次のもとへ移住してきた。安儀は戦争で父をなくした後、中学卒業後一家の後を継ぎ農業をした、。若いときから家長として村の共同作業に参加して、大人達の村の昔話しや、沖縄の伝説なども聞かされ、よく話し好きな青年でした、安儀の母は真次の従姉妹で真次の娘と結婚出来れば良いがと思っていた、真次もその事をうすうす感じていたので、娘が婚約中の男性と早く結婚させたかった、娘はブラジルの中学卒で気品と美しさを備えていた。安偽はとても及ばない相手だと悟った。そのようないきさつを娘の婚約者の信吾は安偽の男らしさが気にいって、自分の妹を安儀に紹介した、新移民で資産のない移民に妹を託すには兄としても強い決断が必要だった。安儀を頼りに3家族の一族が移住してきた。其の後戦後移住者だけで奥地に原始林を購入して開拓に、カンバラの町を出て行った、二人の息子は大学卒業して歯医者として開業した。農業は自分までときめて、其の後土地は借地に出して、長男家族と悠然たる生活を送る事ができた、金婚式は10人の孫にかこまれておこなわれた。

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