2011年10月2日日曜日

年を重ねて思うこと

外国に移り住んで六十年にもなり、若い頃に抱いた夢もなくなり、毎日元気で暮らしている事に、神に感謝している
回りの知人も殆ど他界して、次は僕の番かもしれないと思うこともある、過去を振り返ると日系社会の変化を感じる。
名の知れた日系人のファゼンデイㇿも姿をけして、若い二世には名前さえ思いだせないようだ。移民の初期にコㇿ二ヤの中で自分だけが土地がなく、あれ程にも欲しかった土地が。意味を持たない、其のことは生存した証にはなるけどいずれ自分の亡きあと人手に渡る運命にある。それでも農業をやる以上土地が資本であり、自分の可能性をふるう場でもある、生まれた故郷に比べて、土地は豊富にあり大きい面積を持ちたいとの野心も若い頃にはあった、子供の教育を第一に考えたら野心は自然と消えて行った。多くの仲間たちが街の仕事に変える中、自分だけが取り残されたようにも感じる。ただ農業に熱中すれば、ボケるのも遅く、現代から取り残されずにいることはできる。戦後移民の仲間達は殆どが職場から離れている、しかし良く観察すると現代から取り残された感がある、まずポルトガル語が読めない。また現代の必要なコンピウターも扱えない、其のことはまさに次の世代の子弟との繋がりが無いのは悲しい、この事は次の世代に資産を残す事よりも大切のような気もするメールを通じて語り合うのも楽しい、最近のうそん誌の投稿者、マトグㇿソ州とメールの通信が出来た、なぜか私同様に妻は二世で、しかも遠いマトグㇿソに移住したのに関心があり、近日に会う約束が出来て楽しみにしている、年をとると足の運びもにぶくなる、頭は過去の記憶を思い出すのに熱中する、未来が見えないのは当然で今日元気でいることに感謝するのみである。最近はタブレットも購入して明治時代の有名な作家の著書を読んで時間を過ごしている

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