2011年7月9日土曜日

私と 農業組合

1970年代までは各町に、穀物仲買人が二三箇所あり農家に前貸ししたり、穀物を値段のよくなるのを待って預けたりしていた。
勿論資金が少なくなると払う能力がなく、泣き寝入りすることもよくあった。その不満から立ち上がったのが農業協同組合である、
あの頃は日本人の農業者が大部おり、その子弟の教育にも4Hクラブや農村振興会などが指導にあたっていた、パラナ州は大豆と小麦栽培で日進月歩で機械化が進み、また、小麦は政府の買い付けで組合を通じて支払われたので、他の町からも別の組合も進出して倉庫や販売所を設立して,穀物獲得競争に入った、丁度その頃、私も役員に選ばれた、もともと組合理事が組合の理念を外れて商業に走っている感じがしてならなかった、あの頃はインフレーが激しく、インスーモはどんどん上がり一方で銀行から融資を受けてストックしても利益がでた。肥料などはストックすると固まり機械で植える際にいちいち砕いて機械に入れた、人手が増える一方でうまく分配されなかった、ある総会で不自由なポルトガル語で組合の理念について,こう語った、組合は組合員の為の組合であって、組合の為の組合員ではない、組合の利益だけを求める為に古い肥料を売りつけるのは理念に反するといったら、組合員からの拍手が湧いて、次の選挙に役員に選ばれた
北パラナにはいくつもの組合が誕生した、農業に関係のない仕事で例えばスーパーやガソリンスタンド経営や運送業など一般実業家の仕事も経営して、組合員から集めた資金が別の方面に使われていった、経営が複雑になり従業員が増える一方で労働法の争いなどでも弁護士など、余計な費用が嵩んだ。その反面穀物を倉庫に下ろす仕事は自動化されずに多くの労働者を必要とした、そのようにコストが嵩み民間企業よりも利益が少なく競争できなくなった、そのような時にパラナ連合組合が中心に経費や不純物のデスコントを統一しようと試みた。私は会合で次のように発言した、、組合同士の競争はむしろ組合員にとっては良い事だ、組合の競争相手は組合ではなく、自由業者だ、組合は利益を上げるのでなく、経費を少なくして、利潤を上げるのが建前だと言った、亦一つの街に二三の組合が生存競争するのは経費の面で無駄がでるので総合する方が良いとのべた。理由として民間企業が生き残る為に結合など行なっているし、金融界の大物オラヴォ、セツバル氏は生き残る為にには必要とあらば一週間で金融業界を再編成できると語った、組合は1970年代にパウリネリ氏が組合法を創り挙げて以来今日まで何にも変わっていない、リダー達は自分の縄はりを守ろうとしているように受けとれる。ブラシルが世界優秀な農産物生産国ならば、輸出を取り扱うムルチ‐ナシヨナルのような巨大組織を組合が所有して欲しいと願うのです。其の後も貯蓄組合を設立し、私も参加して地方を訪問して、会合を開き、その必要性を説いた。まず昔のコロノの時代を思い出し、あの頃は食糧買出しに一ヶ月に一度、町へ買い出しに出た。ある家族は食糧が不足すると隣の家から借りて生活した、その連帯意識が田舎にあったのだ、貯蓄組合は其れと同じだと説いた。、お金の余っている人は組合に預けて、必要な人は借りてその橋渡しを組合が責任を持って、銀行と同じ仕組みであり。勿論穀物のように倉庫も要らず、雨の日も休みの日も利潤はあるのです、お金ですから理事の信用と責任感は大切ですと語った、このように組合関係に携わり、今日にいたっている,考えると私自身も多くの事を学んだ気がする、あらゆる方面での知人が出来た、農業営農にも支出と収入や会社のバランスも診る事が出来たのは大きな体験だと思っている、組合が組合員の穀物を抵当に低利子融資をうけて、資金を利用し抵当物件を売っても返さず資金利用する事も度々あった、融資を受けたお金が再融資を受ける際に私夫婦の保証のサインがいまだに残っており、私の加入の地方組合も、其の後北パラナで唯一の日系組合と結合して継続している、
そして何とか危機を乗り越えて、農業者の支えになっているので幸いだと思っている。2011年7 月10日  国吉真一

0 件のコメント:

コメントを投稿