2011年6月8日水曜日

 大陸

 大陸
日本列島の南の島沖縄は日本でも小さい島で、第二次大戦で焼き払われ戦後アメリカの支援のもとに復興をめざしていた、上原安雄は日本から引き上げて、母は生まれ育った家を引き継ぎ、その家で農業で生計を経てていた。安雄の上に二人の兄がおり、下に妹がいて。母一人の働きで生活していた、安雄は友達もみな貧しいので苦にはならなかった、高校一年になった時、ブラジル大陸に住む叔母から手紙がとどいていた、手紙にはブラジルは果物が豊富で作物は肥料も入れずになんでもよく出来て気候も沖縄と変わらないとあった。家族の写真もそえてあった、叔母家族は安雄が七つのとき、今安雄が住んでいる母の実家に住んでいて、親子三人ブラジルに永住した、その家に安雄の家族が住む事になった、安雄は自分の家族が貧しいのと沖縄の現状を比較して、なんて貧しい島なんだろうと思うようになった。それ以外にもアメリカに占領されて自由がなかった、高校を卒業しても軍作業以外に仕事がなく、学生時代からアメリカの軍用地立ち退き運動に参加する学生は共産主義者だとしてのレッテルが貼られて仕事にありつけないとの噂が広がっていた、現に安雄も運動に参加していたので卒業後の不安があった。学生生活は楽しかった特に安雄は背が高く運動家で、丁度、その頃、風と共に去るのアメリカ映画がロングインして男の主人公が体格といい安雄に似ていると、女生徒からもてはやされていた、ある日ブラジルの叔母から一通の手紙と従兄弟の信吾兄さんの結婚写真が送られてきた、貧しい沖縄ではみられない、素晴らしい結婚写真だった。信吾兄さんは高校三年のとき中退してブラジルへ移住したのでした。安雄はブラジル大陸で暮らしたいと思うようになっていた、丁度その頃もう一人の叔母家族がブラジルへ移住する事になった。安雄は自分一人でも叔母家族と一緒に移住したいと思い、その事を母に相談した、母は安雄が家族と別れて外国にやるのは乗り気ではなかった。それでも、もし成功すれば残りの家族も行けると思い承諾した。そのことを友達に伝えた、友達は外国に移住することを羨ましくもあり。苦労するだろうと哀れみにも思った、女子同級生は憬れていた安雄がブラジルへ移住の話しを聞いて騒ぎ出した、安雄に好意をもっていた正子は安雄に近づいて話しかけた、安雄さんブラジルへ行くって本当ですか。。安雄はこんな沖縄の小さい島にいても将来」が見えないんだ。と答えた、すると、正子は私の叔父さんもブラジルに戦前移住してカンピーナス市の郊外に住んでいるんです、何かトマトを栽培しているとの手紙がこの前来ました、私も外国に移住したいからブラジルで会いましょうね。 その翌年学期の終了前の二月に神戸向けに沖縄の那覇港を離れた、家族との別れるのは辛いけど、大陸に夢があり、古里の島に未練はなかった。神戸に着くと移民収容所で4日間滞在してブラジルの事情やポルトガル語の会話を習得した。ついでに別れて暮らしていた父にも会った、育てていない父なので悲しい気持ちは湧かなかった、。35日の旅を終えてサントスの港に接岸されて、多くの同船者と友達になっていたので、別れもつらいけどお互いの前途を願って下船して別れた。ドックには従兄弟の信吾兄さんが迎えに来ていた、写真で見たよりも色がやけて瘠せていた。長い船旅でお疲れでしょうどねぎらってくれた。早速入国手続きを済ませてパラナへの汽車に乗った。翌朝,信吾の農地に着いた。安雄は自分の想像していたのと異なりがっかりした、沖縄では各家庭に電気があった、ここはランプで明かりかともされた、
安雄の想像では信吾は労働者を使い優雅に暮らしていると思った、実際には信吾が先頭に三人の労働者をは使って一緒に働いていた、
隣の土地も買って借金していた。一緒に来たm松田叔母家族は持ってきた資金と信吾の保証で土地を買い地主となった。安雄は翌日から一緒に畑に出た、草取りをしながらも沖縄におれば学校で楽しくしていたのに、自分の夢が甘かったのに悔し涙がでた。もう来てしまったんだ、頑張らねばと自分に語った、。案外日曜は仕事は休みなので信吾兄の馬に乗ってあちこち散歩した。馬にのっている時はアメリカ映画を思い出していい気持ちになった、ある大農場まで行くことにした、道の両側に椰子の木が植えてあり、200メ-トル位行くと多くのレンガ屋が並び労働者の住宅のようで、その上の方にはレンガを敷き詰めた広いテレーロがあり、中央には立て横にレールが強いてあった、そのレールは下の大きな倉庫の屋根の中に繋がっていた、前に進むとプリマヴエラの花に覆われた正門に出会った、安雄は船旅で覚えたポルトガル語であいさつをした。
。なんとか手まねで日本から来てまもなけど、農場が見たいと言った、すると馬に乗った若い女性が現われた。会話のやりとりを聞いて後からついて来いと手招きした。女は農場主の豪華な邸宅をまわり、そこにはテニスコートがあり、プールもあって石が敷き詰められていた。そこをぬけると黒い実のなる木やマンゴが植えられて大木になっていた、ぬけていくと大きな人工池の前に出た、。
、池の辺には桑の木が植えてあり実が塾すると池に落ちるのが魚の餌になっていて、あちこちで魚の跳ねる音がして、輪をなして静かな池にひろがっていった、ぼんやりと池をみつめていると安雄に、女は声を掛けて前へ進もうと手招きした。始に来た道にきて正門で別れを告げた、指を七つ出して次の日曜にも来るようにと話している事を察した。帰りの中でこんな大きなブラジルの農場にびっくりした。古い移民は皆ファゼンダで働いたとは、あの様な大農場だったのだのだ、従兄弟の農場も沖縄に比べたら非常に大きい。その何十倍もファゼンダは大きく、まるで風と共に出てくる大地のようだと安雄は思った、やっと外国に来た感がした。次の日曜が待ちどうしくて働くのも苦にはならなかった。信吾兄さんにその話しをすりと多分支配人の娘だろうと語った、でも用心しさいよ、ブラジル人女性は浮気ものだとの話しだからとだけ言った。、この大農場には昔日本移民がおって、其の後パラナの奥地に自分の土地原始林を買って今は地主になったのだと信吾兄さんは話してくれた。戦後も日本人移民も受け入れていて低地は日本移民が米を作っていた、この前と同じ時間頃農場を訪れると彼女は馬上にまたがり待っていた、ポルトガル語でこんにちはと挨拶して彼女が走ろうと手招きした。そして彼女は走り出した、果てしないコーヒー園を4キロも言った所に駅があった、駅を乗り越えると、また果てしない砂糖キビ畑になり原始林の山を過ぎると遠い所に煙突から煙がでていた。安雄はどこまで来たのか方向が解らなくなっていた。帰ろうとしても安雄には帰る道もわからず彼女のあとに従うほかなかった。彼女はそれでも前へ進み、とうとう製糖工場まで来てしまった。工場内に入るとが彼女の知り合いらしい人がきて工場内を案内してくれた。煙や湯気の中を多くの歯車が音をたてて回転していた,お腹がすいたのので砂糖きびをひろい沖縄のように歯でむいてかじった。それを見た彼女の知り合いの男は二人を職員休憩室に案内してくれた、室にはランチが用意されていて、彼女もコ‐ヒーとランチを食べた。安雄は時計をみると3時をすぎていて時間のたつのが早く感じられて、彼女に時計をさしてうながした帰りは馬を走らせて家に着いた時には5時を過ぎていた。信吾の妻、明子は馬から落ちて怪我でもしたのではないかと心配していた。信吾は落ちたなら馬だけでも帰ってくるはずだと、妻に言い聞かせて安心させていた、安雄は製糖工場まで行ったことを語った。信吾はまだ製糖工場に行った事のないことを語り。沖縄と比較して規模の大きさ,砂糖きび農場が沖縄全体と匹敵する面積だと農業の規模が比較できないと語った。
6月になると24日にはファゼンダで日本移民主催のサアン、ジュアン祭りが行われる事になっていた.かンバラ日系人が集まることになった。安雄も信吾兄と一緒に行った、信吾兄さんが一人の女性を、妻明子の妹君子と紹介してくれた。信吾は別れて別の青年と話していて、安雄は君子と二人になったので君子に話し掛けた。貴女は日本語がうまいですね、日本人と変わらないよと言った、君子は答えた、田舎に住んでいる時に植民地の日本学校で学んだ、母が小学館を取ってくれたのでいつも読んでいた。今もノルマ‐ル学校行く傍ら日本学校にも通っていると話してくれた、続けて君子は話しかけた、この大農場にいたマリーナさんはサンヂエゴへ留学しにアメリカへ行ったのよ安雄さん知っているでしょう。安雄は誰なのマリ‐ナはと聞いた、君子は貴方と一緒に馬で製糖工場に行ったあの女よ、彼女は私と一緒に学校に行っていたの、でも彼女は多くの男学生と交際して、お父さんが留学させたの。でも向こうでも何を仕出かすかわからないのよ、安雄さんは日本に好きな人いたんでしょう、特別に好きな女性はいなかったよ、友達はたくさんいたけどと安雄は答えた。そして君子は自分の家庭を語った
。話しによると、年は15歳で自分より3歳年下とわかった、将来先生になると語ってくれた。そして信吾兄さんと結婚した明子姉さんの事を話してくれた、信吾兄さんと姉は従姉妹で私の母は信吾兄さんの父の妹で、母は結婚して姉と私と弟を残して父は事故で亡くなった、それで母は明子は勉強中でしたが、やめて父の仕事のあとを継いだのです、一つの土地は整理して信吾兄さんに売り残りの半分の土地の3000本のコ‐ヒはブラジル人にまかせ、残りは親子で経営していた、明子は家事を受け持ち母は使用人と一緒に畑仕事に出た、たまに信吾兄さんも手伝いに来てくれた、亦日曜には薪を割りに信吾兄さん来てくれた、このような信吾さんに明子はほのかな愛を感じていた。でも従兄妹どうしは禁じられた愛であることは解っていた。よく母の家に遊びにきた、理由は母が主婦の友を取っていたので,借りたのを返しに来ると母といつまでも話しに夢中になっていた。食事の支度をしていた明子は信吾と話しがしたくてならないのに母に奪われてしゃくに障っていた。何とか話す機会がないかとつい会話の中に入った、ねー信吾さん、ポルトガル語勉強しないかと誘った、私が教えてあげるからと言った、信吾は大喜びでポルトガル語が不自由を感じていると言った。じゃ夕食後家にきてと約束した、その晩から早速明子の家に行った、先ずその頃レヴィスタの写真つき会話のあるドラマを読まされた、それを日本語で語って聞かせた、明子は日本語も上手に話せた、信吾は貴女は日本語の先生にもなれると褒めた。ずうっと学校辞めずに勉強したら良かったのにと信吾は言ったら、でも信吾さんも学校止めてブラジルに来たんでしょう、でも僕は大陸の外国に憬れていたんだ、沖縄は小さい島で人口が多すぎる、それで貴方の父もブラジルへ移住したんだ。
会話中も明子はじいと信吾を見つめていた。目と目が会うと明子はにっこり笑った、笑いの顔には澄んだ目と日本人女性特有の優しさがあった、信吾も明子に何かを感じていた、でも明子は僕の従姉妹なのだ、小さいとき一緒に育たなくて親戚の感じがなかったのが、しずかな愛を膨らませていた,でもあってはならないとは知りつつも燃えるばかりだった。ある時借りた本を返す時明子の手が僕の手の上に触れた、その動作がわざとのようでもあり、彼女が信吾を見つめて抱きついてきた。信吾も望んでいたとはいえ狼狽した、二人とも初めての抱擁と口づけをした。残りの家族は眠りについていた、二人は夜の一時になり信吾は別れを惜しんで帰った、寝床についても眠れなかった。翌日明子は母に信吾さんを愛している事を告げた、母は自分が財産もない貴女のお父さんと結婚して苦労しているので財産のある二世と結婚するのを望んでいたと語った。あの頃は皆男は一世ばかりで皆財産はなかった、いまは土地をもった家がたくさんおり二世はあまり働かなくても生活は豊かだからね。お母さんは私に楽をさせたいのね、でも二世はのん気で希望をもっていないの、信吾さんは世界の事何でも知っている、頭がよくポルトガル語を覚えるのも早いの、大農場主になる希望をもっている。お母さんは私たちが従姉妹である事に世間態を心配していると思った。と明子はいった、でも沖縄では従姉妹同士の結婚はよくあることだと言った、其れは嫁さんがいつも付き合っている家だと馴染みやすいから嫁さんの苦労が少ないからと言った。それではお母さんは私達の結婚は反対ではないんだね、ありがとうお母さん。でもお爺さんと信吾のお母さんが承諾したらですよ、結婚についておじいさんは反対した、世間態がわるい。信吾はまだ来てまもなく、どうも頭が良いので田舎に住み着くとは限らない結婚したら大都会に行くかも知れないよ、結婚するんでしたら今から別れて独立して自分で生活しなさいと2年めに別れて小さな5アルヶ‐ルの別の土地に住むようになった。それ以外にもおじいさんが信吾家族を呼び寄せたのは信吾の父が少年の頃沖縄に残してブラジルに移住していて、育てないのでその償いを戦争で苦しんでいる孫の信吾のめんどうを見てあげたいとの思いがあった。だけど祖父母は昔の沖縄のしきたりをそのまま残しもっていた。亦信吾は戦後の民主主義の教育を受けて自由に発言して対立していた。そような、理由を君子は安雄に話した、ブラジルにきて四年目に信吾と明子は結婚式をあげた。明子は信吾が日本におれば先生になれたのにブラッジルで農業するなんて可哀相だと言ったら、ブラジルに来たから素晴らしい貴女と結婚出来たのだよ、明子は立派な男性信吾に愛されてこんな幸せはないと言った、安雄が見た美しい結婚写真は明子の父の一部分の土地と祖母の土地を買って苦労していたんだと安雄はさとった。でもブラジルはインフレーがひどく土地も毎年上がり信吾兄さんの先見と努力に感心していた、結婚後も信吾は明子の母の土地も監督するようになり。明子の母は残り二人を学校に通わせながら縫い物をして町に住むようになった、日曜に、なると安雄は良く町に出た、もちろん君子と会うためだ、年もまだ若いので信吾は安雄が失恋でもすると日本に帰るのではないかと心配だった、ある日町に用のついでに明子の母に安雄と君子の愛について語り合った、母は別に心配はない、若いから、たとえ結婚しなくとも良き思い出になるし、愛は人を成長させてくれるので年を取った時に良い思い出になると語られた、成る程と思った
信吾は君子が先生になるなら街で生活するので町の仕事を覚えたほうが良いので、安雄に町の仕事を見習いなさいと進めた。クリチーバの町で写真を見習う事になった。二人は離れた後も手紙をやり取りしていた。二人の愛情はふくらかに結びつつあった。二ヵ年後カンバラの町で写真屋を開業する事になった。仕事も起動にのり君子も先生の職についたので日系人に祝福されて結婚した、信吾兄さんの結婚写真を見てから10年の年月が流れていた、信吾兄さんは4人の女の子が生まれていた、明子は子育てにおわれた。信吾兄さんは亦土地を買い仕事に一生懸命だった、安雄は家庭をもって憬れた大地に根を下ろすのだと家庭をもった喜びを味わった。、
     2009年  12月 4日   国吉真一





本命 国吉 真一
生年月日 1,932 年12月 2日
住所cambara rua otavio bernadeli 948
   parana

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