2012年5月6日日曜日

随筆 人間と宗教

歴史上で古い昔から人間は宗教に関わたって生活している。日本ですと神は森や御嶽などに宿るとされて、宗拝の対象になっている。歴史の古いギリシャの神殿の跡を見ても人間は神を崇拝して生活してきたのです、現代でも殆どの国民が宗教の団体に属している。その反面若い者に宗教離れも起きている。またキリスト教でも新しい宗教がたけのこの様に現れて信者獲得に凌ぎを表して居るのです。特に低所得の層に信者が多いようです、では知識階級には宗教はどのように考えて居るのでしょうか、誰しも宗教について、議論するのはタブーとされている。現に知人とも語り合ったことが無いのです。人前で俺は無紳論者だと出張できない。その理由はこの人は野蛮人と受け取れないとも限らないからです、また自分の人生を確信持って無神論で生きることも出来ないのです。現に宗教によって起こっている問題をどう捉えたら良いのか迷います。回教徒の宗教の自爆テロ。自分の生命を無視する行為は考えられない。亦キリストの生存不可能な胎児を堕胎することも許さない宗教も一般の人びとには理解できない。古い政治体制が宗教に支配された国家で国民に自由がないのも悲しい。私自身ですと小さいときから沖縄の祖先崇拝が生活に取り入れて生活してきて、ブラジルでカトリックの洗礼を受けて子達と共に隣の人々とも社交的に関ってきました。色々な説教も聞きました。それでも熱心な信者にはなれないのです。説の中に病を治してくれるとか。家庭が円満でお金も授かるとか。またそれを受けるには余分なデシモを献上すべきとの話で終わるのです、
その点を考えると、低所得者や貧乏人ほど余計献金しているようです、私は無神論者でもないのです。古くは今日ほど医学や自然科学が進歩しておらず死ぬ人が多かった。神の保護を求めて宗教に縋ったのでしょう。また、迷いある時は神父や牧師の教えを乞うたのです。現在は精神心理医師の門をたたくのです。私は農業者として自然の影響を受けやすい。自分の力では出来ない天候や作物の値段の変動や使用人の健康など神様に祈る以外にはないのです。自分の都合だけで神に頼っている様にも受取れますけど、ただ深入りしないだけの事です、考えると人間は経済に恵まれ、家族に恵まれても自分の予測出来ないのが多いのです。
人間は弱い者なのですから神にすがるのだと思うのです。2012年4月

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