2012年2月4日土曜日

小説      相続人

僕には三つの顔がある。読者は誰も一つの顔しかないのにと不思議がる事でしょう。
その訳を次のように説明います。まず僕の名前は「仲間進」です。同じ名前が知っているだけでも三人はおる。しかし同じ顔は僕一人だけです。しかも顔は父母から授かったもので、勿論才能も技能も親から頂いております。人間の才能は努力によって磨かれていくと言われている。技能も努力すれば上達するのは当然です。僕はブラジル二世でブラジルの身分証明も持っている。でも日本で育った故にブラジル人の様にぺらぺらしゃべれない。どこか一世のようなアクセントがある、よくブラジル人は僕の事を おい ジャポネ―スと呼ぶのです、これが一の僕の顔です。それでも僕が日本人としてのアイデンテテだと考えるようになった。これは僕の第二の顔です。勿論小学校から高等まで日本語で学んだ。精神的にも日本人なのだ、小学四年の時戦時中で竹槍訓練や手旗信号も覚えさせられた、軍歌も歌えさせられた。沖縄ではまだ沖縄の方言が使われていて徹底して標準語使用の為に学校で方言を使う事が禁じられていた、方言で話すと方言札の罰金を施していた。でも家庭では祖父母始め僕との会話は沖縄語でした、それが僕の大三の顔で沖縄人の顔なのです。僕が小さい時兄と二人を沖縄の祖父母の許に返された。祖父母は先祖からの習わしをよく守り、一日と十五日には仏前にお茶を供えて家族の健康と繁栄を祈るのでした。祭日にはご馳走を供えてご先祖からの安泰を願う祈り事を沖縄方言で仏様に話しかけるのです。その家督相続の為に兄と二人の沖縄帰還でした。父は戦争が激しくなると帰れなくなるかも知れないとの計いであった、父が計画どおりお金がブラジルで儲かっていないのも一つの理由でした。
僕の祖父は村一番の財産家で田畑や山を所有していた。山の麓には田んぼが広がり裕福な家庭でした。山には川があり川には珍しい石ころが沢山あった。村人は名も宝山と呼んでいた。祖父は山を掘って宝が出たら村人も裕福になると考えて、村の人を雇ってトンネルを掘る事にした。一か月経ても出てこないので技術者を雇って土壌検査をして診て始めて、山には鉱山に相当する物質がないことを知らされた。その時には銀行にも多くの負債を抱えていた、僕の父は長男故に財産を整理して外国で稼いで取り戻す計画でブラシルに移住したようだ。
兄一人は心細いので僕も一緒に祖父母のもとえ返された。兄は戦争中に学徒出陣で死亡した。祖母は後に兄の遺骨を先祖のお墓に収めえぬことを嘆いたことを僕は憶えている。祖父は何時もわしの借金故に貴方の父は命拾いしたのだ。沖縄にいたら兵隊に取られて死んでいただろうと言われた、僕は、でも兄さんは沖縄へ帰らなければ生きていたはずだと答えると。なるほどねー。戦争はもういやだ、よくも子孫は平和なブラジルへ移住してくれた。その後しばらくして亡くなられた。村人が集まり、村のリーダ^として最大の葬式が行われた。高校卒業後祖母と共にブラジルに帰って来たのだ。先祖の財産は叔父たちが守る事に祖母は決めたていた。
僕の人生が沖縄の風習に振り回されてきて青年になった。僕の頭には小さい時白人の子と遊んだ記憶がある、僕の名前がマルコスだったのも友達は呼んでいたように覚えている、
僕には弟二人と妹が生まれていた。父は三男を歯科大学へ四男を農科大学へ妹も教育大学へ勉学させていた、僕もブラジルへ残れば大学へ行けたのにと、何かも兄弟と比較した。僕が今からでもポルトガル語を勉強せねばと考えるようになった。父は日本で中学を卒教していたので子弟の教育には熱心だった。植民地の日本語教育にもリーダとして尊敬されていた。戦争中は認識派として勝ち組から命を狙われていたと後で語ってくれた。僕が家を継がねば成らぬけど、どうも父と僕は弟たちの様にしっくりいかない事か良くあった。でも母とは打ち解けて話すことが出来た、僕が祖母の許で自由に育った故か、父が厳しいのか、とにかく溝が出来た、父もその事に感じていた、弟たちは僕から難しい日本語を理解しようと話しかけて来た、また難しいポルトガル語も教えてくれて、兄弟の中はしっくりしていた。でも、僕は兄弟に対して劣等感を持つようになった。ぼくは早くポルトガル語タッチしようと辞書を頼りに週刊誌や新聞などで勉強した。あるとき組合の講習にも参加した。講習では多くの戦後移住者と友達になった。隣の植民地のある女性とも知り合いになり、お互いに好意を持つようになった。彼女も二世で日本語がよく話せた、植民地のポルトガル語の先生をしていた。名前は加藤幸子で十八歳でした。たまたま僕宛に生徒に手紙を持たせてくれた。手紙には次のように書かれていた、進さん、突然手紙を差し上げてごめんなさい。私は進むさんが当地の二世と違った知識を持っているのは多分日本で育った性でしょうね。私は日本の事がもっと知りたいですお友達になりたいからお願いします、幸子よりとあった。僕は次のように返事をだした、二世ですけどあまりポルトガル語が話せないので、貴女から教えて戴くとありがたいですと、書いて、植民地の生徒に返事を持たした。僕は日曜日に彼女の家に遊びがてら行った、幸子の兄は僕を快く迎えた。然し彼女の父は良い顔をしなかった。それでも兄が幸子も呼び出して一緒に話すことが出来た。加藤家はコーヒーを引き抜いて綿を栽培していた、幸子の下にも三人の妹がいた、兄は小学校だけでて父を助けて働いていた。僕は沖縄の習慣により先祖の跡継ぎで沖縄へ返されて沖縄で戦争に遭ったことを幸子に語った。兄は日曜も綿畑の手入れに追われていたので、それでもまた会う約束をして僕は家に帰った。家に帰ると僕が佐藤家を訪ねた事が知れて、父は激怒した。その理由を次のように話した。佐藤家は戦争中勝ち組で、わしの命を狙うとした一人ですから交際していないと言われた。でも僕は反発した。戦争が済んでもう十五年にもなり、未だに日系人同志が和解できないのは自我をはっているだけで。二世の僕たちには人間の難しさは判らない。もし僕が好きになったらそれでも反対かと尋ねた。父は日本人の娘には沖縄の習慣は理解しないでしょうから。貴方はこの家の跡継ぎだから沖縄人の娘をわしが世話してやると言った。その事で次の日曜に家族で集まって会議を開いた。兄弟と妹は僕の味方になって父を説得した。祖母も沖縄でもヤマトンチュを嫁にした家がたくさんおると、父の考えが古いよと祖母も味方になった、母はあまり口だししなかった。仕方なく父は佐藤家へ足を運んだ。でも自分の方が正しいのに自分から和議を申し入れるとはと、内心納得できなかった。いかに話を持ち出すか考え出した。その理由を戦争が起した民族同士の争いに巻き込まれた故で、戦争は終わって俺の息子も一人は無事で帰って来たので過去の事を忘れて。子らの為にお互い力を合わせましょうと説明しようと考えた、それでも息子の進が兄弟と違って祖母の許で育てられたことへの思も込められていた。佐藤家では突然の仲間善三の訪問にびっくりした。始め長男が出てきてこの前貴方の息子の進に会い、頼もしい青年だと褒めた。善三も日本語はともかくポルトガル語が不十分でと返事した、そのとき父の勇次がでて、長い間のご無沙汰を詫びた。お互いに気も晴れて今後の農業について話を交わした。夕暮れに父は帰ってきて食卓を前に僕を読んで事の成り行きを話した、君がいなかったら俺たちは死ぬまで和解することが無かっただろうと述懐した。
その後僕は良く幸子に会った、沖縄の学生時代は僕が外国二世で村の友達ともあまり仲良くなれなかった。多分アメリカは北も南も同じように考えていたのだろう。幸子は戦争の話を聞きたがった。僕は食べ物が不足して自然の草木で毒のない者は何でも食べた話をした、会う度に僕の彼女を愛する気持ちが深くなった。一緒にいる時間が早く過ぎる感じがした。父は良いことは早める方が良いと佐藤家に相談に行き婚約の日取りを決めた。来年の一月の中頃であった。僕の父は幸子の父と会って結婚の会場を植民地の会館に決めて、日本語の先生を媒酌人と決めた。母は妹が街に住んで、空いた部屋を僕ら夫婦の部屋にあてた。
結婚披露に三百人の招待客が詰めかけた。まず父はわが子が戦争で生きて帰り本日お嫁を迎えることが出来た、戦争で出来たコㇿ二ヤの傷を埋めることができた。お互いに日系発展の為に手を取り合って行きましょうと挨拶した、また日本語の先生も仲間家の繁栄に皆で乾杯と万歳を三唱した、僕は幸子を抱きしめたい気持ちで早く終わればと思っていたら、弟が街にホテルを予約してあって一周間の新婚旅行にでかけた。僕は戦後移住者としては恵まれていた。幸子は相変わらず植民地の先生に自転車で通った。午後は家族の洗濯や家のあとかたづけに日が暮れていった、母も五人のカマラーダの食事に忙しく働いて、幸子のお蔭で少しは楽になった、僕が使用人と働き、父も少しは楽になった。幸子は、つわりで吐き気をもようし母は妊娠していることを告げて。あまり無理しない様にようにさせた。それでも学校は通った。幸子は自分の給料で出産の準備ができて僕も父から小遣いを願うことなく父は僕に一斎をまかすことになった。
祖母は女のひ孫出来たのを喜ぶと、すぐに他界した。父母も孫の生まれたのを幸いに沖縄訪問を計画した、沖縄の叔父の許に父の弟の遺族金が貯金されていて、また財産の整理もするので僕は、旅費を用意する必要がなかったので助かった。長女生まれて二年になると次女が生まれた。三女の生まれるとき難産で苦しみ、それが許で三女の洋子はミルクで育て幸子の回復を期待した。その後風邪がもとで肺炎を患い三人の子を残して他界した、僕は途方にくれた。長女の博美が4か月の妹奈津子のおしめを変えたりして手伝ってくれた、父母も年が重なり。使用人を二人にしていた。隣の白人から日雇いを入れて農場を運営した。また幸子のペンソンも市役所が出してくれたので、外人の女中を雇い入れた、僕が幸子の亡きあと苦労しているのを知って。幸子の兄は妹が幸子の後を継いで先生をしたのを幸いに、手伝いを兼ねて、僕の家から通う事にしてくれた。幼な子は皆に守られて成長した。父母が母国より財産を整理して、半分は弟の名義に変えて山は軍用地として毎年借地料が入るので残し、僕の故郷訪問にと銀行に預金することにしてあった、多くの資金を手に入れて祖父の遺骨も持ち帰って来た。農業経営も楽になり、弟二人の結婚にも余分のお金を分けてやり、土地は僕の名義だけにすることにしてくれた。僕の妹も務めており。結婚した時の支度金として銀行に預けてあった。父はある点では沖縄の風俗を守り、ある点ではブラジルの習慣を取り入れて、僕の兄弟妹を同様に配了した。父は御先祖の位牌に祖母が行って、いたように一日と15日と祭日をお祈りしていた、多分祖母の様に沖縄語で話さないけど心の中で同じことをお願いしているのだと僕は察した、僕は。理解ある父を尊敬した、時が立ち。父が去り、後を追うように母も去った。僕は自分が家に取り残されたように感じられた。形見の三女奈津子は母の幸子にそっくりであった。幸子の妹の玲子は長女とよく語り会っていた。僕の長女は玲子姉さんと呼んでいた、次女だけがむっつりしてなじまない。自分の母が恋しいのだろうと僕は感じた。ある日、一人の青年が玲子に会いにきた。何分兄さんからの紹介でした。玲子は恐れながら青年に会った話によれば隣街のス―パーの息子のようでした。でも僕は動揺して脈拍が早くなっていた。僕の何処かに妻にしたい思惑があったのだろう。でも年齢からみて15歳も隔たりがあった。なお死んだ幸子にも遠慮していた、僕が再婚に踏み切れないのは。またお産で苦しんだ幸子を思うと胸がせまって踏み切れないのでした。でも玲子のはつらつとした体を看ると、男の気持ちが揺さぶるのでした。僕は勇気を持って玲子の青年に対する意見を聞いてみた。玲子は次のように話してくれた、商売人は何でも皆お金に計算して考えるようで。ここまでTAXIで来てなんぼお金を払ったとか,ス―パーでは一日にいくらの金がはいるとかで、うんざりしたと答えた。僕はお金があれば楽なのでなんでも欲しい者が買える、貧乏人よりは良いだろうと内心嬉しいながらの質問をした。玲子は兄さんのような男はめったにいないのよ、博識があるし、思いやりもあるし素敵な男性だよね。僕は思い切って僕の妻になっても良いと思うのかと聞いた、玲子は兄さんが好きですと答えた。でも僕は15歳も年上でお前よりも早く死んだら早く未亡人になるんだよと言った。でも人間の運命だれも知らない。幸子姉さんだって進さんより3つ若いけど早く亡くなったでしょう、その後は玲子の態度も攻撃的になり、お風呂上りの肌着も薄くなり健やかな体の線がみえるのでした。夜遅く堪らなく彼女の部屋のドアをひねるとあいにく鍵入っていなかった。僕の足音に気付いたのか座り僕をさそいいれた。僕も忘れかけた女との喜びが蘇り彼女の意気も荒々しくなった。翌朝は気づかれぬように自分の部屋に戻った。その後子供たちの前では兄さんとは呼ばず、貴方と呼ぶようになった、長女もうすうす感じていて、玲子から説得するように計らった。
二か月もすると玲子は妊娠していることをつげた、僕は男の子でありますように仏前に線香を立ててお祈りした。幸子が三女を妊娠した時あれ程男の子を欲しがり、命まで奪われたことを思うと切なかった。その事を玲子に話すと、彼女は姉さんが出来なかった男の子私が生んであげると、簡単に生めるように話した。早く事態を玲子の兄に報告した。兄もある程度察知はしていたようでした
僕は街に家を買い求めて玲子の仕事も街に出来るように市役所にお願いした。僕は街から農場へ通う事にした。土地も殆どがキビ畑になり、使用人は一人だけで管理した、幸子の様な難産にならぬように、お医者に診てもらったらついでに、ウ‐トラソンで性別も知らされた、男の子でした、僕は有難うと玲子を抱きしめた。街の自宅では僕の弟妹を招待して亦玲子の兄も呼んで結婚の披露をかねて夕食に招いた。僕は仲間家の跡継ぎ三世が生まれることを継げた、僕が沖縄の家督相続の習慣故に振り回された、僕の人生に若い頃は疑問に思っていた沖縄の家督相続を幸せな今日、ご先祖に見守ってくれて有難うと自然に手を合わせて拝むのでした、

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