2012年3月25日日曜日

随筆ブラジルの日系社会の現在と五十年前

随筆ブラジルの日系社会の現在と五十年前
一千九百六十年代のブラジル日系社会は活発に活動していた。戦後の停滞から始動したのも戦後移住者の増加も加わっての新しい息吹を持ち込んでの体制でした、日本のシネマやのど自慢や運動会などで賑わった。植民地には各家に荷馬車があり。街への用事や買い物にも用立てた。その頃アメリカでは各家庭に自動車があるとの話を聞いていた。現実にブラジルでも荷馬車に代わって各家庭に自家用車が存在するようになった、それには五十年の歴史が必要とした。その後日系社会にも家族構成において、子弟の教育や結婚が変化が現れた、教育で大学へ入学する生徒が増えて多人種との接触も容易く多民族との結婚も増える一方で日本語教育も薄れていった、。現在では大都会でしか日本語教育は行われていない、地方都市の日本語教育を主体とした日本人会の存在にも変化を余儀なくされた、現在では会議もポルトガル語でしか会議が成らず、日本語を話す人も二、1三人で、また役員になる人も少なく万年会長が続いている。昔の植民地は住む人がおらず、ただ道だけが面影を残している状態です。日系人の家庭でも変化がおきて家族の中に多民族が加わりどこの家庭でも子や孫の雑種が起こる。将来準日本人の割合は少なく顔形だけでは日本人の子孫を見分けるのは難しくなる、その場合名前や姓に日本語姓だと祖先が日本人だと言える.このような、時代の変化に何が残るのでしょうか関心が寄せられる、日本人の食事はある程度残るでしょう。日本人会はブラジル人を交えて運営されるでしょう。日系人の殆どが街に住むようになり、出版物も限られただけになり、、コンピユタ―を通じて見ることでしょう、2012年3月23日 国吉真一

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