2012年6月7日木曜日

随筆    終幕

長生きすると世の中の移り変わりを体験している事になる。その事は自分の歴史でもあり、子や孫に伝えて行かねばならないと思っている、私自身も母から自分で体験しなかった、古い出来事を伝えてくれた。ある面では、本に載らない小さな出来事も知ることが出来た、現在私が綴っているのも、一つの歴史の流れである。自分の人生を演劇に捉えるならば一幕が生まれ故郷での生活です、中幕がブラジル移民して以来の出来事で、現在は終幕を演じていると考えられる。私が生れたのは、母の実家で、祖父母と二人の叔母が暮らしていた。父は五歳の時、亡くなり家は女が主だった、祖父は病気勝ちで母と姉妹が暮らしていた。私は女性の影響を受けて育ったようで、細心な感受性を受けていると思われる点がある、人間の才能は両親から授かったのでその後の環境で性格が整われると言われている。私自身故郷の幼友達や学校での友達、そして高校での友達や、先生との出会いが、私自身の性格を創りあげたでしょう。その中でも最も
の時紙に書かれた図面に東西南北が記されて番号が打たれていた。その番号通り柱を運ぶのも手伝った、古い大工さんは私に、お前は建築の素質があると言われた.そのことを母に語ると自惚れてはいけない。自惚れは自分を見失うと言われた事が膿に焼き付いている。。青年になりブラジルへ移住してからが二幕です、まず始めに驚いたのは占領下の沖縄では、白人は一等民族で日本人は敗戦と共に劣等感を抱いていた,しかしブラジルでは白人が日本人のコㇿノとして使われていた、しかも殆どが裸足で歩いていた,服もまともなのを着ていなかったのです、少しは劣等感を取り戻したのです。沖縄の家庭ではウチナーグチが使われているのも驚きでした、故郷ではすでにウチナグチは滅びかけていたのです。習慣も古い慣しが残されていた、慣れるまでは戸惑いを感じた。コㇿ二ヤの人びとから習い覚えて、何とか土地所有者にもなれた、結婚して子供が生まれ育てるのも思ったほどより容易く。大学まで全てやることができた、考えると運のある人だと言われるようになった。自分ではそれなりの努力はしていると思っているけど。
植民地の人びと、町の日本人、組合を通じての知り合い、教会を通してのブラジル人といろいろの人びととに関わってきた。勿論仕事上の付き合いと人間関係を広げてきたのです。年を重ねるにつけて仕事も縮小して、知り合いも小さくなり、家族や親せきとの交わりを大切にしておる。多くのの友達や知り合いが他界する中に自分が取り残されたようにも感ずる、けどまだやらねばならぬ仕事があるので残って居るのかも知れない。移住して六十年以上にもなりブラジルの移り変わるのを体験した、移民当時は街や植民地には自動車はごくまれで殆どが荷馬車でした、現在はどの家にも自動車がある。
飯を炊くのも薪でした、今はどの家でもガスで始めラジオが入り白黒のテレビが入り今はどの家でも カラーテレビが入っている、現在はインターネットが普及して世界どこでも即時に通話やメールで語り合えるようになった、一つの組織革命のように思われる、長生きして世の中の変りを体験した、また日系人の隆盛と衰退をも見てきた
人間の成功と衰退のなかで家族の絆を大切にしているのが輝いている様にみられる。私も終幕を演じているのですけど、舞台のフィナーレのように幕が下りても観衆の胸に心に残るような人生の終幕でありたいと願うのです。二千十二年六月五日  国吉真一

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