2014年6月28日土曜日

随筆     名は九十八号

私の名前は九十八号と呼ばれている。ややこしいけど私が生まれたのはパラナ州の試験場で日系人の農業技師がつけた名前の番号です。秘密番号ではなく、むしろ反対に偶然に生まれた品種で、風味や舌味も百パーセントいかなくとも、九十八パーセントの評価を得たので、つけた名前だと農業技師は説明した、私の後からも新品種が現れて百以上の番号がつけられているけど、私ほど有名ではない。 私の主人はパラナ州試験場のコーヒー、みっしょく栽培と新品種九十八号の奨励をかねた、発表会の招待を受けて試験場を訪ねた。二年足らずのコーヒーが見事に実を一杯附けて葉も青々としているのに今までの品種と違った種であることを証明していた、早速取り寄せて苗を育て、植えたのが最後にまで残った九十八号なのです。特徴を観察すると結実の色は黄色で実の皮が厚く、葉も厚みがあって、さび病にも強い、なおビショミネロにも抵抗力があるのです 私の主人は戦後移民ですけど最初に着いた所がコーヒー園でした、別に古い移民の物語の、大農場での悲哀はありませんでしたけど。コーヒーに取りつかれた男になったのは間違いありません。この町でコーヒーといえば私の主人を指すのです。 コーヒーの歴史にも詳しく戦前にはやっや流行歌『一杯のコーヒーから」でも日本の社交の花形として流行したようですと語る。社会的にはコーヒーは後進国で生産され先進国が主な消費国なのは今も変わりはない。又大豆生産のように機械化するのも無理があり主人も農業労働者に仕事を与えていると自分に言い聞かせている。ブラジルの初期はコーヒーによる大農場主がサンパウロの大都市に大邸宅を構えて、政治にも独自の地盤をはっていたと過去は語っている、。サンパウロ市と州はコーヒーによって発展したといっても過言ではない。日系人の中にもコーヒー園の大農場があって移民上がりでどのように日本の郡ほどの面積を確保することが出来たのか、その物語が移民歴史のなかで語られていた。戦後移住者も移民の成功者を模範にブラジルは夢が実現できる国だと移民初期ははりきったものだと主人は語っていた、主人の移民初期はパラナ州は全国で二番目にコーヒー生産を誇っていた。サンパウロの入り口カンバラの町から西への奥地ウマラマ当たりまで、コーヒーの緑の海原でした。 初期はボルボンの品種が四メートル間隔で植えられ肥沃な原始林のあとに四年契約の歩合作で植えつけて、地主は原始林を購入さえすれば伐採は材木として原木でまかなうことが出来た。私の主人も少し原始林を所有していて共同で開拓したけど管理にと惑い別人に譲った経験がある。 最初の土地は標高が高く忘れた頃にやってくる霜もまぬかれてコーヒーを収穫して良い値段で売ったことが、コーヒーを今日まで九十八号の私が最後まで勤めることになった。主人は八十歳も過ぎているゆえ、コーヒー園は細心の管理と労働者が必要なので、いずれ私も農場から消えるの立場にある。、主人はコーヒーが消えるのは自分が消えるのも同じだと言っている。 2014年六月二十一日   終わり

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