2014年7月5日土曜日

平凡

通常とおり朝五時ごろ目がさめているけど,寝床に入って夜の明けるのを待っている 別に約束の時間もないので今日一日をどのように過ごすか考えている、特にプランがあるわけでもない。、以前は七時には農場の仕事があるので無理しても起きていた。妻は朝食の支度のために先に起きた。夜が明け始めたころ起きて朝の食事をする。 夕べはぐっすり眠ったので気持ちのよい一日が始まる。食卓には二種類のパンとミルクとコーヒーそして果物のサラダが置かれている、以前に比べたら贅沢をしているのです。田舎に住んでいる時は朝は唯コーヒーだけ飲んで仕事に出かけた、でも今はこれが平凡な家庭の暮らしとなっている。 若い頃は食欲旺盛で何でも食卓にあるものは平らげた。年とともに食欲は衰えている。それだけ働かないので,カロリーも必要ないわけだ。今は時間に縛られないので朝の食事後はテレビでブラジルの二ュースを見て,日本の二ューすも聞いてから、インターネットで天気予報を調べるのが日課となっているい 、IPEDから新聞の社説や読者の投稿などを読んでみて政治の判断をつかむ。自分の生活に直接関係はないけど自分なりの意見を持ちたいと思っているからです。 ブラジル国は軍事革命以後平和を維持しているけど、民主主義の現状ではあまり発展は望めない、何か革命でも起きない限り政治改革はありえないと思うようになった。それでも平和が維持されて毎日が平凡な暮らしが出来るのは幸せな事かもしれない。 幸せとはいったいどの程度の満足感を表すのか判らないけど。平凡な暮らしも幸せだと思っている。突然宝くじが当たり大金 が入り込んだとき、または突然思わぬ遺産相続にありついたときなどはあたかも、幸福の絶頂にあるような錯覚を起こしますけど、平凡な日常を狂わすだけで、場合によっては不幸をもたらす原因にもなりかねなと思うのです、楽しそうな旅行でも日にちが重なれば家に帰って平凡な暮らしがしたいのは当然です おいしいレストランの食事でも毎日になると、つい家の味噌汁が恋しくなる。健康で飢えることなく過ごせる、平凡が幸せなのは当たり前だと思っている、私自身が療養生活を送っている時、歩くことの出来る日常が恋しかった。いざ歩ける様に健康が回復したら,そのありがたさが忘れている。一日を無事に過ごし夕暮れに寺院の鐘が鳴り、アヴエマリヤの賛美歌が聞こえると、平和な自分の存在に、神様に感謝せずにはいられない、このような時は幸せを感ずる。なに事も起こらない平凡な日はつまらないようにも思われるけど、知っている人が病で入院したり、あるいは事故にあった話を耳にすると、その家族の不安におののく姿を思い浮かべて、自分の家族が平和で平凡な一日を過ごした事を考えるだけでも幸せだと思うのです、昨夜は夜八時ごろ寝ていたのに表で、手を叩くのが聞こえた、妻は窓を開いて用事を聞いたら、夕食にあり付けないので恵んでほしいと願っていた、妻は残りは犬に与えて何もないと返事をした、通りすぎると胸が痛んでならなかった。面倒なのでつい断ったに過ぎない、 私の住む通りはロドヴィアリオの近くで、よくその様なことがあるのです、胸が痛むだけでもまだ自分に良心がある事も、平凡な人間であることを感ずるのです。平凡な一日に色を添えるのに 俳句を作るのもまた幸せのような感じがするので,  次の俳句を作って終える 今日も   平凡に過ぎ    しあわせだ 道ばたに  イッぺー花咲く  冬景色 人生に    花さかせるる     俳句かな    20 14年六月三十日

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