2014年6月22日日曜日

ブラジルの日本語

ブラジルにおける日本語を話し,理解できる人口は毎年減っていることでしょう,日本語について語るのに,歴史上、私は第二次世界大戦を境にして考える、戦争以前はどこの移住地や植民地にも日本学校があって、日本同様の教育がなされていたと思われる、そこで学んだ学生達もすでに七十歳を越していて、今でも日本語がブラジル語より判りやすいと語る人もおる、私の叔母も二世でそうでした、「のうそん」に随筆を書く人々も二世か又は準二世の方だと思われる、立派な文章です。家族構成で小さい頃に移住なされた方でも十四,五才だと完全に日本語をマスタしていて、日本人の精神面まで受け継いでいる感じがするのです。家族と一緒に働いた故に、ポルトガル語は独学で修得したのが殆どです、なかには家族の理解でブラジル学校に通い大学課程を卒業成された方はごくまれで、日本語とポルトガル語を充分理解して日系人のリーダとして活躍なされている方もおられる。戦争中は日本語学校は閉舎されて空白な時代があった。 戦後ブラジルに移民が再開され家族構成上、小学生から中学生までいて日本語学校のある所では移民が日本語の教員を務めて授業が行われた、注目に値するのは戦前とは反対にポルトガル語が主で日本語は従に、永住を決心して親達は子弟の教育にあたった。家庭での会話もポルトガル語が取り入れられ日本語を習う学生も日本語理解力が薄れていった。それでも日系人の多い集団地日たとえば,バストスやアリアンサやアサイ市などは後年まで若い二世が日本語を話せた.日本が経済復興するに伴い発典途上国ブラジルを含めてにジャイカ『事業団」より日本語教師を派遣することになった,勿論戦後最も多くの移住者を受け入れたブラジルは、尚日本の次に日本人の多い国がブラジルだったからでしょう。派遣された先生方は日本語を外国語として扱い。書いた絵と日本語の単語で教えていた。そこ頃戦前の先生は日本人の精神面や道徳面をも含めて授業が行われていた。その頃の「のうそん」にも永田先生の論説が発表されて深く考えさせられた。そのように歴史は流れていって現在は大都市に文協運営か又は私立の学校か大学内で日本語教えているに過ぎないとおもっている。

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