2014年10月10日金曜日

集まり

人間は一人または一家族だけで暮らして生けるもの
のではない。常にグルップを作って生活してきた。
植民地時代でも誰かがリーダになり植民地の
道路や学校建設など協議する為に集まった。
リーダーは人望があり資金的にも余裕があり、また
年齢からして経験を積んだ人が率先して、学校が
無ければリーダの家に集まった。
集まると故郷をしのんで語り合った。
集まった主人たちの出身地は異なっていても話は
通じるのでした。出身地の沖縄では結マールの言葉
があって.どこの部落でも行われていた。
リーダは街へ出かけて情報を集めて人々に知らせる
役目も背負っていた。街では他植民地の日系家族も
食糧を買いに来るので情報を得ることができた。
会話は主に農作物の出来具合や値段や取引先など
意見を交換していた。例え他府県でも日系人は
同朋国民故に助け合っていた。必要に迫られ街に
に日本人の集まる場所日本人会が組織され
寄付を集めて会館ができた。
会館は各街毎に出来て日本語学校も経営された。
一時期は日本から先生も派遣されていた。ブラジル
は外国移民。特にイタリヤやポルトガル移民が大いのに
彼らは自国の学校や会館などはなく、ブラジル国に
溶け込んでいて、国の言葉や自分の先祖さえ判らぬほど
ブラシル国民に成りきっているのに、日本人は優越な
国民として同化せずお金儲けだけを考えていた。
時代は変わり日本語で話し合った会話もポルトガル語
に変わりブラジル人との結婚も容認されてミスチソ
が日本学校にも参加した、。時代は二世の会長に変わり

何とか運営されている、

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