2014年11月8日土曜日

小説   友情        仲間 マウㇿ

大人になって懐かしい思い出として残るのは
小学生時代の友達だ
祐二は小学生時代に無二の親友がいたことを思い
出していた、おなじ植民地の学校でポルトガル語も
日本学校も一緒だった
植民地の新開地時代には倒れた木の上でよく遊んだ
ことがまだ昨日のように頭に浮かんでくる
植民地の小学校を終えて中学に入るころから二人の
人生は変わった
(清次の家族は土地が小面積で大家族故に
中学までやることが出来なく止む無く家業を
手伝った
学校休暇の時は植民地の日本学校で夜など会う
けどあまり話したがらなかった、
祐二はその理由が大人になって人間の心にある
妬みだったのだと思った
誰にだって上の学校に行きたい希望はもっている
家庭の事情で出来なかったことを知ったのです
彼はその後も独自で本を取り寄せ読書に励んでいた、
青年になり選挙権を取得してから彼は政治に関心が
湧いていた。
丁度その頃エンリケカルドゾと労働党のルーラ大統
の選挙戦が行われていた.清次家には労働党のルイス
具志堅とは親戚関係にあり、その影響もあって。
清次も選挙運動に熱心になった
とくにブラジル人の労働者を相手にしていた。ルーラ
が貧しい国民を擁護していることを説得した。
日本人はルーラが何度もストのリーダとして国を
混乱させている事を知っていて、敗戦後日本人
同朋を二分した勝ち組、負け組の経験があり
ブラジル国を動揺する事は避けたいのでエンリケ
立候補を支持していたからです
それ以外にもルーラが小学校しか出ていないのも
日本人の学問への崇拝が現れているからだった
その点でも清次は小学を終えていて、ルーラが自分と
似た境遇なので運動に熱が入っていた
清次は同じ農業者でも大面積を所有するファゼンデイㇿ
から住む家さえ持たない農業者が多いのは政治
の故だといって農業労働者を説得した、
また土地は国民の財産であり、すべて働く者には
土地を得る権利がある、キリストもその事を云い
伝えていると訴えた
清次は農業労働者から支持をえたけど、有識者から
は嫌われた。
とくに日本人からは共産主義者との判がおされて
家族が村八部にされるのを恐れて何とか彼を街の
仕事に出て行けと追われた
清次はサンべルナードに向かった、親戚のルイスを
頼りにしていたのだった
其の頃。祐二はクリチーバで工科大学に入学して
いた大学では学内の政治運動が盛んで、多くの
学生が労働党を支持していた。
外国資本が導入されて企業を興して利益を上げて
本国に持ちかえる、労働者から甘い汁を吸い上げる
今の制度は労働運動を強く団結しているリーダの
ルーラに賛同するのは当然だと祐二は思った
その反面資本市場が発達していない
ブラジルでは長年インフレーに悩まされ
貯蓄するより消費する事に走っていた
企業家は外国資本に頼らざるを得なかった
そのインフレーを止めたのがカルド‐ゾ大蔵大臣
だった
破産状態にあった財政をF.MIからの融資を
受けて破産宣告せずに世界各国の信頼を取りえた、
外国資本が導入されてやっと企業が設立されて
いった
なんとかインフレーを取り押さえて労働者の生活を
安定させることが出来たのだ
それでもまだ改革せねば発展出来ない事を察して
議会を動かして選挙法を改正しての二次立候補だった。
祐二はカルドゾが学問もあり、ブラジルの遅れている
教育に力を入れてくれるのではと期待していた。
丁度その頃日本は戦後から立ち直り早くも自動車
産業はオートメション式でロボットが各部門に
配置されてコストダウンと品質管理に役立っていた
清次の兄が日本に長年出稼ぎに行って」
日本の事情をよく知っていたので清次もよく
聞かされた
祐二は大学内でもロボットの研究に熱心だった。
その設備に国の援助を期待して、議員を通じて
運動までしていた。
またサンべルナードでは労働者が集まり、ロボット
の取り入れは労働者の職を奪うものだとして
反対運動がシンジカット新聞に報道された
清次はルイス具志堅からP.T運動員として
採用されていた
暇なときは労働者がタムロするバールにより皆の
意見を聞いた。流れ作業の組み立てには
トイレに行く暇もなく。まさに人間が機械の
一部門にすぎないと一人は言った
またある者は田舎ではのんびりとしていたけど
今は朝の八時から夕方の六時までアットの間に
過ぎてしまう。帰ったらビールをのんで寝てしまい
子供と一緒に遊ぶ暇もない。日曜には
寝るだけだといった。このような労働者の嘆を
清次は聞いていた
或いはロボットを取り入れて。労働者の働く時間を
短縮出来るのではないかと清次は考えた。
労働党の会合で清次はロボットを取り入れるのは
企業の使命でブラジルの自動車産業が近隣諸国に
輸出するにも品質と価格で競争せねばならず
それにはロボットの導入は労働者の協力者だと
訴えた。
生産を拡大してコストを下げるのも可能だといった
またロボットを扱う労働者は中学程度の知識があり
導入するロボットを扱うことの出来るもので
なければならない。それには労働者も勉教と訓練
が必要だともいった。
清次は労働者から注目を浴びるようになった
ある日ボクスワゲンの人事課の役員が清次を訪ね
てきた
理由は同会社ではロボットを取り入れて今までの
一日一人当たり五台から十台に引き上げる計画で
その会合に経営者と労働者が集まる事になっている
ぜひ参加してほしいと伝えた。清次は胸が
わくわくして自分の考えをより一層まとめようと
考えた。兄は帰国後イピランガの部品工場で
働いていた。清次は夜兄貴に会いにいった。
兄は喜んで迎え、清次お前にも良い機会がきた。
場合によっては会社の重要なポストに迎えられる
ロボットは会社の生産過程で人間よりも品質を
向上させ、労働摩擦を避ける事ができると説明した。
なおロボットは単一作業と多様の作業をこなす
機能をそなえていて
光や電熱や湿度、重量など感知して選別して
不良製品を取り除くのにも応用できる
たとえば溶接たと十年の熟練工以上の仕事をこなす
ので日本製品は優秀なのだとも言った
ブラジルはまだ始まったばかりで労働者の訓練は
かかせないとも言った。日本では会社は本にもある
通り五S制度を取り入れて無駄をはぶいている
兄貴との会話は有益な話ばかりで。今までのような
清次の労働党のリーダールーラへの一辺等に変化を
もたらした。
確かにルーラの熱意は多くの労働者を引き寄せる
魅力はあるけど国全体を発展させる有識階級の
賛同は得られないと思った
ポーランドの労働者ワレサが連帯意識を旗に立ち
上がったけど国家の主領にはいたらなかった
のでも解ると清次は思った。
シンジカットは多量の資金があり会長選挙には
多額の運動資金が動いて、殺人事件の沙汰になる
事も清次は好まなかった。
いよいよ集会の日には経営者から説明があり
亦経済学者とロボット研究者からも競争の世界で
避けて通れないと説明された
最後に清次から長年日本の自動車工場で働いた兄
から聞いた話を説明して。会社は多額の融資を
受けてロボットを導入するのですから。
スムーズに運転できるように労働者も一時間でも
くりあげて勉強してロボットの動作を憶えなくては
ならないと伝えた
人事課の役員は清次を招いて。教育方を話し
良く使う英語や方程式や物理などを教師招いて
始めることにした、
清次は自分も勉強しながら教室に通った。幸いにも
やって来た教師エレナが日本人びいきで親しくなり
まずよく使う英語の単語を至る所に張ってある
ポルトガル語の下に書き入れた。
英語の言葉が否応なしにのみこまれていった。
清次はエレナにひかれてデートを重ねていた
清次が会社の人事課長に就任したのをついでに
結婚を申し込んだ、幸いにも喜んで受け入れた
ボルクス社は本国からロボットが運ばれていた、、
労働者の反抗でロボットが破壊されないかと会社
は警備を厳重にした。
清次とエレナは祭日を利用して結婚式をあげた
兄貴がパドリンョになった。招待は労働者ばかりで
仲間達から日本人のルーラだと尊敬された
兄貴も弟のリーダシップを褒め上げた
ルーラは惜しくもカルドーゾに負けた、それでも
自分が小さい時に味わった空腹の思ひを
東北の人びとに味あわせたくない思いは一層
つのったのが執念にも取れた
清次の労働者への励ましとエレナの協力によって
思ったよりはやく憶えることができた。
工場は次々にロボットが据えられ一周間後には
始動するにいたった。清次はその日が待ち遠しかった、
その日は大統領も参加して始動ボタンをおすことに
なっていた
明日は始動する日に労働者を集めて清次は次のように
説明した
私達労働者は会社が据え付けたロボットが
完全に稼働するように今、一度ねじを締め直し
配線が間違いなく行われているか点検して万膳
を期して稼働させて、その後も各部門にモーターが
電気を無駄使いが無いよう注意を払いましょう。
会社には何万のモーターが据られて無駄な
電気使用は利益を減らすのでやめましょう
最後に会社が利益をあげて労働者にも配当できるように
交渉しましょうと云ったので盛んに拍手がわいた。
家に帰ってもブラジルの資本家と労働者のあるべき
姿をエレナと語り合った。ブラジルは発展途上国とは
言え国民の教育への意識を高めねば、との政治の
考えにエレナも賛同した。
同じ年に祐二は大学を卒業して大学内で教べんを
とっていた。同じ隣街の沖縄県人の二世でクリチーバで
働いている昌子と親同志の知り合いもあって
とんとんに縁談が整い結婚することになった、
結婚式には清次の家族も招待を受けていて、
祐二は清次に会えるのではないかと期待した
けど会えなかった。
清次の父は清次が政治に夢中になり日本人に
嫌われた経緯を話してくれた。祐二はあの頃
自分も政治に夢中になっていたことを思いだした。
若い頃の純真な野心に浸っていたことを思い
浮かべた
日本の外務省から日本の技術研修に幾人が選ばれて
半年留学する事になり、大学から祐二が選ばれて
いくことになった,昌子も同伴でした、行く先
は名古屋大学だった.グアルーㇿス飛行場に
ロビーで偶然にも清次にであった。
半信半疑に二人とも見合っていた
まず祐二が話しかけた、ブラジル人奥さんの
美しい姿をみて祐二は自分を疑ったけど
やはり確実に清次だった
お互いに妻を紹介して腰かけた。祐二は僕の結婚式
に貴方の父と会った事を話してそのご一度も戻って
来てない事を話していたと告げた、二人の間には
別れて以来十四年の歳月が流れている事に。
一人で良くもがんばったと祐二は褒めた、
ぼくの家庭は兄弟も少なく土地も多いので父母が
大学までやれたけど。清次も頭は良かったし家族に
恵まれていたら、大学にゆけたのにと自分と
比較していた。
それでどうして日本へ行くのか、出稼ぎで
はないと思うけどと祐二は聞いた。
清次は次のように説明した。まずボルクス社に
人事課に勤めていて、ロボットの導入と労働問題
を日本のトヨタ会社に調べるように派遣されて
いると語り。しかも外務省の研修生として
日本語を話せる僕を任命したことを話した。
それでは同じ任務だと二人は喜び合った。
祐二は僕は名古屋に下宿すること。亦政治は豊田市
に宿をとっていることを語り合った。
清次は研修のおわる頃には父の故郷沖縄のヤンバル
まで出来たら一緒に行こうといった
清次はトヨタ組立工場をみて労働者が見向きも
せずに素早く働く姿に驚嘆した。なぜか日本と
ブラジルでは労働者の意識が違うようなきがした。
これが教育なのか国民性なのか、それとも。
者作りのすきな国民なのか調べたかった、
街で売っている道具などみても使う人のニーズに
合わせているから買う人もよろこぶ、欠完な商品が
無いそれほど者つくりに徹している
会社の中には診療所も整備されていつでも医者に
診てもらえるし、アビリステション。
も完備している。毎月一回帰りに質問事項が書かれ
たのを渡されて、家で書き入れることになっている。
会社と医科大学が連携されて、どの部門とどの
位置が体の筋肉硬過をおこすか調べて労働者が
働きやすい機械設備を調節している、
労働者の疲労を和らげる努力も怠りない、
採用職員と臨時職員がおり、採用職員は二回の
ボーナスが支給されて会社の利益に応じて桁が
違うので職員も精出して働くようだ
会社と労働者の中はブラジルよりも頼もしい
関係にある
労働者が自分の会社に誇りをもっているのが
日本の発展に繋がっている事を感じた
日本は古くから伝統のからくり人形が山車に
使われていてその技術がオートメにもとりいれて
いる事を祐二は思いだした
生産過程だけでなく管理部門にもロボットが使用さ
れている。日本は働く人口が不足している現状では
ロボットは必然ですけどブラジルでは、
ロボットを取り入れると労働者の働く場所が無く
社会問題を引き起こすことになると祐二はおもった
生活費は国からの支給で間に合い持って来た、
お金は使わずにあったので父の故郷の沖縄まで
行こうと清次に電話したら彼も喜んだ
清次も祐二の父も今帰仁だった
祐二の父の宮城家は村でも裕福な家だったようだ
祐二が出稼ぎではなく大学研修生とあって本家は
快く迎えた。また父が戦後早く再渡航して
写真などもあって祐二の名前まで憶えていたので
親しみをわかせた、
また具志堅家では清次家族が十二人の大家族と
聞いて一門の繁栄だ、ブラジルは広いので
子供は多い方が良いと言いあった
二人の二世が日本研修生に選ばれたことをよい
事に村で歓迎会がおこなわれた
一周間いてブラジルへ帰国する事になった
八年間のカルドーゾ政権も終えて。ルーラが四度
目に立候補することになった。巷」では議員の
支持と取り付けるためにお金がばらまかれたとの
噂が流れて。ルーラは政治の清貧さと.
餓死をかかげて戦っていた。清次もルーラ応援に
参加した。勿論労働者を導いていた。
会社では若い技術者が入社してどんどん新しい
技術を取り入れて生産拡大していった
清次は古いメンバーで新しい技術についていけず
やめる立場になった。会社から余分の退職金を
支払うことに交渉した。
清次は得た資金で部品工場を設立したいと考えた
ついては兄貴に相談すると俺もなんとか
独立できないか考えていた、兄弟の合資会社を設立
することになった。その事を祐二に説明すると
早速日本の先端の工作機械の見本を送り領事館
とブラジル政府の輸入税金の無税を取り付ける
交渉することを約束した
それ以外にも日本は工作機械の新品に近い状態で
リース業のもとにある。
理由は部品工場が東南アジヤに移転して
リース業者に返されたのが幾らでもあるからです。
その工作機械を扱うリース業もブラジルにもあって
当たってみなさいと伝えた。兄貴は部品工場を
回って。最初どの部品の製造がよいか知人に
あたって歩いた。製造した部品の仕入れには今まで
培われてきた仲間たちにお願いするしかないと思った
鋳造生産機を据えて。部品生産機も据える事
に決めた、始めは適当な倉庫を借りてすることに
した授業員になりたい同僚はいくらでもいた、
工作機械の新品の値段とりース業の値段は十分の一
の差があり。リース業から借りることにした」
約半年の期間をえてイピランガに
具志堅兄弟部品工場の看板を掲げて開業した。
開業にはクリチーバの祐二から花輪がおくられた。
清次は小学時代の友情をいつまでも胸に秘めて
頑張ろうと自分に誓った



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