2019年6月20日木曜日

国吉真次と子孫

国吉真次と子孫                                                                   

現代は通信の発達により文通や会話がたやすくなった。私の長女のぞみがいとこにあたる孫たちと文通をするようになった。みんなが一堂に集まって、祖父母をしのび語り合えたらどんなに楽しいかと実行に移した。ちょうど休暇を利用して四月二十日土曜に決めた。ちょうど.カンバラの町に素晴らしいホテルができたのを幸いに宣伝を兼ねて集まることにした。
真次夫婦には男子二人と女子四人がおる現在元気でいるのは三女千代」だけとなった、孫は二十八人おるけど世界にまたがり日本とスリランカにも住んでいるその日に集まったのは総計四十五人となった、
お互いに語りあいその孫の中には初めてであうのもおった。
真次と妻のときは顔立ちが整い孫たちも皆日本人の中でも好男子や美女たちのようだ。夕食後にお互い自慢のカラオケに熱中してお互い持ち寄った古い写真ぼくが日本生まれで話が通じたので、真次夫婦の歩いた道を記述することにし。た。沖縄の南部の上田原部落の殆んど国吉家で成り立っていた、なかでも坂迎。
長男が十五歳で亡くなり独身で次男が長男になり三男の真次が次男に収まった真次は少学年卒業して父母のもとで働いていた十八歳になると、父母は結婚の相手を隣村の同じ国吉一族から約束した。名前はときで早速結婚することまで決めた。両親は働き手が欲しかった。両親は働き者で村でも評判だった、結婚後年月が立ち、三人の子供に恵まれた、育児には不自由をきたし独立を願った.ちょうどその頃同じ村からブラジルに移民した国吉一族の家族がいた、引受人になることを承諾してくれた。長女と次女はてつだえるので、父母に。乳飲み子の長男だけを共にした、蓄えた資金をいだいて出発できた。長い船旅の後
ブラジルにつくことができた、所はパラナ州ノカンバラ市のタクアラ植民地で沖縄人が多かった、牛さんから与えられた家は」あばら家で、夜になると星も見えた、その夜は故郷の二人の子が恋しくトキは涙をなした、真次はお金が儲かったら帰るからしばらく辛抱するのだと慰めた
二年の契約を終えて牛さんから話が持ち出された。近くにある土地が売りにある条件は良い、できれば買いなさいと進めた日本からたくわえと不測の分は
貸してあげる。との自分の親のような条件でした、さっそく買い求めて移った時には次男が生まれていた、三人の子を抱え、教育も考えねばならず幸に、植民地には日本学校とブラジル学校があって、真次が少学年で終えたのをせめて子供たちに十分な教育をさせたいと願っていた。百姓は自分までで子孫には出来だけの教育を与えたいとの思いでした。丁度そのころ第二次世界大戦となり、危険のある中で長女と従妹のかまど一緒にやってきた、家族が増えるので土地離れたところを増やすのに迫られた、すこし離れたところに良い土地を見つけて今供の学校には不便だけれど、致し方なかった、日本語学校は中止されていたけど、土地に入った歩合策の家族のなかに、長谷川家の娘が日本語を教えてくれた。
千代は今でも漢字を覚えている。さて文子が結婚して真次家は独身ばかりが残った、将来の結婚を考えると日本人植民地に移住せずにはいられなかった。肥沃の土地でも子孫の繁栄を思うと致し方なかった。チジュコプㇾットに 買い求めた、植民地には日本語学校もあり四人の子も結婚して真次夫婦だけとなった、結婚五十年を迎え子や孫で祝い長男、次男が歯医者を卒業して開業したので長男に身を寄せることにした。長い人生の中で戦後初めて日本を訪れて兄弟にあい、戦後の困難の時救援物資を送ったことを親戚一同感謝していたのも良き思い出となった。この物語は生前に自分人生を書き留めたいと、婿の僕に語った子があり改めて記述したのです、国吉真一

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