2018年3月18日日曜日

祖父母の移民百年祭


三月三十一日は国吉牛ナべ祖父母の移民百年祭に孫の一番年上の私が提案したら、従姉妹の孫達が賛成して、インタ―ネットを通じて話し合い殆どが参加する事になった
l  総勢百四十名の子孫が夕食を共にして演芸会をもようすことになった。従姉妹や従兄弟の繋がりは沖縄人の持つ仁徳で、準備も予想以上のが出来た、祖父母の移民初期の歴史を記さねばと思うけど、祖父母が長男の父と妹を日本に残して移民した私は、長男が日本で結婚してその長男で、日本生まれで移住先の生活は文献によって知るのみである、
国吉牛とナベは沖縄南部の東風平村字上田原となっている
この区域は国吉家の子孫で成り立っている、祖父牛さんは国吉家の子孫九代に当たり、屋号は当銘地で二男に生まれた村でも多くの土地を持ち貧しい家ではなかった、長男の夫婦が
ハワイへ出稼ぎに行ったので二男牛祖父がト‐メジ家をナベと結婚して守っていた、いくら働いても長男の松金の土地なので外国へ出稼ぎの機会を待っていた。
真保さんが参加した、真保さんは国吉本家「モート」屋の跡取りで、其の頃戦争に召集されるのを逃れる為に母が無理に家族構成に賛加するよう勧めたと伝えられている、真保さんは師範学校卒業間際で義務的に先生を務めるのが嫌で海外行きに賛成したようだ。歴史を顧みて思うに祖父の牛さんは無学で甥の真保さんは師範中退の家族構成で二人の移民の歩んだ歴史は波乱に富んでいて、多くの移民の物語も似たりよったりだ、
さて牛さんがなぜ無学だったか、一番には土地面積が大きく
年賦の雇人も使っていたので,学校に行く暇を働かせたとも考えられる。二つめは明治になっても侍「ユカチュ」と百姓の差別が残って居て、侍は髪を「カンプ」に結っていたので
学校では差別なく皆断髪するのが習わしだった、侍の誇りを
捨てがたく学校行かなかったようだ。中には率先して日本語学校へ行ったのもいて。琉球の初期の官職に就いたのもいる
日本の明治の初期に歴史は似ている、何時の時代にも先見
ある人は繁栄しているのが歴史は語るのです。
村では土地が多くても沖縄は日本と比較してサンゴ礁のやせ土地で日照りでもあるとお互いに助けあって命を繋いだようで、上田原は国吉一族の結束は強く、祖父牛さんが移民の先頭になった道を開いたとも言われている、祖父の話では唯モジアナだけでブラジル沖縄移民史の名簿には。ヴィラ,ユスチナーとある、多分ファゼンダと駅名だと考える、祖父は体格ががっちりした持ち主で、体格が大きくブラシル人からク二ヨソンと呼ばれて、人の倍も働いたようで契約を全うして耕地をでたようです。その間に次女のツルさんが生まれた。
アバレ―役所に出生届を出しているで、其の辺の耕地にいたのでないかと察する、三女のカメ子さんははパラナ州のジャカレジンヨの耕地生まれで、コスタジュンヨに契約していた、現在はマリンガ製糖工場の一部になっているコスタジュンヨ耕地には、沖縄移民が五六家族いたようで、その後カンバラ市のアグアヴィエイラに初めて土地を購入して地主となった、その後、土地を拡大しようと、タクアラに二十アルケールを購入して、自分の土地に日本学校を設立した、
沖縄移民も歩合作で受け入れた、日本移民の独身者も受け入れて耕作した、二男の真完が生まれて、サンパウロに中学に進学して柔道の稽古で体を負傷して命を奪われた。長男の私の父、真亀も海軍任務中事故で命を損なっている、その下に清子と真吉がおって七人の子に恵まれて、現在は孫達の時代になっている、移民の中では順調に土地を広めて国吉の一族国吉真次夫婦を移民で、引き取って世話をして二年後独立させている、カンバラ市には国吉一族が移民して土地を買い求めて独立したのも、牛さんの率先のたまものです、沖縄の一族の団結心を外国の移住先まで持ち込んだのです、其の後を継いで国吉真次さんがブラジルの豊かな国の暮らし安さに戦後一族を呼び寄せてカンバラの国吉家は膨らんだ
私は祖父が無学で事業を広めて来たのに計算は頭で暗記していたようで、若し、無学でなく学校も出て字が読めたら
ブラジルで十分活躍したのではないかと思うのです。
終戦ごタクアラ‐の土地を売った。低地でコーヒーに適せず、チジュコに原始林を購入して開拓した、そこにも学校を建設した、思えば、自分の無学を意識して、子孫に学問の大事を理解していたように思うのです、その反対に甥の真保さんは学問故にブラシルを点々としているのです。学生だった故に労働仕事は苦手でまず言葉を覚えるのに、熱心で働かずに家でポルトガル語を勉強したようだ、叔父の牛さんが人一倍働くので受け持ち分に支障はないけど、祖母が文句だらだらに、嫌気がしてサンパウロ市へ出ていった、その時代サンパウロの街は移民夜逃げであふれていた、幸い真保さんは言葉憶えが早いので、すぐにバールの召使いにやとわれた。同じく夜逃げした大和撫子の女性と結婚した、しかし沖縄のモート屋、本家には知らせなかった、跡取り息子長男故に許される仲ではなかったからです、真保さんは学問ゆえに労働は嫌った、
いつも大儲けしようと借地農で仲買より前倒しでお金かりていたけど上手くいかず、家族をつれてカンバラの牛叔父にみを寄せて生活した。叔父の保証で土地を求めた、移民は労働仕事で稼ぐために外国まで移民しても、農業仕事以外にあの頃は仕事がなかった。真保さんの孫も牛さんの孫も高等な学問を授かり現在あらゆる分野で活躍している。
国吉真一

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