2015年4月9日木曜日

随筆  おしゃべり

この随筆はㇿンドリ—ナの沖縄人の老人クラブにて講演した原稿です
私の名前は国吉真一です。君枝さんの従姉妹にあたります。私はカンバラの街から、おしゃべりしにきました。だんだん年をとると忘れ物をする事が多いのです。あの薬は飲んだのか、はっきり覚えていないとか。亦何か物を置いた時どこにおいたのか、はっきり記憶がない事とか場合によっては隠したお金が無くなったと勘違いし、エンプレガ‐ドガ取った物と思い込み、後で引き出しの下から出て来たりする事がある。あとで大変な思い違いをしたことに、また、エンプレガードに済まない思いで悲しくなる事がある。忘れる事がひどくなると、ボヶと言いますけどこれは年のせいですからいたしかたがないのです。それでも、ボヶを防ぐ方法があるんです。年を取ると耳も遠くなります。自然と人と話す事がややこしいので黙るようになるんです。それがいけないのです
私は82歳ですけど片耳はほとんど聞き取れない。亦片方も50%しか聞えません。私は人と話すことが好きなんです。でも耳が遠くなると話すことも少なくなります。
頭がボケない方法がいくつかありまして、先ず人の集まるところに参加することも一つです。黙るのではなく、おしゃべりすること。そしてもう一つは本を読むこと。そして書くこと、毎日のできごとを日記に書くことです、これは一日の出来事をはっきり覚えるのに役立ちます、おしゃべりする事も頭を使います、また読むことも頭をつかう。また書くことも頭を使う、頭を使うことは考えることなんです。それ以外にも運動したり、頭に新陳代謝を促す事なのです。それで私がおしゃべりしに参った訳なんです。私は純粋のウチナ人です、私は3つの言葉を話します皆様もそうですけど。まず日本語、そしてポルトガル語そして沖縄語です
その中でも最も好きなのは沖縄の言葉です、小さい時から親子で使っていましたからです。でも沖縄の言葉にはほかの言葉にない深い意味を持ったのがあります、わたしの街には3人の沖縄生まれがおりまして殆んど沖縄の言葉を使う機会がありません。今日は皆さんと約1時間おしゃべりしますけど。
わたしのお話しが面白かったとか、楽しかったと思ってくだされば私はとっても嬉しいです。沖縄のことばに、ナンクルナイサとの言葉があります、これに当てはまる言葉は外国語にはないようです、この言葉に励まされたことを良く覚えております。私は今でも農業をやっております、農業は自然の影響をうけます。1975年に翌年コヒーの大豊作だと見込んでいたおりに大霜がおりました。青々としたコヒーが焼けたのです。がっかりした私は朝ごはんものどから通ませんでした。そのとき母は沖縄の言葉で「ぬーがなんくるないさ」と励ましたのです。そうだ。時がくれば今の苦しみも忘れるだろううと思いました
みごと翌翌年はコヒーは青々と茂り多くの実をつけてくれました、それ以後に自分がくじけたきとカ、失敗した時などに「なんくるないさを」心に聞かせます。また「テ‐ゲエサ」との言葉もよくあじあう言葉です、沖縄人はとことんまで争うのが嫌いなんです、人と議論するとき、お前が間違っている、いや俺が正しいと口論して解決がないとき。なんだテゲーエサと言って終わるのです
皆様もご存知の「いちゃリ場兄弟」の言葉もいみ深いもので沖縄人の気持ちをよく表しております。沖縄人良く励ましあい、よく助け合いますその良い例が「たのもし」です。沖縄人が10人もおれば「たのもし」があるのも助け合いの一つです、又県人会の会館が多いのも沖縄じんです。沖縄人は家族の絆を大事にします、永田さんという人が本にこう書いてありました、
沖縄人の三世に沖縄舞踊をならう子供に。どうして沖縄舞踊を習うのかときいたらお爺さんおばーさんが喜ぶからと返事でした。この事からしても親子三代まで親子の絆を大事にすることに感動したと書いてありました。今日本の都会では親子が一緒に住む家族が殆んどありません。しかしブラジルのとくに沖縄人親子が一緒に住んでいるのが多いのです。これは家族の絆を大事にするからです。私がブラジルに移住したころ大和ちゅは沖縄さんは良く子供に勉強させるねと言われました。あの頃カンバラには3人の医か大学生が降りましてそれいがいにも歯医者や経済学に学んでいるのがおったのです、それも両親は農業をしながらです、本土人にはおりませんでした。さて自分の出身地を褒めてばかりいるようで恐縮していますけど。自分に誇りを持っていたら次の世代も自分のアイデンテイに誇りが持てるかとも思っているのです。
2015年4月九日   国吉真一。


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