2012年2月22日水曜日

随筆         人間の体

人間の体は年と共に衰えていく。体力も弱り,若い頃は60キロ担ぐのはなん
でもなかった、現在は30キロでも負担を感ずる。歩く事は出来ても走ること
はできない、尚、片足で立つことも難しくズボンをはくのに、壁に寄らねばな
らない、倒れる恐れがあるからです。娘が言うにはパパイは以前は家族の団楽
に加わったけど、今はテレビかIPADを見ていると語った.それも耳に障害
があるからなのです。、始めに現れるのが目で見えにくくなる、年馬のように
目の端に目くそが貯まる、メガネでカバ―出来るけど、それでも白内障になる
と治療して見えるのがよくなる、次に現れるのが耳が聞こえにくくなることで、
私の場合電話を左耳にあてると全然聞こえないので、初めて医者に診てもらっ
たら、脳との繋ぐ神経が機能しないことが判った、補聴器を使用するように言
われて、耳によって適した補聴器をはめたけど、面倒で使用がうるさい無駄な
雑音も大きく聞こえるので、使わずにいたっている、人間の体は自動車のよう
に部品を変える訳にいかない
今のところ、人との会話は何度か聞きなおして理解できるのです。テレビです
と音量を上げて聞き取れますけど、家族の者が隣の家に遠慮して下げるように
言われる、たとえポルトガル語でも字幕があるとつい読むことに熱中する、の
で読ものも早くなっている、多分脳に集中力が高まり理解力も早い、人々が集
まる講演や、のど自慢は雑音に取られて聞きにくいので、頭で考えて自分なり
に理解する、。読むことだけは衰えず、現在タブレットを買って毎日日本の古
い小説を読んでいる。タブレットの機能は素晴らしく、インターネットの機能
もすべて備えて電話や写真を撮るのにも使えるし、FACE BOOKには簡
単なメールや写真を載せて、知らない人ともお友達が出来るので私のような老
人には若い人との付き合いができるのです、、2012年2月19日 国吉真一

2012年2月12日日曜日

随筆   母と子

私は二人の孫を母親と一緒に育てる体験をしている。私自身は多くの子「九人」を育てたのですけど、あの頃は生活と時間に余裕がなかったのであまり思い出が残っていない、しかし孫は時間にも余裕が出来、よく成長を観察することが出来た、また。60年近くの結婚生活で夫婦二人だけの生活もした経験がない、いつも誰かが一緒にいて家族のにぎわいを味わっている。孫は二人とも男で、しかもアイの子で私の子とは顔の形も違う、私の九人の子はどこか両親に似ていて姉弟もよく似て他人から見ても私の子だと察しるようです
然し孫はどこも祖父母に似た所がない、それでも月日とともに成長する姿を観ることが出来る、始めは抱くことさえ難しく抱えた事も、少しで、だんだんと首を持つようになり、座り始めて四つん這いで歩き始める、このような人間の成長を観て、なんて人間は成長に手間が係るのだろうと思う、動物ですと生まれてすぐ歩き出すのに、でも、現在母は楽に子育てが出来る、べビー用品で総て間に合う。また予防薬も完璧で誕生日を迎えるまで病院へ行ったことが無い。亦、玩具も多彩で子供の成長「脳」を促している事でしよう。それでも人間の子育ては他の動物と比べて世話をかけて育つのだ、とくに母の愛情無くしては社会に送り出せない、私の娘も一人で子を育て大学までやり、職業人として一人前にして、母と子はまるで姉弟か恋人の様に中が良い、私の母は小学四年で働きに出た、私は高校までで社会人、私の子は大学まで、孫は大学卒業後も外国語かまたは大学院課程を勉強しているようです。現代の社会が必要なのかもしれません、社会構造が複雑で専門の知識が必要なのでしょう。その子に恋人が出来て、いずれ結婚すれば、母はわが子を離さねばならないので、海外への旅行も二人で楽しんでいる、あたかも別れを惜しんでのようだ、母はいずれ公務員も退職して一人になると侘しい思いになるだろうと察する、私夫婦も年を取り傍にいてくれればと思うけど、なんで姉妹が多いのに私だけが親の面倒を見るのかと、意見することも在ると思うので自然のなせるがままにしている。世間を診ると経済的に余裕がある家族は親子孫まで一緒の家庭はまず少ない。日本やブラジルでも農村には仕事状、親子一緒に住む家庭はあっても、都会には少ない、いくら夫婦仲が良くても二人暮らしは、話題も少なく、テレビを相手の暮らしを予想している、今日まで子や孫が多い故か毎日曜日は誰かが一緒にいるので侘しい思いをしたことが無い。いずれ覚悟はしても、年老いての一人暮らしは思っただけでも胸が痛む
2012210日 国吉真一、

2012年2月4日土曜日

小説      相続人

僕には三つの顔がある。読者は誰も一つの顔しかないのにと不思議がる事でしょう。
その訳を次のように説明います。まず僕の名前は「仲間進」です。同じ名前が知っているだけでも三人はおる。しかし同じ顔は僕一人だけです。しかも顔は父母から授かったもので、勿論才能も技能も親から頂いております。人間の才能は努力によって磨かれていくと言われている。技能も努力すれば上達するのは当然です。僕はブラジル二世でブラジルの身分証明も持っている。でも日本で育った故にブラジル人の様にぺらぺらしゃべれない。どこか一世のようなアクセントがある、よくブラジル人は僕の事を おい ジャポネ―スと呼ぶのです、これが一の僕の顔です。それでも僕が日本人としてのアイデンテテだと考えるようになった。これは僕の第二の顔です。勿論小学校から高等まで日本語で学んだ。精神的にも日本人なのだ、小学四年の時戦時中で竹槍訓練や手旗信号も覚えさせられた、軍歌も歌えさせられた。沖縄ではまだ沖縄の方言が使われていて徹底して標準語使用の為に学校で方言を使う事が禁じられていた、方言で話すと方言札の罰金を施していた。でも家庭では祖父母始め僕との会話は沖縄語でした、それが僕の大三の顔で沖縄人の顔なのです。僕が小さい時兄と二人を沖縄の祖父母の許に返された。祖父母は先祖からの習わしをよく守り、一日と十五日には仏前にお茶を供えて家族の健康と繁栄を祈るのでした。祭日にはご馳走を供えてご先祖からの安泰を願う祈り事を沖縄方言で仏様に話しかけるのです。その家督相続の為に兄と二人の沖縄帰還でした。父は戦争が激しくなると帰れなくなるかも知れないとの計いであった、父が計画どおりお金がブラジルで儲かっていないのも一つの理由でした。
僕の祖父は村一番の財産家で田畑や山を所有していた。山の麓には田んぼが広がり裕福な家庭でした。山には川があり川には珍しい石ころが沢山あった。村人は名も宝山と呼んでいた。祖父は山を掘って宝が出たら村人も裕福になると考えて、村の人を雇ってトンネルを掘る事にした。一か月経ても出てこないので技術者を雇って土壌検査をして診て始めて、山には鉱山に相当する物質がないことを知らされた。その時には銀行にも多くの負債を抱えていた、僕の父は長男故に財産を整理して外国で稼いで取り戻す計画でブラシルに移住したようだ。
兄一人は心細いので僕も一緒に祖父母のもとえ返された。兄は戦争中に学徒出陣で死亡した。祖母は後に兄の遺骨を先祖のお墓に収めえぬことを嘆いたことを僕は憶えている。祖父は何時もわしの借金故に貴方の父は命拾いしたのだ。沖縄にいたら兵隊に取られて死んでいただろうと言われた、僕は、でも兄さんは沖縄へ帰らなければ生きていたはずだと答えると。なるほどねー。戦争はもういやだ、よくも子孫は平和なブラジルへ移住してくれた。その後しばらくして亡くなられた。村人が集まり、村のリーダ^として最大の葬式が行われた。高校卒業後祖母と共にブラジルに帰って来たのだ。先祖の財産は叔父たちが守る事に祖母は決めたていた。
僕の人生が沖縄の風習に振り回されてきて青年になった。僕の頭には小さい時白人の子と遊んだ記憶がある、僕の名前がマルコスだったのも友達は呼んでいたように覚えている、
僕には弟二人と妹が生まれていた。父は三男を歯科大学へ四男を農科大学へ妹も教育大学へ勉学させていた、僕もブラジルへ残れば大学へ行けたのにと、何かも兄弟と比較した。僕が今からでもポルトガル語を勉強せねばと考えるようになった。父は日本で中学を卒教していたので子弟の教育には熱心だった。植民地の日本語教育にもリーダとして尊敬されていた。戦争中は認識派として勝ち組から命を狙われていたと後で語ってくれた。僕が家を継がねば成らぬけど、どうも父と僕は弟たちの様にしっくりいかない事か良くあった。でも母とは打ち解けて話すことが出来た、僕が祖母の許で自由に育った故か、父が厳しいのか、とにかく溝が出来た、父もその事に感じていた、弟たちは僕から難しい日本語を理解しようと話しかけて来た、また難しいポルトガル語も教えてくれて、兄弟の中はしっくりしていた。でも、僕は兄弟に対して劣等感を持つようになった。ぼくは早くポルトガル語タッチしようと辞書を頼りに週刊誌や新聞などで勉強した。あるとき組合の講習にも参加した。講習では多くの戦後移住者と友達になった。隣の植民地のある女性とも知り合いになり、お互いに好意を持つようになった。彼女も二世で日本語がよく話せた、植民地のポルトガル語の先生をしていた。名前は加藤幸子で十八歳でした。たまたま僕宛に生徒に手紙を持たせてくれた。手紙には次のように書かれていた、進さん、突然手紙を差し上げてごめんなさい。私は進むさんが当地の二世と違った知識を持っているのは多分日本で育った性でしょうね。私は日本の事がもっと知りたいですお友達になりたいからお願いします、幸子よりとあった。僕は次のように返事をだした、二世ですけどあまりポルトガル語が話せないので、貴女から教えて戴くとありがたいですと、書いて、植民地の生徒に返事を持たした。僕は日曜日に彼女の家に遊びがてら行った、幸子の兄は僕を快く迎えた。然し彼女の父は良い顔をしなかった。それでも兄が幸子も呼び出して一緒に話すことが出来た。加藤家はコーヒーを引き抜いて綿を栽培していた、幸子の下にも三人の妹がいた、兄は小学校だけでて父を助けて働いていた。僕は沖縄の習慣により先祖の跡継ぎで沖縄へ返されて沖縄で戦争に遭ったことを幸子に語った。兄は日曜も綿畑の手入れに追われていたので、それでもまた会う約束をして僕は家に帰った。家に帰ると僕が佐藤家を訪ねた事が知れて、父は激怒した。その理由を次のように話した。佐藤家は戦争中勝ち組で、わしの命を狙うとした一人ですから交際していないと言われた。でも僕は反発した。戦争が済んでもう十五年にもなり、未だに日系人同志が和解できないのは自我をはっているだけで。二世の僕たちには人間の難しさは判らない。もし僕が好きになったらそれでも反対かと尋ねた。父は日本人の娘には沖縄の習慣は理解しないでしょうから。貴方はこの家の跡継ぎだから沖縄人の娘をわしが世話してやると言った。その事で次の日曜に家族で集まって会議を開いた。兄弟と妹は僕の味方になって父を説得した。祖母も沖縄でもヤマトンチュを嫁にした家がたくさんおると、父の考えが古いよと祖母も味方になった、母はあまり口だししなかった。仕方なく父は佐藤家へ足を運んだ。でも自分の方が正しいのに自分から和議を申し入れるとはと、内心納得できなかった。いかに話を持ち出すか考え出した。その理由を戦争が起した民族同士の争いに巻き込まれた故で、戦争は終わって俺の息子も一人は無事で帰って来たので過去の事を忘れて。子らの為にお互い力を合わせましょうと説明しようと考えた、それでも息子の進が兄弟と違って祖母の許で育てられたことへの思も込められていた。佐藤家では突然の仲間善三の訪問にびっくりした。始め長男が出てきてこの前貴方の息子の進に会い、頼もしい青年だと褒めた。善三も日本語はともかくポルトガル語が不十分でと返事した、そのとき父の勇次がでて、長い間のご無沙汰を詫びた。お互いに気も晴れて今後の農業について話を交わした。夕暮れに父は帰ってきて食卓を前に僕を読んで事の成り行きを話した、君がいなかったら俺たちは死ぬまで和解することが無かっただろうと述懐した。
その後僕は良く幸子に会った、沖縄の学生時代は僕が外国二世で村の友達ともあまり仲良くなれなかった。多分アメリカは北も南も同じように考えていたのだろう。幸子は戦争の話を聞きたがった。僕は食べ物が不足して自然の草木で毒のない者は何でも食べた話をした、会う度に僕の彼女を愛する気持ちが深くなった。一緒にいる時間が早く過ぎる感じがした。父は良いことは早める方が良いと佐藤家に相談に行き婚約の日取りを決めた。来年の一月の中頃であった。僕の父は幸子の父と会って結婚の会場を植民地の会館に決めて、日本語の先生を媒酌人と決めた。母は妹が街に住んで、空いた部屋を僕ら夫婦の部屋にあてた。
結婚披露に三百人の招待客が詰めかけた。まず父はわが子が戦争で生きて帰り本日お嫁を迎えることが出来た、戦争で出来たコㇿ二ヤの傷を埋めることができた。お互いに日系発展の為に手を取り合って行きましょうと挨拶した、また日本語の先生も仲間家の繁栄に皆で乾杯と万歳を三唱した、僕は幸子を抱きしめたい気持ちで早く終わればと思っていたら、弟が街にホテルを予約してあって一周間の新婚旅行にでかけた。僕は戦後移住者としては恵まれていた。幸子は相変わらず植民地の先生に自転車で通った。午後は家族の洗濯や家のあとかたづけに日が暮れていった、母も五人のカマラーダの食事に忙しく働いて、幸子のお蔭で少しは楽になった、僕が使用人と働き、父も少しは楽になった。幸子は、つわりで吐き気をもようし母は妊娠していることを告げて。あまり無理しない様にようにさせた。それでも学校は通った。幸子は自分の給料で出産の準備ができて僕も父から小遣いを願うことなく父は僕に一斎をまかすことになった。
祖母は女のひ孫出来たのを喜ぶと、すぐに他界した。父母も孫の生まれたのを幸いに沖縄訪問を計画した、沖縄の叔父の許に父の弟の遺族金が貯金されていて、また財産の整理もするので僕は、旅費を用意する必要がなかったので助かった。長女生まれて二年になると次女が生まれた。三女の生まれるとき難産で苦しみ、それが許で三女の洋子はミルクで育て幸子の回復を期待した。その後風邪がもとで肺炎を患い三人の子を残して他界した、僕は途方にくれた。長女の博美が4か月の妹奈津子のおしめを変えたりして手伝ってくれた、父母も年が重なり。使用人を二人にしていた。隣の白人から日雇いを入れて農場を運営した。また幸子のペンソンも市役所が出してくれたので、外人の女中を雇い入れた、僕が幸子の亡きあと苦労しているのを知って。幸子の兄は妹が幸子の後を継いで先生をしたのを幸いに、手伝いを兼ねて、僕の家から通う事にしてくれた。幼な子は皆に守られて成長した。父母が母国より財産を整理して、半分は弟の名義に変えて山は軍用地として毎年借地料が入るので残し、僕の故郷訪問にと銀行に預金することにしてあった、多くの資金を手に入れて祖父の遺骨も持ち帰って来た。農業経営も楽になり、弟二人の結婚にも余分のお金を分けてやり、土地は僕の名義だけにすることにしてくれた。僕の妹も務めており。結婚した時の支度金として銀行に預けてあった。父はある点では沖縄の風俗を守り、ある点ではブラジルの習慣を取り入れて、僕の兄弟妹を同様に配了した。父は御先祖の位牌に祖母が行って、いたように一日と15日と祭日をお祈りしていた、多分祖母の様に沖縄語で話さないけど心の中で同じことをお願いしているのだと僕は察した、僕は。理解ある父を尊敬した、時が立ち。父が去り、後を追うように母も去った。僕は自分が家に取り残されたように感じられた。形見の三女奈津子は母の幸子にそっくりであった。幸子の妹の玲子は長女とよく語り会っていた。僕の長女は玲子姉さんと呼んでいた、次女だけがむっつりしてなじまない。自分の母が恋しいのだろうと僕は感じた。ある日、一人の青年が玲子に会いにきた。何分兄さんからの紹介でした。玲子は恐れながら青年に会った話によれば隣街のス―パーの息子のようでした。でも僕は動揺して脈拍が早くなっていた。僕の何処かに妻にしたい思惑があったのだろう。でも年齢からみて15歳も隔たりがあった。なお死んだ幸子にも遠慮していた、僕が再婚に踏み切れないのは。またお産で苦しんだ幸子を思うと胸がせまって踏み切れないのでした。でも玲子のはつらつとした体を看ると、男の気持ちが揺さぶるのでした。僕は勇気を持って玲子の青年に対する意見を聞いてみた。玲子は次のように話してくれた、商売人は何でも皆お金に計算して考えるようで。ここまでTAXIで来てなんぼお金を払ったとか,ス―パーでは一日にいくらの金がはいるとかで、うんざりしたと答えた。僕はお金があれば楽なのでなんでも欲しい者が買える、貧乏人よりは良いだろうと内心嬉しいながらの質問をした。玲子は兄さんのような男はめったにいないのよ、博識があるし、思いやりもあるし素敵な男性だよね。僕は思い切って僕の妻になっても良いと思うのかと聞いた、玲子は兄さんが好きですと答えた。でも僕は15歳も年上でお前よりも早く死んだら早く未亡人になるんだよと言った。でも人間の運命だれも知らない。幸子姉さんだって進さんより3つ若いけど早く亡くなったでしょう、その後は玲子の態度も攻撃的になり、お風呂上りの肌着も薄くなり健やかな体の線がみえるのでした。夜遅く堪らなく彼女の部屋のドアをひねるとあいにく鍵入っていなかった。僕の足音に気付いたのか座り僕をさそいいれた。僕も忘れかけた女との喜びが蘇り彼女の意気も荒々しくなった。翌朝は気づかれぬように自分の部屋に戻った。その後子供たちの前では兄さんとは呼ばず、貴方と呼ぶようになった、長女もうすうす感じていて、玲子から説得するように計らった。
二か月もすると玲子は妊娠していることをつげた、僕は男の子でありますように仏前に線香を立ててお祈りした。幸子が三女を妊娠した時あれ程男の子を欲しがり、命まで奪われたことを思うと切なかった。その事を玲子に話すと、彼女は姉さんが出来なかった男の子私が生んであげると、簡単に生めるように話した。早く事態を玲子の兄に報告した。兄もある程度察知はしていたようでした
僕は街に家を買い求めて玲子の仕事も街に出来るように市役所にお願いした。僕は街から農場へ通う事にした。土地も殆どがキビ畑になり、使用人は一人だけで管理した、幸子の様な難産にならぬように、お医者に診てもらったらついでに、ウ‐トラソンで性別も知らされた、男の子でした、僕は有難うと玲子を抱きしめた。街の自宅では僕の弟妹を招待して亦玲子の兄も呼んで結婚の披露をかねて夕食に招いた。僕は仲間家の跡継ぎ三世が生まれることを継げた、僕が沖縄の家督相続の習慣故に振り回された、僕の人生に若い頃は疑問に思っていた沖縄の家督相続を幸せな今日、ご先祖に見守ってくれて有難うと自然に手を合わせて拝むのでした、

2012年1月13日金曜日

沖縄の米軍基地

此度 「運命の人」との題名の単稿本4冊著作山崎豊子著を読んで感ずる事が多かった。まず著者は大地で、中国に日本敗戦に残した少年の人生を書いた物語で有名です。実際にあった話の様に書かれて国民の感動を得たので。つい運命の人を読んでみた
物語は沖縄の日本復帰からすべて沖縄軍用地に関する物語で。私の今日までのウチナンチュとしての軍用地に関する意見が明確になった感じがする。沖縄が戦前日本で最も貧しい県だったのが戦後ヤンバルノ僻地まで暮らしが良くなったのは、アメリカ軍用地のおかげだと思っていた。軍用地故に起こるいろいろな問題を考えた時、長年にアメリカの軍用地化するのは沖縄民族の自立心を見失う結果になる恐れが有るように思われる。沖縄が薩摩に占領されて以来今日まで日本政府の為すがままになってきた感がある。今度の普天間基地移転にしても沖縄県民は県外移転を訴えている。確かに借地料を受け取る地主には働いて得る土地からの収入よりも利益があるのかもしれない。それでも県民は物質では得られない精神的に安心できない将来への不安を持っているのです。沖縄の日本復帰無くして戦後は無い、とアメリカと復帰交渉の際に条件としてアメリカ造築した道路や配電施設や水道施設や港湾施設を譲渡する条件に日本は1200万ドル支払う条件とした文書が交わされた。その中に400万ドルは幾つかの軍用敷地も返還することに協定がむすばれた。しかし基地返還しても農地と使用するには費用がいる、その費用をアメリカが払ってもらうよう交渉した。アメリカ議会は今日まで日本を守ったのはアメリカだと支払を拒否したので佐藤首相は日本の国民の税金で払ってまでしては国民が納得しえないので、アメリカのファンドに預金して払う約束を外務省を通じて公文書秘密として国民が知らずにいたのです。ある新聞記者が文書秘密をもちだし高等裁判まで争った,新聞記者の指名は国民は知る権利があり、新聞は知らせる任務があるとの理論から裁判が行われたのです、
そのご記者は沖縄に住みつき日本人に戦争犠牲とその後の米軍との問題を国民に知らせたのです。「運命の人」を読んで自分の生まれ島の県民の感情が解るようになった。ウチナンチュである以上軍事施設のない平和な島になって欲しいと望むのです。、

2011年12月31日土曜日

沖縄の家督相続

沖縄の家督相続は古くから伝わる習わしで民法により男女同権を定めているけど、未だに男子が継ぐのが掟で、その根拠は、掟を外れた場合にはその子孫の繁栄はともかく、不幸が重なると言われているので守るようである。相続にも序列があり、長男が家と屋号をつぐことになる.もし長男に男子がいない場合、もしくは14歳になり死亡した場合でも二男の二男が継ぐ習しに定められている。選ぶ訳にもいかない定めなのです。沖縄の風習がどうしてなのか考えてみた事がある。ある程度自然の法則によっているようにも思われる。私はㇿ-タリクラブで模範農業者として褒賞されたことがあった、その時貴方の年齢で農業に邁進する原動力は何かと問われた。私は次のように答えたのです。農業は土地に携わる仕事で。土地には人間に判らない事が沢山あるのです。たとえば同じ土地にピメンタを植えると辛い物が出来るし、またべテラバを蒔くとあまいものができる。同じ土地なのに種によって各も違ったのができるのです、小さい種のなかに各も違った遺伝子が組み込まれているのに不思議を感ずるのです、それだけではありません、ROBERTORODRIGUES前農務大臣の話によればサトウキビの原祖は竹から.進化したと言われる、種の進化について、牛で説明すると、ブラジルの牛畜産には二種類あって一つは肉牛で二番が乳牛です。肉牛は短期間で肥育し体重が重いように改良されてきた。選り抜いて最高の品種の精子を求めてきたその値段は何百万レアルもするので精子の値段も驚くほど高い。亦乳牛は雌が主体で改良されてきて、良い品種は多くの子牛を生むために受胎すると別牛のお腹で育てている。今少し自然の動物の世界で子孫繁栄を維持するために、ライオンは力の強いオスだけが種付けするようです。このように子孫の繁栄は男つまりオスにかぎる自然の掟です。日本の皇室も男子相続で一時男子の孫が生れず、女性も継承できる法律の学者を招いて検討した、話によれば畑は女で、男の遺伝子が血統を継ぐと考えたのです、幸いに男子の孫が生まれので議論は消えたのです。しかし沖縄で一族の相続で色々の問題が起きているようです
20111230日国吉真一.

2011年12月10日土曜日

2011年度を顧みて

今年も終年に近付いている、振り返って思う事を書いている、まず経済的には最高の年と言える。気候に恵まれて総ての作物が豊作であった事、そして値段も良かった事が農業者を潤したのです、次は家族全員が健康に一年を過ごし年末を迎えた事、私自身は年を重ねるごとに悟りへて幸せに思うのです、まず自分自身が幸せであれば自然と微笑み、顔に笑顔が現れ、また、モチヴアションも湧く,自信も生まれる、その事自体が会う人々にも良い印象を与えて幸せを与えるのだと思うのです、、今日までの歩んだ人生を演劇で表すならば、第一幕が自分の生まれた故郷の友達や村人達との交わりが、自分の性格に影響を与えたのだと思うのです。大二幕がブラジルに移住して得たお友達。主に戦後移住者の仲間、日本人会を通じての二世達、そしてブラジル人、主に農業者やカトリック宗教関係の友達や、組合関係の人々ですが、仕事が年と共に縮小するので人間関係も遠のき、家族の絆の大切さを感ずるのです。特に今年は身近な叔父や叔母を亡くして、また妻の兄と妹の夫も亡くしたのです。自分が取り残されたような感じがするけど、また神様はこの世に私を必要としていると残って居るとおもうのです。でも自分では終盤の幕を演じていると思われる。お友達が去る中で若い世代との繋がりがインターネットのFACEBOOKを通じてお友達になりメールを通じて多くの誕生祝いの言葉を頂いて幸せを感じております。
やる気を起こさせるのです、今後の目標は誰にも任せることが出来るようにコーヒー園を縮小して大豆かサトウキビに変更することで経営簡素化を計る計画です。

2011年11月26日土曜日

ブラジルの農業機械化

ブラジルの農業の機械化は大豆や綿、トウモロコシの栽培が機械化されてからだと思われる、それまでは労働者と馬が使われていた。ので、大面積になると。歩合作で経営されていた。70年以後はシチアンテでも小型のトラクターを所有するようになり、農業の機械化は進んだように見えた。殆どが農業融資を受けての購入ですから、農業者は殆どが銀行に借金ができた。天候不順で不作にでもなれば
借金は払えず翌年に持ち越された、また機械化により表土の流失も激しく、有機質の消耗も重なり、大豆や綿の種も購入し、肥料も施しての栽培ですから経費は50パーセント以上にもなった、機械化するようになって利益は減る一方で借金は膨らみ、土地を手放す農業者が出始めた。また余裕のある人は土地を広げて大型の機械化が進んできた。その時以後は不起耕栽培が導入されてからは表土流出や、種の出芽もよくなり,気候による損出はほとんどなくなった、近年には農作物の世界の世界市場が倍以上にもなり一層の大型機械化の道を歩んでいるといえる。特に広い面積のあるマットグロッソやバイヤでは土地が平坦なうえに農作物に気候が適して一年に二期作物を栽培して。機械もなお一層の大型化している、植え付けも5倍以上の面積をトラクターつで引っ張ってコンピウターで操縦しているようです。サトウキビ栽培も機械化が進み80人以上の労働者の仕事が機械一人で収穫し、しかも夜も休みなく働きますから工場もフルに運転している、運搬業もトラック一台で3台の車体を運び経費を節約している、また綿栽培に於いては多くの労働者を必要とでしたが、現在は植え付けから収穫まで皆機械化されている、コーヒ―栽培も平坦な土地では機械化が行われている。それでもまだ人での収穫が多いので労働賃金が上がれば機械化せねば生き残れないでしょう、」それ以外にも農業分野で目立つのは品種改良で、収穫が20パーセントも多くなっている、また除草剤の大量使用も大量生産に役立っている。現在のブラジルの農業はアメリカの農業生産に近づきつつあり、生産可能な土地はまだいくらでもあります