2011年5月9日月曜日

夫婦船 - みーとぶね

しき    は
世界や果てなしぬ 
ふなじたびぐくる
船路旅心
みーと    ふか
夫婦やか外や 
たよ
頼りならん
かな みーとぶね
愛し夫婦船

うとう  ふばじら
夫や 帆柱に 
とうじ  ふなぐくる
妻や 船心

いちゃる   なみかじ
如何なる波風ん 
とむ
友どやゆる
かな みーとぶね
愛し夫婦船


ふに   ふばじら
船と 帆柱や 
うきよかじ
浮世風まかし
ごくらく みなと
極楽ぬ港
ち      ま
着ちゅる間や

かな みーとぶね
愛し夫婦船

たげ    ちもあ
互いに肝合わち 
ひし みーとぶね
走り夫婦船
とち  く
時ぬ来るまでぃや 
漕がねなさみ
かな みーとぶね
愛し夫婦船


たゆ     だる
頼るなよ誰ん 
みーと
夫婦かながなとぅ
ひび   く    かた
日々ぬ暮らし方
わら  ふく
笑い福い
かな みーとぶね
愛し夫婦船


tradução para o português
(prof Maria Tomimatsu - UEL)


Navegando a Dois
O mundo é como um coração de um viajante
Navegando pelos mares sem fim.
Com quem iria contar,
Senão con seu parceiro, Nave Amada.
O marido, o mastro; a esposa, a própria nave.
Bravas ondas, violentos ventos.
Sempre unido em piores momentos, Nave Amada.
À deriva do vento deste mundo flutuante,
Fica a nave como mastro,
Até que aporte no porto do paraíso, Nave Amada.
Deslize, pois nave casal,
Afinando seus corações,
Reme, pois, até que chegue a sua hora, Nave Amada.
Viva emharmonia o seu cotidiano
Aos sorrisos, felizes,
Pois não há ninguém mais
Com quem contar, Nave Amada.


Canção originária de Okinawa, arquipélago do sul do Japão.





ま え が き

 今年結婚五十年を迎える。子供達が祝う事を企てているようです。 私としてはもっと大切な、何時までも残るようなのはないかと思い、つい自分が書き残したのを本にすることにした。本なら自分の代々の子孫が自分の先祖はどこから来て、どんな事をして、どんな事を考えていたのだろうかと思い、そのルーツを辿るのに役立つのではないかと思っています。それには日本語を知り、日本の文化にもふれて理解できるようになる事を願っている。
 まず、私はほんとに幸せ者です。第一に自分で惚れた女性、千代と結婚できたこと、そして九人の子が身体何不足なく生まれ立派に成長したこと。ただ、六女の美幸だけが不幸にも亡くなりましたが、それ以外は良き職業人として働いていることが、父として頼もしく思い、十人の孫も年上が大学を卒業し、次々と国立大学に入学しておりますので、長生きして見守りたい。それに私達夫婦をとりまく、叔母様方や義兄弟、多くの従兄弟達と私達夫婦との人間関係は素晴らしく、みな善い人たちなのです。人間の幸せは、自分を取り巻く人間関係によって生まれるような気がするのです。
 私は日本の沖縄の北部、宜野座村、惣慶村に、家は母の実家で屋号は前漢那小で生まれた。母は次女でウシ名で、小学生の頃は優等生だったようです。 出稼ぎに大阪に行き父と知り合い、私が生まれた。私は母の実家で育ち、小学校から高校まで宜野座で暮らした。
 1951年12月の初めに呼び寄せで祖父母の住んでいるカンバラ町のチジュコ・プレット植民地に移住した。植民地に着いた頃は多くのバナナが植えてあり、みかんの木もいろいろあり、それ以外にマンゴーやアバカテ、果物の豊富なのには驚きました。豚や馬は牧場に放され、鶏は自然に放され、肥育豚は囲われてトーモロコシとカボチャで養われていた。 豚は自家用の脂や食肉に一頭もつぶされた。こんなに豊かな国に珍しさと驚きでいっぱいでした。
 2年後に祖父母の家庭と分かれて私達親子三人で生活することが出来た。貧しい家で、屋根はパルミットの上に瓦を載せ、床は土で埃がたった。3年後には祖母より500クルゼイロを借り受け、それも2年で返すことが出来た。家も板屋に改築し古い移民と似たような生活が出来た。
 その後、私に好きな人がいる事が知れて叔母を通じて結婚を申し込んだ。彼女には沢山の男性から結婚の申込みがあり、私が一番貧しかった7が、結婚しても良いとの返事をいただき、私は有頂天になった。 夜も昼も彼女のことを思った。
 1956年、クリスマスも間近に結婚式を挙げた。植民地の人々が鶏や豚などを出してお祝いが出来た。1年後には長女が生まれ、その後次々と一年越しに次女、三女、四女と生まれた。私にはこれ以上大学まで教育できかねるので、母にこれ以上子供を生まないことを言った。母は泣いて、苦労して移住したのに家の跡継ぎがないことは移住した甲斐がないと嘆いた。やむをえず又も五女が生まれ、六女、七女、そして八番目に長男が生まれた。母は大喜びで親戚を集めて祝った。そのときは遠く離れた仲田や安義、松田の家族もお祝いに集まってくれた。
 子育てと休む暇もなく仕事に追われ、千代は肺を患った。2ヶ月以上兄英秀の家で療養した。現代のペニシリンのおかげで完全に治った。その間にも隣の新垣叔父の土地を買い、続いて松さんの土地、そして真吉叔父の土地と、全部で28アルケールの土地になった。
 今思うと運が良かったといえる。それと母が子育てから畑仕事まで手助けしてくれたお蔭です。周りの人々、叔母や義兄、従兄弟達のお蔭なんです。
 結婚50年、長いようで短い歳月でした。体力はだんだん衰えますけど、頭だけはしっかりとしたいものです。
 この50年、あっという間に過ぎたようである。 ふるさとを離れてこのブラジルに移住し、この国を愛し、各国の人々の中に沖縄人であることに誇りを持ち、自分の子孫の種を蒔き、この国の土地にしっかりと根を下ろし、繁栄することを願うものである。

私の生い立ち -漢那家-

 私は1951年12月10日にブラジル国へ永住して来た。それにはいろいろな事情があります。国吉家の祖父母が私の父を沖縄に残してブラジルに永住したからです。私の母と父が大阪で深い関係になり、母は私を身ごもり、私は母の実家、漢那家で生まれ育ちました。その頃は実家には叔母の苗さんと安さんがおりまして、母とそして祖母と4人の女性の影響を受けて、愛情こまやかに感受性の高い少年に育っていたようです。 
 私の生まれた漢那家はもともと母のおばあさんが與那原の船道と一家を持ち、私の祖父安貴氏を生み漢那家を名乗るようになり親子で生活し、親戚の子供も預けられて一緒に暮らしたようです。その中には伊芸のおじいさん、仲間源助さんがおります。翁長林亀さんも苗さんが子守りをして漢那家に出入りしたようで、孫の松田源助さん、妹のつるこ、仲田清次も漢那家で生まれ育っております。また苗さんの話では 漢那家に生まれ育った人は皆子宝に恵まれているとのようです。第二次大戦後も松田家、上地家の家族がお世話になりまして、それ故か、従弟同士も兄弟のような感じがするのです。
 私は漢那家の四人姉妹の若い頃を思うと4人ともきれいな娘だったような気がする。 なかでも苗さんは背も高くずば抜けて美人で、その名は金武の青年の方まで伝わり、郵便配達人など漢那ウトーに会えたことを自慢にしていたようです。そのことは昔話に母が語ってくれました。
私の祖父は沖縄が大和世になった時の初めての小学入学生で、日本語に通じた人だったので村の区長や役人を務め、計理に詳しく重要な人のようでした。また、祖母は翁長家の人で、昔王宮に勤めた家で廃藩後、村に移り住んだ侍のようで、昔の習慣に従い士族は士族と結婚したようです。母の話によると、姉のかなさんが百姓の松田冊吉さんと結ばれた時おばあさんは大変嘆き、残りの娘たちに百姓の男と結婚してはいけないと厳しく言われたようです。
 そのような訳で母が大阪に出稼ぎに行ったとき、大阪に住んでいた翁長のナベさんが国吉家の人と結婚していましたので、ナベさんの世話になっている時、たまたま国吉家の私の父が訪ねてきて母と知り合いになったようです。ナベさんの勧めで結婚を約束し私を身ごもり、母は沖縄の実家に帰り私が生まれた。父はまた別の女と仲良くなり約束は果たされなかった。
 5年の年月が過ぎ、父は軍人として勤めている時にケガをして病気になり、死も近くなった時、母は私を連れ看病に駆けつけ最期を看取ったようで、その後初めて私は当名地家の孫として認められ、国吉姓を名乗るようになったようです。

国吉 牛 家族

 私の祖父、牛氏について昔のことを記憶のまま記しておこうと書いております。
 祖父牛は沖縄の南部、東風平村字上田原で、屋号は当銘地家の地名で村でも土地の多い家でいつも雇い人を使っていたようです。それでもあの頃は生活が貧しく、次男の牛さんまで土地を与えることは難しく、外国で稼いで5年くらいで帰り土地を買うのが目的で、沖縄に長男と長女を残してブラジルに移住したのでした。まずモジアナに配耕され、2年後ジャカレジーニョに移りパラナの土を踏むことになる。4年後、自分の土地をアグア・ド・ヴィエイラに求めて地主となる。その後面積を大きくする目的でタクアラに土地を買い移る。その間にツルコ、カメコ、真寛、清子、真吉が生まれ安定した生活が出来るようになった。
 牛さんは無学でしたけど、頭がよく、考えてあらあらの計算は出来た。自分が無学ゆえか自分の土地に学校を建てることを実践した。また同県人の世話もやり、金を貸して土地を買わせた。その後タクアラはマラリヤが多いのでチジュコ・プレットに土地を買い換えた。コーヒーの景気に逢い生活はなお良くなった。
 牛さんの家族構成で来られた甥の真保さんは師範出で頭の良く切れる人でした。沖縄にいても目立つ方だったろうと思いました。ポルトガル語の良く話せる方で、ブラジル中を移り住んだ人でした。働かずにお金を儲けようと考える方でしたので家族は苦労したようです。
 もうひとり祖母の兄弟に国吉アントニオさんがおります。2人の息子ルイスとシルビオがおります。孫、三代になると多くの大学卒業生が出て、祖父の意志は立派に受け継がれていることに孫のひとりとして敬意を表します。

国吉家と独立

 私が国吉家の長男として生まれ、ブラジル国へ呼び寄せられた故に、漢那家の子孫の歴史が変わったのです。まずその後、松田家の家族、冊吉と亀、久雄、正義、藤子、勝子、義彦がブラジルへ移住し、その家族と一緒に上地家の安勝も17歳でこの国にやって来ました。その後仲田家の家族、幸太郎、安さん、昇は先に開発青年で来ていました。その妻光子さん、幸子、幸夫、清次、則夫がおります。その後幸夫は日本で勉強したく10年いて帰り、建築士の資格を取り沖縄で活躍することが出来、自分の運命と歴史を変えたひとりなのです
さて漢那家では上地苗さん家族が住み、安勇は父のもとで工業高校を卒業して、独自で警備会社を設立して、今日では沖縄でもトップに立つ会社に育て上げました。安勇さんは人々の世話もよくやり、信用を得たのが発展に繋がったのだと思います。安昭は大学卒業後、独自で博士号を取り心理学者として教育界で、沖縄でも優れた人物として知られております。このことも漢那家の歴史を変えて運命を開いたと言えるでしょう。
私は苗さんの88歳のお祝いに出席して、新しい家で戦後母が建てた家を思い出し、漢那家の四人姉妹の波乱にとんだ人生を思い浮かべ、孫達が家を出てゆき、社会で奮闘しながら自分の道を開いて行った歴史を思い、私の母の辿った歴史を想うと懐かしさ、はかなさに涙が溢れるのでした。

運 命

このように、多くの人の運命を歴史づけた母もまた自分の人生を運命づけられたひとりなのです。
母は決してブラジル行きを好んで移住したわけではありません。
私の外国行きへの憧れを満たしたい気持ちと、私の将来を父方に託したい気持ちとがあったようです。それ以外にも安さんが仲田家にお嫁に行くことになり、漢那家に苗さん家族を入れて安心させたいとの思いがあったようです。私達親子三人が国吉家に住むようになってほどほどにも気苦しい思いをするとは考えてもみなかったようです。長年自由に育った私達にとって一緒に暮らすことはお互いに不幸になるようで、2年で別れて独立して生活するようになった。2年間の生活で人間関係の難しさ、嫉妬心、見栄が人間関係をより難しくしているようで、精神的苦労や悩みが私という青年を大人にしたようです。沖縄の学生時代が懐かしく、時間があると本を読み何とか忘れることが出来た。
ついに独立して祖父の土地を耕作してコーヒーを育てる代わりにトーモロコシや小豆を作り、私たちの収入となった。少しずつお金が入りその中から前漢那小家の改築にお金を送った事もあった。日系人の中で私達が最も貧しく在りましたが、前途は明るく母が元気で豚も飼い、また野菜も作り、家の前にはコスモスの花を咲かせ、二世から見れば変わった風景のようでした。

結 婚

3年の年月が流れ、ポルトガル語も覚え、少しずつブラジルの事情も解るようになった頃にひとりの女性を愛するようになった。
まだ中学卒業まもなく、家で親の手伝いをしていた。田舎に住んでいる娘とは違って気品があった。それは学校を出たせいか、あまりおしゃべりせず、隠された宝石のようになお一層美しく見えた。私にはとても及ばない女性に見えた。たくさんの男性が結婚を申し込んだ。私も良く彼女の家に遊びに行った。彼女の気持ちも知らず叔母のカメ子さんを通じて結婚を申し込んだ。私は昼も夜も彼女のことを想った。
その頃は私も5アルケール*の土地を買い求めていた。500クルゼイロを2年で払うことが出来、私も古い移民と同様に土地を持つことが出来た。
結婚の話も始めは断られ、初めて失恋の苦い思いを感じた。心の苦しみを忘れるためになお一層本を読み、現在の悩みが人生にとって小さいことのように思われ、新移民の私にとって彼女は高嶺の花のように思われた。彼女の幸せを願うようになった。
突然結婚しても良いとの返事を持ってきた。私は有頂天になった。しかし母は、彼女の姉ふたりに子供がないことを気にしていた。せっかくブラジルまで来て子孫の絶えることは耐えがたいことだといわれたが、好きな人と結婚することが自分にとって幸せであることを母に言い聞かせた。
その後私は毎日のように彼女の家に行った。二人とも話すことは少なく、私が女性と付き合うことに慣れていない故でもあった。それでも会うことは楽しかった。
20001010日 

*編者註 アルケール:1アルケール=2.44ヘクタール